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とある侯爵令嬢の婚約事情

 ゾーイ侯爵家に怒涛の嵐が吹き荒れた夜から2日後。


 侯爵令嬢エリザベートは、王宮に近い豪華なタウンハウスへ移った。このタウンハウスに入るのは一年ぶりだ。

 強盗団の引込女や詐欺師やらの捕縛のため、手狭(それでも部屋数は30ある)なセカンドハウスで我慢していたのだ。

 エリザベートは、中庭にある白亜の瀟洒なガゼボでゆったり紅茶を楽しんでいた。これほど機嫌が良いのは久しぶりだった。

 お気に入りの淡いエメラルドグリーンのアフタヌーンドレスを着て、ドレスと揃いのハイヒールを履き、好きな紅茶を楽しむ。

 ブランデンブルグ王国の名門侯爵令嬢が、自宅のガゼボで優雅に紅茶さえ飲めぬ一年だった。


 生きるって素晴らしい!

 紅茶一杯で、多少、エリザベートが大げさな思考に陥っても誰も責めないだろう。


 このガゼボは大きめな造りで、10人分の椅子を並べてもかなり余裕があった。エリザベートの向かいにはテーブルを挟んで、一脚だけ椅子が置いてある。

 来訪者はもうすぐだろう。それまでは、晴れ渡る爽やかな風が吹き抜けるのを楽しもう。待ち人が到着したら、ある意味、またもや戦いだと、エリザベートは束の間の休息をとった。


 そばに控えるナーイ夫人が紅茶のおかわりを注ぐ。

「お嬢様はお優しい方ですね」

 エリザベートを最もよく知る父と兄は、「古代最強戦士のメンタル」と密かにのたまわれる彼女は、自分では優しいとは対極の存在だと思っている。


「私を優しいなどというのは、ナーイ夫人だけだわ」

 

 ティーポットを音もなく置いて、ナーイ夫人は微笑んだ。

「お優しいでしょう。偽造品のサファイヤのブローチやダイヤモンドの指輪を盗んだヨシュアに、『あなたにあげるわ』をおっしゃった。つまりあれは、ヨシュアが盗んだのではなく、お嬢様があげたことになって罪には問われません」

 そうはいってもヨシュアは強盗の一味で、その強盗はヨシュアの手引きで殺人を犯したのだから、相当に罪は重い。だからエリザベートから盗んだのではなく、もらったとしても、罪状にさほどの影響はなく焼石に水だろう。それでもいくばくか軽くなるならいい。

 ステンブルグとの戦争で、下級貴族の生活はひっ迫してしまった。みな、ヨシュアの実家のように苦しい生活を強いられているのだ。だからといって強盗に走る罪を擁護するわけではない。


 ナーイ夫人は中庭に目を向けたまま、独り言のように続けた。

「それに、コーネリアに対してもです。彼女が当家に行儀見習いとして入ったのは15歳の時でした。それから8年。コーネリアは23歳の行き遅れです。もし、このまま当家に25歳までいたら、結婚するとしても、相手は貴族の子持ちの後妻か、年の離れた老いた貴族くらいしか、嫁にいけないでしょう。でもギリギリ23歳でしたら、平民であっても大きな商家の跡取り息子か、男爵家の三男あたりと結婚できます。そういうことをお考えになって、今、コーネリアを解雇なさったのでしょう」

 この時代、女性の結婚適齢期は16歳から19歳だ。20歳過ぎるとやや行き遅れ、23歳ともなれば立派な行き遅れという時代で、女性の価値が低い。

「彼女は貴族に向かないわ」

「そうですね。すぐに感情が顔で出ておりましたからね」


 エリザベートは紅茶を飲む。ナーイ夫人は庭から目を離さず続けた。

「実際、コーネリアはダフィー男爵領の隣のクーリエ男爵領で商いを手広くしている商家の跡取りと婚約したようです」

 ご存じかもしれませんが、とは言わなかった。

 エリザベートが三週間ほど前、クーリエ男爵宛に手紙を書いたのをナーイ夫人は知っている。ほとんど付き合いのないクーリエ男爵へエリザベートが何を頼んだのかは、推して知るべしである。


