180話 金閣寺ダンジョンの暴走
同日、京都にあるとある事務所に二人の男女が揉めていた。
男の方はボサボサの乱れた髪の青年で、室内にいるもう一人の女性、咲に胸ぐらを掴まれていた。
上下に揺すられた男の表情は引き攣っており、ただでさえ細い目が糸のようになっている。
「ごめん。ごめんて。絶対取り戻すから」
「取り戻すって何ですか! またパチンコで溶かすつもりじゃないでしょうね!」
男の言葉に咲は怒りを募らせる。
温厚なはずの彼女がこうなったのは、男のやらかした行動が原因だった。
男の名は桐生悟、彼女が所属するドロップアウトの社長で、彼女の幼馴染でもある。
さぼり癖がある彼が最近真面目に働いていていると安心していた矢先、告げられた言葉。
『ごめん。俺が回収したお金、使い込んじゃった』
先日、咲が受けた依頼の報酬はしっかりと振り込まれており、それを使い込まれたわけではない。
やったことといえば、彼が受けた依頼の報酬を全て使い込んだ。ただそれだけ……。
だがそれが問題だった。
馬鹿で金遣いが荒く、強力な力を持つ彼はこの会社の社長でもあり、一番の稼ぎ頭なのだから。
「貴方がこんな家賃の高い場所に引っ越そうって言ったんですよ! 家賃は自分の報酬から払うからって……」
「大丈夫。それは安心してくれ」
「その分は残しているんですか? ごめんなさい、早とちりして──」
「土下座で頼んで支払い待ってもらうから……」
咲の美しいフォームで放ったビンタが、悟の頬っぺたに炸裂した。
頬を抑えて床を転げ回る悟の背中に足を乗せて、冷たく言い放つ。
「お金の管理も出来ないようじゃ、そろそろ引退する必要があるかも知れないですね、社長?」
「他人行儀に社長なんて呼ばないで、悟って呼んでくれよ! 俺とお前の仲だろうに……」
「他人行儀もなにも、他人になる可能性を秘めていますからね。だらしのない金遣いの男は、私も願い下げです」
悟は咲の言葉に苦笑いを浮かべて言い訳を重ねようとするが、突然鳴り響くサイレン音に固まる。
二人の携帯からも同じようなアラームが続き、それにより慌てた様子で確認する。
「スタンピード? ここで?」
彼らが事務所を構えている位置は、金閣寺ダンジョンから徒歩五分圏内のところにある。
金閣寺ダンジョンの周辺は土地代が高く、金持ちがこぞって部屋を借りる傾向がある。
その理由は、金閣寺ダンジョンがスタンピードを起こさないダンジョンであるからだ。
死神に出会わなければ全階層で五階。
踏破難易度も低く、日に何度も攻略されており、実際今日の今日までスタンピードどころか、死神以外のイレギュラーモンスターを発生させたことがなかった。
「とりあえずここから離れよう。人為的なスタンピードでなければいいんだけど……」
「……そうですね」
悟は咲の手を取り駆け出した。
スタンピードの被害の大きさは、踏破難易度に比例する。
京都には金閣寺ダンジョンを含む五つのダンジョンがあるが、仮にスタンピードが発生したとしても一番楽に鎮めれるのは金閣寺ダンジョン……そう考えられていたはずだった。
辺りを見渡せば一目散に逃げる人々。
道路脇を走っていた二人の足元に影が落ちた。
悟の舌打ちと共に、咲の体が前方に放り投げられる。
直後、聞こえる破壊音。
咲が空中で体勢を整えながら振り返ると、さっきまで自分がいた場所に一体のモンスターが立っている。
落ちてきた衝撃で地面に亀裂が走り、避難民が阿鼻叫喚しながら逃げ出していく。
小さな体に身の丈を有に超える大鎌。
顔は豚と牛を割ったような見た目をしており、赤黒い肉体は、はち切れんばかりに筋肉で武装されている。
大きさこそ違えど、咲はこいつに見覚えがあった。
恐怖心を忘れたはずの体が震え出し、全身に悪寒が巡る。
「逃げろ咲!」
酸っぱいものが込み上げるのを感じながら、槍を取り出して応戦しようとしている、悟に向かって叫ぶ。
「貴方こそ逃げて下さい! 死神には勝てません!」
その言葉虚しく、悟は死神の大鎌に耐えきれず、吹き飛ばされていった。
悟が突っ込んだ木造の建物が崩れ落ちる。
死神は一度顔を向けると、邪魔されないと判断したのか、ゆっくりとこちらに振り返った。
死神は少し離れた場所にいる一般人には見向きもせずに、じっと咲のことを見つめている。
絶望的な状況。
だが咲は良かったと心の中で安堵していた。
死神の足元に血は残っておらず、それは悟が奴の攻撃をまともに受けなかったことを示す。
……あれほどの攻撃だ。無事にいるとは言い難いが少なくとも彼が生きている可能性は高い。
ここに現れたモンスターが見境なく襲う獣のような習性を持っているのであれば、咲はお手上げだったが、そうでないのであればこっちのものだ。
……例え命を落とすことになっても、このモンスターを悟から引き離す。
それが今まで支えてくれた恩人であり、幼馴染であり、恋人に報いる唯一の方法だと思ったから。