日々を彩る、恋愛短篇。—葡萄色—
連載ではありませんが、「日々を彩る、恋愛短篇。—朱鷺色—」を先にお読みいただくと、より楽しめるかと思います。
回想シーンを含む、恋愛短篇小説です。
ぜひ最後までお楽しみください。
最近の子供はいいなあ、なんて、思うことがある。
書店に立ち寄ると、小さい子向けの付録付きの雑誌が置いてあるのをよく見かける。私の小さい頃は、ちょっとデザインが可愛いメモ帳だとか、レターセットだとか、そういったものが多かった。どんなに豪華でも、小ぶりで安っぽいポシェットくらい。まあ、それでも買ってもらったときにはかなり喜んだものだけれど。
それが今となっては、こんなに立派なネイルセットが付いてくるなんて。
もう娘も高校生。こんな雑誌を欲しがる歳ではない。それなのに、私は気付けば、その雑誌に手を伸ばしていた。
勉強を始めてから取得までに数年かかったネイリストの資格。物覚えは悪いし、手先だってそんなに器用じゃないし、そもそも専門学校に通う余裕なんて全然なかったから、かなり苦労した。それでも諦められなかったのは、夫との約束があったからだ。
◇ ◇ ◇
「オジョウサン、ネイル、ハガレテマスヨ」
水を出したカウンター席に座った外国人から、突然そんなことを言われた。えっ、と呟くと、その外国人はニコニコと人懐っこい笑顔で、私の右手の小指を指さした。
就職難で、就活しても正規採用をもらえなかった私は、親と疎遠になっていたこともあり、小さな定食屋で住み込みのバイトをさせてもらっていた。
本当は独り暮らししたかったし、美容系の専門学校に通いたかった。でも、金銭的にかなり厳しかった。学生時代の先輩が連れて行ってくれた定食屋の店主とおかみさんが、事情を知って部屋を貸してくれなかったら、住むところさえなかっただろう。
配膳と配達だけならと、飲食店なのに唯一の趣味のネイルまで続けさせてくれて、本当にふたりには感謝しかない。
——で。
その外国人は、ネイルの指摘は片言な日本語だったくせに、料理名だけはなぜか流暢で、5皿も6皿も注文した。
「ざるそばト天ぷら盛り合わせ、ソレカラ蛸のから揚げモオイシソウデスネ。アト塩むすびト豚汁、鯖の塩焼きモクダサイ!」
……あとから連れが来るのだろうか。しかし、この男は、テーブル席も空いているのに、迷わずカウンターに座った。
戸惑いながらも、仕事なのでひとまず注文を取る。
「ご注文を繰り返します。ざるそば、天ぷらの盛り合わせ、蛸のから揚げ、塩むすび、豚汁、鯖の塩焼きですね。塩むすびは2個セットになりますがよろしいでしょうか?」
「ヨロシイデス!」
やっぱり、達者なのは食べ物の名前だけだ。……変な外国人。
注文を店主のおじさんに伝えると、あまりの多さに一瞬目を白黒させたが、幸いお昼には少し早い時間だったので、全ての皿がカウンターに並ぶのに、そう時間はかからなかった。
全ての料理を前にし、その外国人は、瞬く間にデジカメで写真を撮ると、箸立てから割り箸を取り、パキッと割った。
「イタダキマスデス!」
最初に、豚汁の椀に手を伸ばす。ゴボウと豚肉をまとめて一口、それから汁をすする。湯気と共に立ち上るごま油の香りが、ふわっと広がる。七味をかけてもう一度。味噌の甘味に山椒の辛みが溶けて、口の中に満ちてゆく。
続いて天ぷら。まず箸をつけたのは、舞茸。油の多すぎない、カリッとしたその衣が、天つゆに沈むとジュワッと柔らかくなる。そこで一口。今度は、器の端に添えられた抹茶塩にちょんちょんとつけ、もう一口。今度はサクサクの衣の食感が残ったままで、噛んだ瞬間に音がする。