 「それに」と、ナーイ夫人はいう。

「あの二人、マリアとジェニーの処遇についても…。罪状は貴族に対する詐欺行為に、身分詐称、暴行、名誉毀損、虐待、また仕えていた使用人への暴力。

 結果、マリアは救済院で二十年、ジェニーは十年の強制労働。そして王都からの永久追放でしたか。一見すると妥当でしょうが、二人の送られた救済院は当家の領地、ターチェ温泉にある救済院でございましょう。あそこの入院患者のほとんどは、先の戦争で負傷した方達です。気候は穏やか、湧き出る温泉によってお湯も使えます。

 まあ、そうはいっても入院患者は200人を超えておりますから、大量の洗濯物と格闘し、スタッフを含めた400人超えの食事の準備は重労働ではあるとは思いますが」

 ゾーイ侯爵領のターチェ温泉は、豊富な湯量を誇る温泉地帯にあり、王侯や貴族に大人気の避暑地だ。そこにゾーイ侯爵が私財を投じて救済院を建てた。

 その救済院でマリアは20年、ランドリーメイドとして強制的に労働し、ジェニーは10年間、クッキングメイドとして働かねばならない。刑期を終えたら釈放されるが、王都からは永久追放となったので、地方へ居住することになる。

 ランドリーメイドもクッキングメイドも過酷な労働ではあるが、ターチェは冬でも温暖な気候で、常にお湯が出る。身を切るような冷水で手がボロボロになることはない。


 ただ聞くだけだったエリザベートが口を開いた。

「マリアは矯正できるか微妙だけど、娘には少し期待しているの。10年もクッキングメイドをやったら、刑期を終えた後、下町の店で働けるでしょう。地に足をつけて仕事してほしいわ。ただ牢に入れて無為に過ごすより、学べることがあると思う。まあ、本人の心がけがあってのことだけど…」


 ナーイ夫人は、ジェームズが庭に姿を見せたのを横目でとらえた。

「お嬢様、いらっしゃったようです」


 エリザベートはその場に立った。

 既に先方からの手紙で、本日の訪問は双方の顔見世であるから略式で結構、大げさな出迎えは不要とあったので、客間ではなくガゼボでのお茶会の体を取った。


 侯爵邸の広い庭の先から、黒髪に黒のシルクジャケットを羽織った背の高い男性が颯爽と歩いてくる。

 遠目でも高貴な身分と分かる出で立ち。近づくにつれて、ジャケットの下には白のシルクシャツとクラビット、ジャケットの下のベストは青色で植物をモチーフにした鮮やかな刺繍が施されているのが分かった。

 袖口からレースは見えない。貴族とくに王族はレースを袖からなびかせるタイプのシャツを羽織る者が多いが、殿下はレースが好みでない。これは事前に父から聞いていた通りだ。


 ずんずんと前を見て近づいてくる。まっすぐにエリザベートを見ている。


 黒髪でサファイアの瞳。鼻梁は高くて薄い唇。どれもが完璧な造形で完璧に配置されていた。黙っていてもオーラがある彼は、軍人でもある。ステンブルグとの戦争では、ブランデンブルグ王国総司令官として軍部を指揮していた。

 そう彼こそ、エリザベートの将来の夫であり、立太子されると噂のリチャード王弟殿下だ。

 

 エリザベートは完璧なカーテシーを披露し、彼女より頭一つ以上長身のリチャードに挨拶した。

「はじめましてで、いいのだろうか?リチャード・ガブリエル・ローマンだ」

「はじめまして。バーナード・ゾーイ侯爵が娘、エリザベートです。殿下とは初対面です。私が社交界にデビューした時、殿下は総司令官として任地におられましたから」

 

