私は猫になりたい
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「ああ……最悪……」
私――伯爵令嬢ロミナ・モントンは、帰宅するなりベッドへと倒れ込んだ。
魔術学園で散々な目にあった私は、もう一歩も動けなかった。身体も心もズタボロだ。このまま一生、ベッドに沈んでしまいたい。
しかし、落ち込む私の上に容赦なく群がる愛猫達。足に一匹、背中に二匹。頭の上にもズシ……と一匹乗ってきた。
弱りきった私にはもう少し優しくして欲しい。柔らかなベッドだけが私に優しい。
今日はいつも通り学園へ行って、卒業試験をこなし、そのまま何事もなく一日が終わるはずだった。
なのに……
「おかえり、愛しのロミナ。おや、そんなに猫を乗せてどうしたんだい」
私が猫を乗せたまま落ち込んでいると、帰りを待ち構えていたお兄様――フェリックス・モントンがやって来た。
彼は無類の猫好きだ。我がモントン伯爵家には数多の猫が住んでいるけれど、みんなお兄様が連れてきた猫達だった。
なのに、兄はなぜか猫から嫌われている。猫達へ向けられるギラギラとした好意が、逆に彼らから敬遠されてしまっているのではないだろうか……と、私は内心そう思っている。
猫が寄ってこないものだから、お兄様は自ら猫のところへ足を運ぶ。こうして、私の部屋に来ることもしょっちゅうだった。
「……お兄様。乗せたんじゃ無いの。この猫達が勝手に乗ってくるの」
「本当にお前は猫に好かれて羨ましいな! 俺には一匹も寄り付かないんだが」
お兄様は落ち込んでいる私を見かねて、上に乗る猫を一匹ずつ引き剥がしてくれた。
けれど先に引き剥がされた猫が再び乗りに来るので、あまり意味はなかった。私も、お兄様の言動に期待はしていない。
「もういいわよお兄様。キリがないから」
「猫達も物憂げなお前を元気づけようとしているんじゃないか? どうした、その沈んだ顔は。この兄に話してみなさい」
「え……お兄様に?」
「そうだ。兄として、このように落ち込む妹を放っておけないだろう」
「話しても、お兄様にはどうすることも出来ないと思うけれど」
「話すだけでも楽になったりするだろう。ロミナが話すまで、僕はこの部屋を出ていかないからな」
そう言うとお兄様はソファであぐらをかき、ゆったりとくつろぎ始めてしまった。
それまでソファに寝そべっていた猫達はサーッとあちこちへ散っていく。さらに私の上に猫が増える。
(仕方がないわね……)
お兄様は言い出したら聞かない性格だ。
観念した私は、軽くため息をついた。
「実はね……ついにセシリオの浮気を目撃してしまったの」
今日は婚約者であるセシリオ・アレグレーの浮気現場に遭遇してしまった。
かねてよりセシリオの良くない噂は耳にしていたけれど、ついに浮気を目の当たりにしてしまったのだ。
『ロミナごめん。僕はリディアと出会って、真実の愛というものを知ってしまった』
『ごめんなさいロミナ様……私、お二人の仲を引き裂くつもりは無かったんです。でも……』
『いいんだよリディア、これは僕達の問題なのだから。お願いだ、ロミナ。僕との婚約を解消してくれないか!』
学園裏のガゼボで、寄り添い合う婚約者セシリオと浮気相手リディア。
挙句の果てに、セシリオからは大声で婚約解消してくれと叫ばれてしまった。どうやら愛し合う二人にとって、私は邪魔者であるようだった。
「あいつめ……ロミナが落ち込んでいるのはそのせいだったのか」
「いえ、違うわお兄様。問題はそのあとよ」
浮気現場であった学園の裏庭にはセシリオの声が響き渡り、その声を聞きつけた学生達が大勢ガゼボに集った。
途端に、私は恰好の見世物になった。好奇の目や憐憫の情に耐えきれなくなった私は、急いでガゼボを走り去ろうとしたのだけど……
焦った足が小さな段差につまずいて、あろうことか公衆の面前で派手に転んでしまったのだった。
あたりはシンと静まり返る。「お可哀想に……」というヒソヒソとした同情の声まで耳に届く。あまりにもいたたまれない。
なにより、私の手のひらには、転けた際に大きな擦り傷ができた。手の傷というものは、魔術を発動する際に悪影響を及ぼしてしまうのに。