塩むすびは、豪快に手で。塩むすびはいつもおかみさんの担当で、この塩加減がまた絶妙なのだ。三角形の、ひとつはシンプルなものだが、もうひとつの方のてっぺんには控えめに白ゴマがちょこんと乗っているのが、また香ばしい。
次はざるそば。少し濃いめのつゆに小口ネギと山葵と刻み海苔、茗荷をパラパラと入れる。ほどほどに混ぜて、そばをイン。2・3回付けたら、薬味の絡んだその麺をつるり。うちの使っている山葵は少し辛みが強いのだが、それが濃いつゆと相性が良い。
蛸のから揚げは、店主の知人の漁師さんから直接仕入れたものだ。噛んだ瞬間に引き締まった身がプリッと出てきて、食べ応え抜群。
鯖の塩焼きに箸を入れると、ぱりぱりした皮の下から、じゅわわっと脂が顔を出す。ほぐれた身を、一度パクリ。それから、添えられた大根おろしと一緒にもう一度パクリ。ダメ押しで、レモンまで絞ってもう一口。
ああ、なんて美味しそうに食べるのだろう。
量もすごいが、それ以上に箸の使い方がやたらと上手い。魚の骨はしっかり避けるし、天ぷらの衣も零さずに食べる。
私も、店主のおじさんもおかみさんも、それから常連のお客さんたちも、その外国人の美し食べっぷりにすっかり見惚れてしまった。
その外国人はといえば、周りから向けられる視線に一切気づかず、最後に温かいお茶をゆるゆると流し込み、晴れやかな笑顔で丁寧に手を合わせた。
「ゴチソウサマデシタ。トッテモマンゾクデス!」
料理が揃って終了の挨拶まで、僅か20分。
……化け物だ。
「あんた、細いのによく食べるのねぇ。大食いの人?」
おかみさんの言う「大食いの人」は、テレビで活躍するフードファイターのことだ。それを理解したのかは定かではないが、ノーノー、と首を振る。
「ボク、オオグイノヒトチガイマス。コンナノ、オオグイニハイラナイ。日本食ズキノ、タダノカメラマン」
「日本食」もスムーズに言えるのか。……そういえば、最初料理の写真を撮っていたっけ。でも、あれはただの小さいデジカメだったような。
「カメラマンさんかい。どんな写真を撮るんだい?」
代わりに店主が訊いてくれたので、外国人さんの答えを待つ。彼は、答える代わりに黒い大きなリュックをあさり、一冊の本を取り出した。
筆記体で『colors』と書かれた表紙。そこには、たくさんのシャボン玉の中で空を見上げる、ひとりの少女の写真。ページをめくると、川に足を浸す女性や、木材を担いでいる作業着の男性や、とにかくたくさんの日本人を被写体にした写真が納められていた。
「ニッポンジン、オトコノヒトモ、オンナノヒトモ、ウツクシイ。ジャパニーズビューティー!ソレニ、ニッポンハ、ウツクシイイロデ、アフレテル。ソレ、トリニキタ」
どうして「にほんしょく」って言えるのに「にっぽん」になるのかしら——なんて疑問は置いといて。
なるほど、とにかくこの外国人は、超の付く親日家らしい。
日本人が美しいなんて、当人からしたら不思議な話だ。だって、そう言うこの外国人こそ、綺麗なブロンドの髪に、色素の薄い綺麗な目をしていて、よっぽど——。
「……かっこいいのに」
無意識に、そう呟いていた。外国人が、パっと顔を上げる。
「カッコイイ?……cool?ボクノコト?」
「へっ、あっ、えっと……」
——聞こえてた!思わず、お盆で顔を隠す。おかみさんたちまでこっちに注目して、一瞬で耳が熱くなる。
皆がニヤニヤ笑いを浮かべる中、その外国人だけは、みるみるうちに破顔した。
「Thanks!ウレシイ!」
……そう素直に受け取られると、何も言えない。私はゆっくりとお盆を下ろし、「……よかったです」とだけ呟いた。我ながら、可愛くない反応だ。
