猫は町を駆け抜ける
晴れ渡る青空の下、清々しい気持ちで屋根を渡り歩く。そよそよとヒゲを揺らす風は、まるで私の心のように爽やかだ。
(あー……リディアありがとう……すっきりした)
まだ、セシリオとの婚約は解消されたわけじゃない。けれどリディアの強烈な平手打ちが、私の鬱憤を見事に昇華してくれた。
頬を打たれたセシリオの顔。最高だった。自分がなぜリディアに見限られたのか、理解できないような目をしていた。あの男には、私達の気持ちなんてきっと永遠に分からない。
学園では私相手に婚約解消を叫び、リディアには愛人宣言をして見放され……これでもう、まともな女性であればセシリオに見向きもしないだろう。
二人の結末を見届けた私は、えもいわれぬ達成感に満たされた。
あとは早く屋敷へ戻らなければ……私はオルランド様との約束を破り、勢いのまま飛び出てしまっていた。お兄様はともかく、シェリーさん達はきっと心配してくれている。
元来た道を辿り、足早に歩いていると……ふいに猫の耳が反応した。
雑踏に混じり、どこかで子供の叫び声が聞こえる。どうも遊んでいるような雰囲気では無い、誰かと揉み合っているような……抵抗するような、そんな声。
この感じからしてかなり遠い。けれど猫の聴力なら、ほんの僅かな声でも耳に届く。
「……っいやだ! 離せ!」
「いいから来い! 一人で町に来たことを後悔するんだな」
(えっ、これって――)
もしかして……子供、誘拐されているのではないだろうか。相手の声は大人の男。聞こえる限りでは、周りに助けようという人間が誰もいない。
(ど、どうしよう。私は早くお屋敷に戻らないと……でも子供が!)
しかも今、私は猫。
誘拐犯の男に敵うかどうかも分からない。
けれど――耳に届いた叫びを無視して立ち去ることなんて出来ない。
私は屋根から屋根を飛び移り、声だけを頼りに子供の姿を探した。
もし誘拐されるとしたら、こんなに人通りの多い場所じゃ無い……人目の少ない裏通りだ。それも中心地から離れた、寂しいところ。暗くて、じめじめとして、寂れていて……塀に囲まれた見えにくい場所。
賑やかな中心地を離れ、寂しく暗い裏通りを目指して走った。
次第に子供の叫び声が大きくなる。恫喝する声や揉み合う音も。これはきっと近付いている。そう信じて、私は力の限り走り続けた。
(いた……!!)
屋根の上から、大人の男二人と金髪の少年が見えた。小汚い男達に比べ、少年はかなり身なりが良い。上質なベストと、ハーフパンツを履いている。靴はピカピカに磨かれた革靴。もしかしたらどこかの御令息かもしれない。
少年は誘拐犯に羽交い締めにされ、身動きが取れないでいる。このままでは連れ去られてしまいそうな勢いだ。
(補助系の魔術で、何か役に立ちそうなものは……)
本当はオルランド様みたいに格好よく戦えたらいいのだけど、あいにく私に攻撃魔術は使えない。それならと、自分ができることを精一杯考えた。猫の頭で。
「フムス・ネブラ、オブスクラ・ネブラ、ウンブラ――」
私は屋根の上から、咄嗟に術式を唱え始めた。
数ある補助系魔術の中から選んだのは煙幕の術式だ。相手を撹乱させるための魔術で、魔物によっては効き目がない場合もあると言われている。
ただし今回の相手は人間。目隠しくらいにはなってくれるんじゃないか。
肉球の上で作り上げた光の玉を、彼らの上空へと勢いよく放り投げる。
そしてすぐさま「やあ!」と発動させると――光の玉はボン!と音を立てて爆発し、あたり一帯が真っ黒な煙に覆われた。
相変わらず猫の身体、魔術の威力が半端ない。
(す、すごいすごい、猫すごい……!)
「な、なんだぁ!?」
「おい、あいつどこ行った!?」
「いねえ!!」
煙の中は混乱の真っ只中のようだ。この機に乗じて、あの少年も自力で逃げることができたらしい。
よかった……と胸をなでおろしていると、突然後ろから「ねえねえ」と小さな声で声をかけられた。
私がいるのは彼らから離れた屋根の上。
後ろには誰もいるはずがない。けれど――
「助けてくれてありがとう。子猫さん」
そこには、先程まで攫われそうになっていた少年が座っていた。