慕情
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うまくいっているようでよかった…。
二人の様子から初めに誓った春名と主人公を結ばせる、という使命を果たせそうなことに安堵する。本来のゲームの世界ならば、モブで最後は消えてしまう春名だったが、今の状態を見るにそれを阻止できそうだ。
かなりいい気分だ。このまま学校に戻って、連絡をして家に帰るか、と思ったその時。
「ここで何をなされているのですか?」
カフェを出たところで後ろから声を掛けられる。聞いたことがあるその低く痺れる声にぞわりと背筋が凍るような感覚がした。恐る恐る振り返る。闇のような艶のある黒髪、整った顔にきりっとした切れ長の黒の瞳。わたしが一番、会いたくなかった人物。
「待っていてくださいとお伝えしたのに、どうしてここにいるのでしょうか?」
にこりと笑みを浮かべた春名諒が立っていた。顔は笑っているのに目が笑っていなくて怖い。どう誤魔化そうか一生懸命に考えてしまう。
「えっと…どちら様?」
サングラスの位置を確認しながら、「なぜここにいるのか?」という質問を質問で返し、誤魔化した。すると、諒はそのままの表情で、ずいっとわたしに近づいてきて、じっとわたしを見つめてきた。今までそんなことをされたことがないので、その距離感に戸惑ってしまった。
「このような変装をされてもお嬢様のオーラは変わりません」
そう言いながら隙を見てかけていたサングラスを取り上げられた。わたしの茶色の瞳がしっかりと見え、顔全体が明らかになり、優樹菜の顔と分かってしまうだろう。一気に視界が明るくなる、眩しくて目がくらんだ。一瞬視界を奪われた間に、諒がさらに顔を近づけてきた。諒の吐息が顔にかかるくらいに。急に恥ずかしくなってきた。
「こんなウィッグまでかぶってまで、あの二人を追いたかったのですか? ご報告さしあげると言いましたのに…」
そして、そのままわたしがかぶっていたショートのウィッグをいとも簡単に取り外した。夜空の色のゆるいウェーブがかかった長い髪がばさりと、重力に負けて落ちてゆく。これで誰が見ても完全に優樹菜だと分かってしまう。諒は落ちた黒髪の一部を手に取り、優しく撫でた。
「お一人で出歩かれることがどんなに危ないことかお嬢様は理解しておりませんね」
そして、そのまま頬に手が伸びる。ガラスが壊れないかのように、優しげな手つきで。諒の行動に驚き、ぱっと諒の表情を見ると、悲しそうで我慢してるような顔つきでこちらを見つめていた。その表情を見ていると、こちらまで切ない気持ちになってくる。
「わたしは、ただ…」
ただ二人を見守りたかっただけ、と言い訳をしようとしたら、諒の指先がわたしの唇に触れた。時が止まったかのようにゆっくりとした時間が流れる。わたしはただ、黙っていることしかできなかった。
「……戻りましょう。こちらから家の者に連絡を入れておきます」
そう言いながらわたしからゆっくりと手を離す。何か言いたげなそんな表情をしながらも、わたしから視線を外し、自分のスマートフォンを取り出した。おそらく今日わたしに付いているお手伝いに連絡するのだろう。わたしは、諒の様子をじっと見つめていた。触れられた頬が熱い。そして、諒はわたしに何を伝えたかったのだろうとぼんやりと考えてしまっていた。
あの後、車を呼ばれ、無事に家に戻り、自室に入った。お手伝いたちを欺いたことに何のお咎めもなかった。諒がうまく誤魔化してくれたのだろう。その諒は部屋に入る途中まで隣についていたが、急にかかってきた電話に出て話を少しするとすぐに、七宮家のお手伝いと交代してどこかへ消えていった。いつも浮かべている微笑みを消し、若干怒りの表情を浮かべていた気がする。もしかするとわたしの気のせいかもしれないが。
そして入れ替わりに春名が自室に入ってくる。どうやらお出かけから帰ってきたようだ。出かけていた時に着ていた私服ではなく、七宮家で使用する制服に着替えていた。
私服、とっても女の子らしくて可愛かったのに。近くでも見たかったなあ、ちくしょう。
そう心の中で悪態をつきながら声をかける。
「おかえりなさい、春名」
「お嬢様、ただいま戻りました。私的な用事でお休みをしてしまい、申し訳ありませんでした」
そう言うと春名は美しい礼を一つした。春名の右手首には、春名の華奢な手首に合う細い黄色の紐に小粒のガラス玉がいくつか通されたシンプルなブレスレットがつけられていた。冬服なので服の袖に隠れていれば特に気にならないくらいのデザインだ。プレゼントされたものと分かっているのでにやにやしてしまう。それと反対に春名はもじもじと何か切り出そうとしている。好きな人からプレゼントをもらったのにそんな態度なの? と疑問に思う。
「お嬢様…、あの…私…」
何か言いたげな表情を浮かべ、春名は右手首のブレスレットを触った。そして、ブレスレットを手首ごとぎゅっと握りしめた。
そして、春名と目が合う。その表情は何か決意したかのような顔。
「お嬢様、私を解雇してください」
「は?」
素っ頓狂な声が出てしまった。主人公と一緒に出かけ、幸せいっぱいのはずの春名の言葉にわたしは、ぽかんとする。
デートして、帰ってきて、いきなりそれ? 冗談じゃないよね?
いきなりのことに情報を処理しきれないわたしに比べて、春名からは真剣そのものの雰囲気が漂っている。
「急な申し出だということは重々、承知しています。でも、私は…」
春名の声は震えている。その震えた声にはっと我に返った。春名が理由もなく、解雇をお願いするはずがない。きっと何か事情があるはずだ。
「なぜ、ですか?」
「それは…」
春名は言葉に詰まっていた。ぎゅっと握りしめられた手にさらに力が入っている。話すことを躊躇うかのように春名の目線が下に落ちる。
話せないのかな…。
そう思うや否や、春名は急にきゅっと目を瞑り、両手を胸の前に当てて一つ息を小さく吐いた。そして、外れた視線がまた、わたしに向かう。その目は、とても真剣で、誠実で、とても美しかった。
「私は、お嬢様を裏切っています」
そう春名は答えた。
慕情は、慕わしく思う気持ち。特に、異性を恋い慕う気持ち。(デジタル大辞泉より)