彼は、すぐに店主のおじさんたちとも打ち解け、3週間もたたないうちにすっかり常連になっていた。来る時間はバラバラだが、大抵11時台か、閉店ギリギリの22時前だ。いつだって最低5皿、多い時には8皿近くの料理を平らげる。胃の余裕もお金の余裕も底知れない。それなのに体は引き締まっていて、少しでも食べたら肉になるタイプの私からすれば、羨ましい限りだった。
普段は、動きやすいラフな格好に、リュックとデジカメひとつ。でも時々、仕事があった日は、大きな一眼レフの入った黒いカメラバッグを2個も3個も肩にかけ、スマートなジャケットを羽織って店にやってきた。料理を頬張っているときとは全然違う、凄く真剣な顔をカメラのモニターに向け、写真をチェックしている。
スッと通った鼻筋に、真っ直ぐな瞳。モニターの光が反射して、キラキラと光っている。
日本は美しい色で溢れている、って言ってたっけ。
彼は、そのレンズの向こうにどんな景色を見ているのだろう。
ある日、お気に入りになったらしい天ぷら定食に箸をつけながら、彼は私に言った。
「お嬢サン、明日ハ時間アリマスカ?」
最初にあったときに比べ、料理名以外もかなり流暢に喋れるようになった。——いや、そうじゃなくて。
「私?どうして?」
今日は他にお客さんもいない。おかみさんに勧められ、彼と同じカウンターに座る。彼は、現像された一枚の写真を胸ポケットから取り出した。
水面をなぞる、白くて細い、綺麗な手。綺麗なスクエアの爪は、水玉模様の爽やかなネイルアートが彩られている。
「綺麗……」
「デショ?コレ、明日ノお仕事ノリハーサル」
どうやら、明日は、人の手をモチーフに、水や空、草花なんかの自然や、コンクリートの壁などの人工物とコラボさせた写真を撮るらしい。そのとき、背景に合わせたネイルを、モデルさんの手に施すのだそうだ。
「最近、お嬢サンノネイル、トッテモ綺麗。一緒ニ来タラ、キット楽シイ」
初めてお店に来た日、最初に言われた言葉は「ネイルハガレテマスヨ」だった。あの日はうっかり扉に指を挟んで、表面を削ってしまったのだが、それでも悔しかった。顔も体型も性格も平凡な私にとって、ネイルは唯一のアイデンティティだ。あれから、もう二度と指摘されないようにと、ワンカラーのシンプルなものだったけれど、かなり丁寧に仕上げてきた。
そのことに、彼は気付いていたのだ。
「明日はお父さんの腰の病院があるからお店お休みだし、丁度いいじゃない」
おかみさんは、にんまり顔でそう言った。これは、気を利かせたというよりお節介を焼いたという表情だ。
どうやら、おかみさんはこの外国人をいたく気に入っている。その上、あの日「かっこいい」なんて口にしちゃったもんだから、やたらと私たちを絡ませようとしてくる。
それを知ってか知らずか、彼もまた、ぐいぐいと話しかけてきた。でも外国人ってそもそも距離感が近いものだし、ボディータッチなんて当たり前だってテレビで見たことがある。きっと、妹みたいだ程度に思われているのだろう。
とはいえ、プロのネイルアートが見られるのは、願ってもないことだ。私は、二つ返事でOKしたのだった。
翌日。彼は朝8時に迎えに来た。
「Beautiful!いつもト違っテ、トッテモ大人っぽいデスネ!!」
大きな襟の、紺色のワンピースに、同色のリボンのついたカンカン帽。足元は、つま先の出た白のサンダル。
普段はあまりメイクもしないけれど、今日は常連のお姉さんがわざわざメイクを教えてくれて、童顔な顔を少しでも誤魔化せるようにした。
「ネイルモ、素敵デス。足トお揃いデスネ」