よりによってこの日は私の卒業試験があった。魔術を発動し、その出来栄えによって成績を付けられるというものなのだが……案の定、私の卒業試験は散々な結果に終わった。
親身になってくれていた指導教官からも「ロミナさんのこと、買い被っていたようね」とのお言葉を頂戴してしまったくらいだ。
「もうだめだわ……三年間、魔術師になるために頑張ってきたことが、全部無駄になってしまったの。もう終わりよ」
「落ち込むのはまだ早いぞ。お前の魔術の腕は素晴らしいじゃないか」
「お兄様に私の気持ちは分からないわよ。学園で三年間特待生をキープして、魔術師団入団試験に首席で合格した人にはね」
魔術師団への入団試験は狭き門。魔術学園の卒業試験の結果次第で、試験の合否も左右される。
お兄様は少々変人ではあるけれど、魔術においては天才だった。彼は何の苦労もなく魔術を使いこなし、鳴り物入りで魔術師団へと入団した。数年に一度の逸材として……卒業試験もほぼ満点であったと言われている。
それに比べて妹である私といったら、試験当日に怪我をするという有様。父のように兄のように、魔術師として活躍することが私の夢だったのに、今やその夢は閉ざされたも同然だった。
「明日から学園ではいい笑い者だわ……もう消えちゃいたい」
「……ロミナ、セシリオとの婚約解消については了承するのかい?」
「セシリオ……婚約解消のこと? もういいの、そんなことは。だってそもそも、親同士が決めた婚約だったもの。あちらが解消したいと言うなら仕方がないわ」
モントン伯爵令嬢である私とアレグレー子爵家令息セシリオの婚約は、数年前に家同士で交わされたものだった。
魔力持ちの少ないアレグレー子爵家から、「魔力持ちの跡継ぎを残したい」と、我がモントン伯爵家に話を持ちかけられたのが始まり。相場よりも多い支度金を提示され、うちの両親もそれを了承した。
つまりそこに当人同士の意思はなく、私もそれが家のためになるのならと納得してはいた。
けれど向こうから婚約解消を申し出たのなら、それに縋るほどの思い入れもない。どうぞどうぞ婚約解消してくださいと、その場で言わなかった自分を褒めたい。
こうしてあっさりと婚約者もいなくなり、卒業試験も失敗に終わり、私の未来は真っ白になった。もう、私が消えてしまっても誰も困らないんじゃないだろうか。
……いや、この猫達は困るかもしれないな。なぜか私のことをこんなに好いているのだから。
私は背中の上でくつろいでいる猫達のことを思い出した。私が消えれば、猫に構ってあげられるのは変わり者の兄フェリックスだけ。それはこの子達にとって不幸なのだろう。だったら――
「……私、猫になるわ。猫になって、猫として生きていくわ」
「何言ってるんだロミナは」
「もういいの……私を必要としてくれるのはこの子達だけだもの」
「俺も父も母も、ロミナのことは必要だぞ」
「ありがとう。猫になっても必要としてくれたら嬉しいわ」
「もう猫になるのは決まりなんだな」
我ながらめちゃくちゃなことを言っているのは分かっている。猫になんてなれるわけが無い。ただの現実逃避だ。
明日からも私の日常は続いていく。婚約解消され、卒業試験にも失敗したロミナ・モントンとして。未来に希望も持てず、周りからは哀れみの視線を送られながら、毎日を送るのだ。考えるだけで地獄すぎる。
「ああ、猫になりたい……」
「なれるぞ」
「え?」
ずっと私の泣き言を聞いていた兄は、どこからか魔術書を取り出した。そして魔術書をペラペラとめくり、わけのわからない術式を唱え、手に淡い光を生み出した。
その間十秒。その手際の良さに惚れ惚れしていると――
「さあロミナ。好きなだけ猫でいればいい」
「はぁ――?!」
兄は間髪入れず、私に光の塊を投げつけた。
その瞬間、身体中にビリビリとした衝撃が流れる。
信じられない。得体の知れない魔術を、妹に投げつけるなんて――!
「お、お兄様! 今、一体何を――」
「魔術は成功だ。見てみろロミナ、自分の姿を」
「私の姿……?」
兄に言われて、窓ガラスに反射する自分の姿を探した。
しかし、憂鬱な自分の姿が見当たらない。
かわりにそこに映っていたのは、茶色い体に白い手足の、可愛らしい猫だった。