 さりげなく執事が席をすすめた。新しい紅茶にお菓子を置いて、全ての使用人が離れた。二人で席につく。

「噂というのはあてにならない」

「え?」

「噂よりはるかに美しいから」

「殿下」

「リチャードと」

「ありがとうございます。ではエリザベートとお呼びください」

 二人とも笑顔ではある。しかし、エリザベートとしては既に戦いがはじめっている。将来の夫を前に「戦う」と思っているあたりが、エリザベートのエリザベートらしいところだ。


 紅茶のカップを置いた彼女の手を、いきなりリチャードが取った。既に正式な婚約者との顔合わせということで、彼女は手袋をしていなかった。未婚の淑女は夜会でも舞踏会であっても手袋ははずさない。既婚者と婚約者同伴の淑女以外は…。


 リチャードはエリザベートの手を握ったままで「完璧な淑女の対応をするあなたより、別のあなたが見たくて」といった。

 軍人とは無骨な者が多いとエリザベートは思っていたが、どうやら彼は違うらしい。対応を変えなければ。手を握られて顔が赤くなっていないか、少し彼女は不安になった。男性相手に不安になるなど、これまでエリザベートの人生にはなかったことだ。

「殿下…」

「リチャード」

「…リチャード様、手を」

「エリザベートは夫婦とはどういう関係と考えている?」


 顔見世だけなのに、いきなり深い質問がきた。そのうえ手は離さないらしい。

「そうですね。私にとって、最も近しい夫婦とは両親になります。ただ母は戦争の前に亡くなりました。その時、私は12歳でした。幼くて、親としての父と母しか認識できません。父は母を信頼し、母もそうだったと子供ながらに感じておりました。ですから、夫婦で最も大切なのは信頼ではないかと」


 殿下は笑顔を見せた。でも相変わらず手は離してくれない。

「そうだね。信頼は大切だ。…エリザベート、当たり障りない回答をありがとう。私の本音をいおう。私は夫婦とは共にあること、共に一緒にいることだと思っている。それは物理的に常に一緒にいるということではなく、同じ位置、同じ目線で、共に見て、共に戦う」


 エリザベートは目を見張る。「戦う」。これは彼女が命題にしていることだ。社会に、世間に、男性に対して、女性という立場で戦うこと。社会に変革をもたらす、革命を起こすなどという大仰なものでなく、その立場で精一杯、努力して戦うこと。