そう。今日は、手の爪と足の爪、両方に同じネイルをした。深みのあるパープルの、グラデーション。普段の仕事中にはできない色だ。
彼は、こっちが恥ずかしくて死にそうになるほどネイルを褒め倒すと、私の手を引いてタクシーに乗り込み、撮影スタジオへと連れて行った。
会場は、まるでいろんな世界観がミックスされたような、不思議な空間だった。右の扉は和室に繋がっているのに、左の扉はアンティーク調の洋館テイストの部屋に繋がっている。庭も、色鮮やかな花手水があるかと思えば、反対側には無機質なコンクリート壁がそびえる。
元々、写真やテレビ・映画の撮影のために建てられたものらしく、振り向いたら異世界に迷い込んでしまうような、そんな違和感があった。
——でも、ワクワクする。
スタッフの名前をかけたスタイリッシュな女性が、いくつものバニティポーチを両手に近付いてくる。
「こんにちは、早いですね。さっさと支度済ませちゃうので、コーヒーでも飲んで待っていてください」
彼にそう言いつつ、視線は私に向いている。何度か瞬きを繰り返し、ああ、と納得したように頷いた。
「この子が例の?」
「……例の?」
私のことを知っていそうな口ぶりに、思わずオウム返しに訊き返す。スタッフの女性は、嬉しそうに頷いた。
「私、ネイリストなの。彼とは仕事場で何度も顔を合わせているのだけど、そのたびに貴女のこと話すのよ。貴女、ネイルが好きなんでしょう?いっつも聞いてるわ。今日はこんなネイルだったとか、あんな会話が楽しかったとか、こういう態度がかわい——」
「Stop!!」
慌てて彼が話を遮る。こんな焦った顔、初めて見た。その様子を見て、女性はふふっと可笑しそうに肩を揺らす。
「Sorry……揶揄うつもりはなかったんですよ?でも、貴方もそういうことには意外と奥手…… inexperienced?なんですね」
瞬間、彼が一気に首筋まで赤くなる。そのまま、様子を窺うように私に視線を移す。
——そんな態度を取られたら、こっちの方が赤くなってしまいそうだ。
帰るころにはすっかり日が暮れていた。疲れてはいる。でもそれ以上に、高揚感が凄まじい。
あれから、プロのネイリストの仕事を間近で見せてもらえて、モデルさんからはネイルをされる側としての意見も聞けて、勉強になった一日だった。バニティポーチの中には、見たことないような色のネイルカラーや、きらびやかなストーン、ラメなんかがたくさん入っていて、専用のブラシやケアグッズも新鮮で。私からすれば、まさに宝箱だった。
でも、それ以上に目に焼き付いているのは、彼の仕事中の横顔。
モデルさんに指示を出すときはへにゃっと気の抜けた笑顔をしているのに、カメラを構えたら唐突に顔が変わる。絶対に妥協しない——そんな目で、夢中で被写体を追う。花を摘む手も、風船を空に放す手も、どの一瞬も逃さないように。
私はずっと、スタジオの端の椅子で、そんな彼を見ながら耳に優しいシャッターの音を聞いていた。
彼は、朝と同じようにタクシーで店まで送ってくれた。
「今日は、本当に楽しかったです。誘ってくれてありがとう」
そう言うと、彼は満足そうに頷いた。きっと、本当なら、私みたいな一般人を仕事現場に連れて行くのは良くないことなのだろう。でも、スタッフさんたちもモデルさんたちも、好意的に私を受け入れてくれた。それはきっと、事前に彼が根回ししてくれていたからだ。
こんなに親切にしてくれるなんて。あのときは無理やり遮られてしまったけれど、ネイリストさんが言っていたことと、何か関係があるのだろうか——。
……なんて、訊けるわけないけど。
彼が背を向けようとすると、丁度扉からおかみさんが顔を出す。
