ユキヒョウの価値
バーラルはユキヒョウの気配に気付いていました。姿は見えないけれど、間違いなく近くにいます。バーラルが一歩でも動いたら、どこからか現れて襲いかかってくるのは間違いありません。
バーラルの頭からは、横向きに太く長い角が伸びていますが、ユキヒョウ相手にはほぼ無意味です。
絶体絶命、それが今のバーラルの状況なのでした。
深く積もった雪の上で、ただジッとしていることしかできないバーラルでしたが、やがてユキヒョウの気配が少しづつ近付いていることに気付きました。
ただやられて死ぬのを待つよりは、とバーラルは意を決して走り出しました。
雪がかなり積もっているので、走るというよりは飛び跳ねて移動していくようなかんじです。
その背後にユキヒョウが現れました。
バーラルの予想より近くを追ってきます。
そのまま走っても追いつかれてしまうので、バーラルは崖下に飛び降りました。そして崖の途中に飛び出ている小さな岩の上に降り立ちました。4本の足先をピッタリとくっつけてようやく立てるような小さな岩です。少しでもバランスを崩したら、命はありません。まさに、ヤギ科の動物であるバーラルのなせる技です。
その様子を、ユキヒョウは上から覗き込むように見ていました。あの場所に立たれたら、さすがのユキヒョウにも手は出せません。
少し考えたあと、ユキヒョウは一歩だけ後ろに下がりました。持久戦に持ち込むことにしたのです。
いくらバランス感覚に優れたバーラルでも、あの場所に長時間立ち続けることは不可能です。自分から崖を登って戻らなければなりません。
ユキヒョウがその場で待っていれば、バーラルの方からやって来るのです。
こんな楽な狩りはない、とユキヒョウは満面の笑みで立っていました。
困ったのはバーラルです。バーラルからはユキヒョウの姿は見えなくなりましたが、そこにいることは間違いありません。この状況での持久戦は、明らかにバーラルの方が不利です。
さて、どうしたものかとバーラルは考えました。
この老練な動物は、まだ生き続けることを諦めていませんでした。
――あのユキヒョウはかなり若い。付け入る隙があるとしたらそこだ。
バーラルは自分の経験値を武器に闘うことにしました。
意を決して大声で叫びます。
「ユキヒョウさん、そこにいるんでしょう?」
返事はありませんでした。
さすがにここでうかうかと返事をするほどユキヒョウは愚かではありません。
それには構わずに、バーラルは話しかけ続けました。
「そこで待っていれば、やがて私が登ってくると思っているんでしょう?たしかにそうですね。いつかはそうなるでしょう。しかし、それはあなたが考えているより、ずっとずっとあとのことですよ。だって私はここに立っていてもちっとも苦しくありませんから」
ユキヒョウは黙って聞いていました。何を言っても無駄だ、と口元がうっすらと笑っています。
何も返事が無いことは織り込み済みとばかりに、バーラルは話を続けます。
「私なんかを待つより、もっと早く、もっと簡単に食べ物を手に入れる方法がありますよ」
耳寄りな情報をこっそり教えるかのように、バーラルは語りました。
「そこの斜面をくだって平らな土地になる少し前に、右に曲がってみてください。しばらく行くと、ニンゲンが牛や羊やヤギをたくさん飼っている牧場がありますから。かなり高い柵があるけれど、ユキヒョウさんならひとっ飛びで越えられます。しかも、牛たちはその柵を越えることができませんから、ユキヒョウさんが中に入ってしまえば、あとはユキヒョウさんの取り放題ですよ」
ユキヒョウの耳がピクリと動きました。それと同時に、バーラルは、ユキヒョウがこの話に興味を示した気配を感じ取りました。
あとひといき、と話し続けます。
「左に曲がった所にもニンゲンの牧場がありますが、こっちは何匹もの犬を飼っています。あいつらはすぐに大声で吠えてくるから、忍び込むのは難しいです。狙うなら右の牧場ですよ」
ユキヒョウは黙って聞いていましたが、心の中では迷っていました。
バーラルの言っていることは本当だろうか。助かりたいがために、口からでまかせを言っているのではないか?しかし牧場の話は魅力的だ。確かめてみる価値はある。
ここでようやく、ユキヒョウが声を出しました。
「なるほど、それはいい話を聞いた。だったら、ここでお前を食べてから、その牧場とやらが本当にあるのか確かめに行くとしよう」
結局お前は助からないのさ、とでも言うように、ユキヒョウはニヤリと笑いました。
しかしバーラルは落ち着き払っています。
「まぁ、そうなるでしょうね。どうぞお好きに」
しばらくの間、どちらも黙ったままでした。
そのうち、ユキヒョウは焦れったくなってきました。
まだ若いこのユキヒョウは、ただジッと待つことに疲れてきたのです。しかも、バーラルから牧場の話を聞いて以来、気持ちがそちらに移り始めてもいました。
さらに空腹がユキヒョウを焦らせます。
――試しに見に行ってみるか
ユキヒョウはそっと立ち上がり、斜面を下りに行きました。
――立ち去ったようだな
遠のいたユキヒョウの気配に、バーラルはホッとしました。それでも油断することなく、少しずつ崖を上がって行きました。
ユキヒョウは斜面を下り、バーラルに言われた通りに右に曲がりました。
バーラルを完全に信用していたわけではないユキヒョウは、まずは左に曲がろうとしたのですが、犬の匂いを嗅ぎ取ったのです。そこで、右に進路を変えました。
目の前に大きな牧場が見えてきました。山の上とは違い、この辺りにはあまり雪が積もっていません。
そして、柵の中にはたくさんの羊がいました。
ユキヒョウは軽く周りを見回して、犬がいないことを確認してから、柵の中に飛び込みました。
拍子抜けするほど簡単に、ユキヒョウは1頭の羊を捕まえました。その羊を柵の外に運ぶのには少し苦労しましたが、久々のごちそうはユキヒョウを満足させ、そして油断させました。
ユキヒョウが羊にかぶりついていると、パーンッという音が響き、ユキヒョウはバタリと倒れました。
柵の向こうから、猟銃を構えたニンゲンが近づいてきましたが、ユキヒョウはピクリとも動きません。
ニンゲンがユキヒョウのすく側まで来たとき、後ろからもう1人ニンゲンがやってきて、声をかけました。
「なんだい、また撃っちまったのかい」
「ああ、羊をやられたからな」
「そのための補助金だろ」
この国では、希少動物となってしまったユキヒョウの保護に力を入れています。
そのため、「被害に遭った家畜の代金を補助するので、ユキヒョウを殺さないように」と国が通達しているのです。
「国の言うことにバカ正直に従うやつがあるかよ。こいつの毛皮を売れば、補助金の何倍にもなるんだぞ」
「バレたら大変だぞ」
「そんなヘマはしねぇよ」
ニンゲンたちはそんなことを言い合いながら、ユキヒョウと羊を運び始めました。
その様子を斜面からバーラルがジッと見ていました。
――やっぱり撃ったか。あそこの牧場のニンゲンはすぐに撃ってくれるから、本当に助かるな。
そしてくるりと向きを変えると、軽快な足取りで斜面を上がって行きました。