 エリザベートは心からの笑顔になった。

「訂正します。夫婦とは同志です。片翼では鳥は飛べません。一緒に飛ぶための両翼。そして信頼は前提として必須です」


 リチャードは声をあげて笑った。

「やはり古代最強戦士のメンタルだ」

「父ですか、それとも兄から聞いたのですね?」

「ああ、エリザベート、怒らないで!侯爵は尊敬する方で、レイモンドは悪友だよ」


 それは父や兄から聞いていない。黙っていたのね、あとでお仕置きだわと、エリザベートは誓った。

 リチャードは、握った先の彼女の手を見て言った。

「私は三歳の時、侍従の前で王太后から叱られたことがあった。それで私は癇癪を起したんだ。叱られた内容にではないよ。侍従たちの前で叱られたことに対してだ」

 いきなり話題が変わったが、エリザベートは黙って聞いた。ちなみに王と王弟の母であるソフィア王太后は健在で、王家の「良心」と言われるほどの人格者だ。


「王太后に言ったよ、使用人の前で叱るのはやめてください、僕の沽券に係るとね」

「たった三歳で?」

「そう、三歳で。何が言いたいのかといえば、男のプライドは既に三歳で一人前にあるということだ。驚いた?」

「ええ」

「その時、王太后はおっしゃった。『兄と同じね』と」

「つまり王も同じようにプライドがあると」

「そう。でも最近は、王は少し変わったように感じる。」


 エリザベートは菓子を見る。

「いつもおいしいフィナンシェが、今日の味は少し違う。砂糖の分量が足りない。そんな感じで?」

「あなたは賢くてとてもいい。そう、そんな感じで」

「それは」と、エリザベートも握られている手を見た。さすがに前を向いてはっきりとは言えない。

「当たり前に置いてあった砂糖が、いつの間にか違う銘柄の砂糖に変わった、ということですか?」

「…そうだね」

 暗に前王妃が死去し、現王妃になって王が変わったことを示唆した。リチャードも握っているエリザベートの手を見続けている。


「どうして手を離して下さりませんの?」

「これほどの婚約者はいないから。いますぐにでも結婚したいと思って」

 それはもしかして本気なのかもしれないと、エリザベートは思った。ただ、彼女は戦闘するには準備が必要と考える。武装は完璧にしなければならない。


「リチャード様」

 エリザベートが、リチャードの手に左手を添えた。今度は彼が目を見張る番だ。こういうこともやられっぱなしはよくない。名を呼び、笑顔を見せ、手を添え、心を掴む。


「私が手紙に書いたことを覚えておられますか?」

「ああ。侍女のことだね。王弟宮に侍女はいない。おかしな噂を流されるのは嫌だから、侍従しか置いていないんだ。あなたのいいように侍女を揃えてほしい」

「ありがとうございます。侍女長を一人、侍女は10人ほど連れてまいります。すでに十家に養女の話しは通しておりますの」

 王宮に仕える侍女は伯爵家以上でなければならない。ゾーイ侯爵家にいる侍女を王弟妃として仕えさせるとしたら、子爵や男爵家出身の侍女を、どこかの伯爵家の養女にしなければならないが、そのあたりの準備は抜かりがない。今を時めくゾーイ侯爵家からの申し出だ、断る伯爵家などない。こうやってエリザベートは人脈を作る。


「あともう一つ、お願いがあります」

「なんなりと」といって、リチャードがエリザベートの手の甲に口づけをした。

 やはり、リチャードもやられっぱなしにはしてくれない。


「フランシス・メアリー王女殿下の侍女について、私に考えがあると、王太后様にお話し頂けますか?」

 そうきたかという目でリチャードが見る。どうしてお気づきになりませんのという目でエリザベートが返した。


「私はとんでもない幸運を手に入れた男だね」

「それは、これから先を見てからの評価になりますわね」


 リチャードはエリザベートの手を離し、恭しく立ち上がり、右手を胸におく。

「では、奥様。そろそろお暇を」

 自然にごく当たり前に。そこに二人でいることが当然のように。リチャードのエスコートで庭を歩く。


 遠目には、新居に飾る絵画の話でもしているかのような雰囲気だ。ナーイ夫人と執事のジェームズは相思相愛の睦まじさに目を細めた。


「さて、今日の終わりに、あなたの前の御婚約者殿についての感想が聞きたいね」

「悪趣味ですわ」と、彼女は少し上目遣いで、目を細めつつ「当たり障りのない意見しか言えない高位貴族の御令息。匂わせる技は通用せず、言葉を表面的にしか取れない、暗愚な男」と、笑顔でいった。

 リチャードは朗らかに笑い、「笑顔を顔に張り付け、『はい』と『ごきげんよう』しかいえない、高位貴族の令嬢。歌は歌えても政治の話はできない、クソつまらない愚鈍な女」と、彼の前婚約者の評価を口にした。

 お互いに毒を吐く。政治はきれいな水を飲むだけではない。汚れた水と分かっていても飲み込む腹黒さも必要だ。

「リチャード様、私たちお互いに腹黒いところがあって良かったですわ」

「そうだね、一方だけが空気しか食べない浮世離れした妖精頭だったら目も当てられない」

 ふふと目を見て笑い会う。


 暖かな日差しだった。明日の天気を語るように、リチャードはエリザベートの耳元でつぶやいた。


「第二王子は王の子ではない」


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