「ああ、やっぱり。帰ってきたのかい。夕食、食べていかないかい?今日は休みだし、お代は良いからさ。レンコンの天ぷら、あるよ」
「天ぷら!?食べマス、食べマス!!」
私が何か言うよりも先に、彼はおかみさんと一緒にさっさと店内に入ってしまった。
……やっぱり、日本食馬鹿だ。
いつものセットに肉じゃがの小鉢とつるっとした葡萄が加わって、より豪華な天ぷら定食がカウンターに並ぶ。手伝いは良いからと私も彼の隣に座り、一緒にいただきますと手を合わせた。
「トッテモ美味しいデス!出来立てホカホカ!最高デース!」
いつもの調子で、あっという間に彼の胃の中に吸い込まれていくご飯たち。決して私も食べるのが遅いタイプではないのだが、私が自分の分を食べている間に、彼は3回もお代わりを要求した。
そして、満足したのかやっと葡萄に手を伸ばす。
「……あれ?」
おかみさんが、後ろから手元を覗く。
「その葡萄、皮ごと食べられるよ。丸ごと放り込んじゃいなよ」
彼は、ヘタの部分から、丁寧に、そして真剣に皮をむいていた。おかみさんの言葉に、ちょっと眉を下げて彼は言う。
「ボク、葡萄ノ皮苦手デス。イツモコウヤッテ取っテ食べマス」
平気な顔でそのまま葡萄を頬張る私を見ると、彼はまた、ちょっと情けなさそうに笑った。自分に苦手なものがあると知られるのは、複雑だったようだ。
しかし手先は器用なので、ほとんど実の形は残ったまま、綺麗にむき終える。葡萄そのものは好きらしく、嬉しそうに頬を緩める彼の手元を見て、私は思わず笑ってしまった。
「ちょっと、爪の色。染まっちゃってますよ」
えっ、と彼は自分の手元に視線を落とす。葡萄の皮をむいた彼の右手の爪は、皮の色が染みこんで、先の方がほんのり紫に染まっていた。それを見て、パっと顔を明るくする。
「一緒!お揃いデス!!」
右手の爪を見せながら、左手で私の爪を指す。私のネイルは、深みのあるパープル。——葡萄色。
まるでネイルしたような彼の爪と私の爪とをカウンターの上で並べ、利き手でもないのに、左手で器用に写真を撮る。シャッターの位置だって逆なのに、扱いづらくないのだろうか。
子供のような顔で爪を見つめるその顔と、レンズを覗く真剣な顔が交互に目の前にちらついて、私は一言、呟いた。
「すごいなぁ……」
カメラを置き、きょとんとした目をこちらに向ける。何のことか分からない、と言いたげな様子で。
「自分の好きなことに夢中になって、お仕事にまでしちゃって。その上、こんな外国まで来るなんて……」
それは、僅かな嫉妬と、羨望。そして、環境を言い訳に、人を羨むばかりでそうできない、自分自身への苛立ち。
私だって、本当は——。
すると彼は、椅子ごと体をこちらに向け、カウンターに置かれた私の両手をぎゅっと握った。
「!?」
戸惑いと恥じらいでのけぞる私に、真っ直ぐな瞳で言う。
「今諦めるノハ勿体ないデス」
「え……」
「ボクガ、コノ仕事ヲ始めたノハ26歳……3年前カラデス。カメラ、好きダッタケド、ズット会社ニイマシタ」
多分、カメラマンをするまでは、一般企業に勤めていたということだろう。……っていうか、この人もうすぐ30歳?見えない。外国人は老けて見えると聞いていたけれど、彼には当てはまらない。
「日本デハ、レディーニ年齢訊くノマナー違反?デモ、知りタイ。イクツ?」
「……19歳……」
そう答えると、彼は一瞬固まる。化粧っ気がないから、もっと歳下に見えていたのだろうか。
しかし彼は、何とか持ち直して言葉を続けた。
「エート……トニカク、マダ時間ハ沢山アリマス。グランマ、言っテマシタ。『人生、死ぬマデ挑戦』デス!
