256話 過去のトラウマは平等に
「……何でこんなにイレギュラーに出会うのかな」
紬は幼く変化した体で呟くと、周囲を見渡した。
広々とした部屋には、机と椅子が並んでおり、正面の壁には大きな黒板が掛かっている。
窓から差し込む光が床に影を落とし、黒板には白いチョークで書かれた図と、簡単な計算が残っていた。
壁には学生たちの作品やポスターが貼られている。
紬はその中の一枚に手を伸ばすと。
「イレギュラーのオークがくると思ったんだけど……まだ引きずってるってことなのかな?」
紙には黒髪の少女の絵が描かれており、顔が誰かの落書きで塗りつぶされていた。
外枠の部分には拙い文字で、『このクラスにはモンスターがいます』と書かれている。
過去の情景を思い出し……ぽとりと地面に雫が落ちた。
「本当、趣味の悪いモンスターだね」
紬は出現したイレギュラーを知っている。
主に下層から出現するイレギュラーで、必ず講習を学ぶ必要があるほど対策が厄介な相手だ。
その名はパペットミラー。
直接的な戦闘力はなく、範囲内にいる人間を鏡の世界に取り込む能力を有している。
その力は極めて悪辣で、取り込まれた相手は自身が持つ最大のトラウマを無理やり追体験させられる。
その特異な能力ゆえ、上級者になればなるほど嫌われる。そんなモンスターだった。
「早く戻らないと、みんなを心配させちゃうからね」
紬は強張った笑顔を浮かべると、持っていた紙を握り潰した。
部屋の雰囲気を見る限り、恐らくここは小学校低学年。
自分が周囲の人たちに《《虐められていた》》時代だろうと判断する。
「――早く席につきなさい」
背後から聞こえてきた声に、びくりと肩を揺らす。
振り返れば、男女十五人程度の生徒たちが集まっていた。
黒板の前には眼鏡をつけた目つきの悪い女性が一人立っている。
生徒たちが騒ぎながら席に座る中、前に立つ女性である当時の担任の女教師が紬に鋭い視線を送る。
「日下部さん。黒板を消して」
黒板を消すのは日直の仕事だ。
黒板の右下、日直を示す場所には別の生徒の名前が書かれてあり、本来は紬の仕事ではない。
「はい」
……だが紬は言い返さなかった。
それがイレギュラー攻略の一歩になるから。
女教師の横まで歩いていき、黒板消しを手にする。
半分ほど消し終わったあたりで、女教師が紬にだけ聞こえるように呟いた。
「……モンスターが」
思わず紬は黒板消しを落としてしまう。
「ごめんなさい」
「まともに掃除することもできないの?」
苛ついた様子で女教師は紬を睨む。
それは仮にも人を導く仕事に就く者の態度ではなかった。
紬とて最初から虐められていたわけではない。
彼女の不運は持病の魔素誘引症で夜中に出歩いているところを、他の生徒の保護者に見られたことと……担任であるこの女教師がダンジョンアンチだったことだった。
当時は紬の持病についても広まっておらず、ありもしない変な噂がいくつも出回っていた。
誰かの魔法に操られているといったものから、ダンジョンに惹かれるのは、モンスターだった頃の名残りだというものまで。
そんな根も葉もない噂は、彼女の地位を陥れるには十分な内容だった。
人は信じたいものを信じる。
保護者や担任が紬に冷たい目を向ければ、子供もそれを真似してしまう。
「おい化け物! 炎吐いてみろよ!」
「近寄んないで! モンスターが移るから!」
無邪気にからかっているだけの者もいるだろうが子供は残酷だ。
休み時間の度に繰り返されるじゃれあいは、幼き頃の紬の心に深い傷を残した。
「……いつ終わるのかな」
何度休み時間を迎えただろうか?
頭を無にして罵声を堪えていた紬には、時間の感覚すらも失われていた。
教室の隅に身を寄せ、無意識のうちに流れる涙を拭うこともせず我慢して。
紬の心はもう何も感じないほどに麻痺していた。
誰も紬を助けようとはしなかった。
誰も紬を認めようとしなかった。
「じゅっ……じゅっ授業をはじめメメます。紬さん黒板を消せ化け物! モンスター」
女教師が血走った目で紬を睨み、唾を撒き散らしながら喚き立てる。
気が触れてしまったような女教師の姿を見て、ようやく紬は安堵の息を吐いた。
紬は椅子から立ち上がり、黒板の方まで歩いていく。
何度も何度も繰り返された動き。
だが今回、紬の小さな手の中に握られているのは黒板消しではなく……身の丈を超えるハンマーだった。
「……例え有象無象にどれだけ嫌われていたとしても、僕は大切な人に好かれているだけで救われる。だから帰らせてもらうよ」
そこまで言うと女教師の姿がパペットミラーに変化した。
過去のトラウマを消し去るように、紬はハンマーを叩きつける。
パペットミラーは抵抗することなく頭を潰されて消滅した。
「早かったわね、紬。大丈夫そう?」
「へ?」
次の瞬間、紬はダンジョンへと戻ってきていた。
適切な対応ができたのだとホッと息を吐く。
理沙は真っ赤に充血した紬の目には触れずに優しく頭を撫でた。
「りっちゃん、僕やったよ」
「頑張ったわね」
「突発的なイレギュラーはあったけど、これで一件落着だね」
そう理沙に声をかけるが、帰ってきた言葉は否だった。
「まだ……まだ、レオが帰ってきてないの」
誰が予想しただろうか。一番強いはずのレオが最後まで取り残されていることを。