……ボク、知ってマス。お嬢サン、ネイル、好きデショ?」
確かめるようにそう言われ、思わず頷く。
——そう。早く普通に会社に就職して、おかみさんたちにこれ以上迷惑をかけないようにと思っていたけれど、やっぱり私は——。
「ネイリストになりたい……!」
気づけば、涙があふれていた。
「プロを見て、やっぱり素敵だなって思った。自分も他人も笑顔にする、本物のネイリスト。私だって、あんな風に……!」
繊細でカラフルなネイルアート。それを見て、嬉しそうに目を細めるモデルさんたち。色とりどりの照明を反射して、世界を彩るストーンの光。それに魅了される、たくさんの人たち。
あの素敵な空間を、私も作り出してみたい。
諦めたくない。
みっともなく鼻水をすすりながら泣く私に、彼は優しく言った。
「約束、シマショ。死ぬマデニ、ネイリストノ夢、叶えるッテ。ボクモ、夢アリマス。日本ノ、素敵ナ家族写真、沢山撮る。お互いニ、叶えるコト、約束シマショ。一緒ニ頑張りマショ」
声が出ず、ただひたすら頷く。彼は、パっとおかみさんを振り返り、尋ねた。
「おかみサン、アレ、教えテクダサイ。日本ノ、約束ノおまじない」
「おまじない?……ああ、指切りのことかい」
おかみさんに言われたとおりに、自分の小指を、私の小指と絡める。皮をむいたくらいで、親指と人差し指以外の指がなぜ汚れるのかは謎だけれど、彼の小指の爪は葡萄色に染まっていた。
私の小指と、同じ色に。
「指切り、ゲンマン?嘘吐いタラ、針千本、飲まス!……コレ、思ったヨリ、怖いおまじないデスネ。ボク、千本モ飲めマセン」
突然神妙な顔でそんなことを言い出すので、私は、泣いていたことも忘れて、思いきり噴き出してしまった。つられて、店主のおじさんもおかみさんも腹を抱えて大爆笑。彼も、最初こそ目を見開いたが、意味も分からず一緒に声をあげて笑った。
ひとしきり笑ったあと、何とか深呼吸で一息ついて、真っ直ぐ彼を見返す。
「私、頑張るわ。いつか必ず、ネイリストになる。私だって、針、千本も飲みたくないもの」
涙と鼻水のせいでせっかくのメイクはぐちゃぐちゃで、とても綺麗とは言い難かったけれど、このときの私は、自分史上最高の笑顔だったと、そう思う。
彼は、笑うでも励ますでもなく、なぜかレンズを覗くときと同じような、とても真剣な目をして、それから——。
絡めたままの、私の葡萄色の小指の爪に、そっと唇をつけた。
「ふぇっ」
変な声が出た。店主のおじさんは複雑そうな顔をして、おかみさんは頬に手を当て、あらあら、と呟く。
これって、もしかして、いや、もしかしなくても、キス——。
放心状態の私に、彼は、アラサーの癖に可愛らしく小首を傾げて、そっと囁く。
「お嬢サン。19歳ノお嬢サンニ、29歳のおじサンガ恋スルノハ、迷惑デショウカ?」
その瞬間に思い浮かぶのは、今朝の彼とネイリストさんの会話。
何となく、そんな気はしないでもなかったのだけれど、私には恵まれた容姿も取柄もないし、出会ったばかりだし、変に期待しないようにしていたのに——。
でも、期待しないようにしていたのは、自分が傷つきたくなかったから。
だって、私の心はもうとっくに、彼のレンズに捉えられている。
私は、彼の真似をするように少しだけ首を傾けて、目を細めた。
「大丈夫じゃないかしら。19歳は、もう子供じゃないもの」
それを聞くと、彼は、初めてうちの料理を食べたときのような晴れやかな笑顔で、そして店内に響き渡るような大声で、「Thanks!」と叫ぶのだった。
◇ ◇ ◇
「ただいまー」
玄関のドアが開く音と共に、娘の声が聞こえる。
「おかえりなさい。手、洗っておいで。果物あるわよ」
「マジ?ラッキー!食べる食べる!」
バタバタと、忙しない足音が廊下に響く。直接洗面所に直行したようだ。
最近、私のネイリストの仕事がない日も、娘は帰りが遅い。あまり詳しいことは話してくれないけれど、母親の直感で分かる。これは、恋だ。
とは言え、現を抜かすような様子はなく、むしろ成績も上がっているようだし、母親として心配するようなところは何もない。
「何それ?子供向けの雑誌?」
リビングに入ってきた娘が、テーブルの上のやたらファンシーな本と、並べられたネイルカラーを覗き込む。私は冷蔵庫に向かいながら、そう、と答えた。
「最近の付録ってすごいのねぇ。こんなかわいいネイルが付いてるんだもの」
「へえ、可愛いね。大人っぽい色もある。使うの?これ」
「もちろん、お客さんには使わないけど。プライベートで使うくらいなら、意外といけるかもって思ってね。……そうだわ。土日、また練習させてよ」
当然、学校のある日はネイル禁止だ。でも、娘は週末になると、ネイルの練習台に付き合ってくれる。我が娘ながら、優しいいい子だ。
だが、今日は何だか様子が違った。
「……だめ。今週は、金曜の夜にやってよ」
「金曜?どうして?」
尋ね返すが、何だがもごもごと言い淀んで、答えない。皿を取りながらちらりと目をやると、顔が真っ赤になっていた。
……デートだな、これは。
「どの色が良いの?」
そう訊くと、パっと笑ってネイルカラーのひとつを指さす。
「これ!」
最近小さい子に人気な女児向けキャラクターが瓶に描かれた、薄いピンクのネイル。——朱鷺色というやつだ。素の爪の色とそうかけ離れているわけではないが。
「かなりナチュラルだけど、それでいいの?」
「これがいいの!」
昔から、見た目のわりに派手なものは好まないタイプだったけれど。ここまで言うなんて、彼氏の好きな色なのかしら、などと邪推しながら、娘の前に皿を置く。
「わ!葡萄だー!美味しそう」
そう言いながら、娘は皮に手をかけた。皮ごと食べられる葡萄なのに。こんなところは、彼そっくりだ。まったく、変なところが遺伝しちゃったんだから。
隣に小さい皿を並べると、「3つでいい?」と言いながら、娘は向いた葡萄をその皿に移した。その上にラップをかけ、棚に置いた家族写真の前の、ひとり分の夕食と一緒に並べる。今日の夕食は、店主のおじさんから教わった天ぷらだ。
それから——付録のネイルの中からひとつ、ラメ入りの、葡萄色のネイルカラーも、一緒に置く。
娘がスマホで動画を見始めた音を背中越しに聞きながら、私は家族写真の中の彼に目を向けた。
貴方が事故で死んで、もう10年。この子は、青春たっぷりの高校生活を謳歌しています。
どうやら、私も貴方も、針千本、飲まずに済みそうね。
私はまだまだそちらに逝くつもりはないし、もう一度出会う頃には、貴方よりもよっぽどお婆ちゃんになっているだろうけれど。
ちゃんと、私だと分かるように、この葡萄色のネイルをしていくから、だから——。
——その時はまた、「お嬢サン」と呼びながら、カメラを向けてくれるかしら。
最後までお読みいただきありがとうございます。
「日々恋」(勝手に略称を作りました)は、また他の誰かの物語を紡ぐかもしれません。
その時はまた、ぜひ読んでいただけると嬉しいです。