2話 歩路
私は備え付けの椅子に座って溜め息を付き、不条理な目の前の状況を処理して疲労した脳に酸素を送り込む。落ち着くと、少し肌寒いことに気が付く。薄いパジャマのままなのだから、仕方ないか。さすがに羽毛ぶとんを被るのは鬱陶しいので、なにか羽織る物でもないかと、部屋の探索ついでにクローゼットを開ける。布のような何か。一枚を手に取り、広げる。ワイシャツ。触らないほうが良かったかと後悔しつつ、畳んで置き直す。何か他にないかと周囲を見渡し、ありとあらゆる戸棚を開けて回った。しかしまるで生活感のない部屋には、何も有用そうな物はない。一度やろうと思ったことを終えてしまうと、急に喪失感に襲われる。気分転換になるかと、外に出て玄関ポーチに立つ。日が少しずつ昇り、辺りは朝日の暖色で染まっている。砂利道、川、向こう側には山、森。感覚を外へ向けると、鳥のさえずり、水のせせらぎ、木の葉のこすれる音が耳に入る。振り返ると、建物が目に入る。平屋のログハウス。大変な所に来てしまったものだと、自らの置かれた事態を再確認する。しかしこの薄着ではやはり冷える。小屋に戻ろうとドアに手をかけた時、カクテルパーティー効果は文字でも起こるのだろうか、見慣れた文字が目の隅に留まる。ドアに掛けた手の横に釘で留められた木板には、数文字分のクエスチョンマークのような模様の下に、私の姓がラテンアルファベットで「AIZAWA」と刻まれていた。とするとクエスチョンマークに思われた模様はここで用いられている文字だろうか。そう考えて見直すと、1文字目、4文字目、そして最後の文字は同じ形をしている。外に出たときから薄々勘付いてはいたものの、ここは日本ですらないようだ。どうして私の名前が小屋の前に掲げられているのかは皆目見当も付かないが、これは少なくともこの小屋と、その中の物は私の所有物であるということだと解釈できる――いや、解釈しよう。そういうことなら、と私は小屋に戻り先程の衣類一式に着替える。暖が取れると、頭が冴えてくる。ここが慣れ親しんだ土地、まして国でもないということが判った今、もっと情報を収集しなければならない。これに対する最も確実な解決方法は、情報を収集することだ。ここはどこなのか、どうすれば帰れるのか、どうしてここに来たのか。わからないことは山ほどある。それらの解を見出すことを直近の目的に据え、私はひとまず人のいる場所を目指すことにした。とはいったものの、どこへ進んだものか。小屋の目の前の道は、川に沿っているようだから、これを伝って川の下流へ行くべきだろう。ここに戻ってくるのも簡単だ。これだけ自然豊かな田舎なのだ、川沿いに集落が立地しているとしてもおかしくはない。そうと決まれば早速出発だ。ドア近くに置いてあったブーツ風の靴も私のものだと解釈して構わないのだろう。服も然りだったが、履くとぴったりフィットするのだから、不思議な話だ。全く呑み込めない。特に持つ荷物もないから身軽だ。緑香るそよ風に吹かれ、川を右手に見ながら歩く、ただ歩く。見知らぬ地に一人放り出されたというのに、心細くないものだな、とひとりごつのだった。
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10分ほど歩いただろうか。未だ一人もすれ違わない。しかし希望がないわけではない。先程から前方に小さく橋のようなものが見える。人が通るから橋があり、橋がある所を人は通るのだ。しかしすぐ横にある川幅には見合わないサイズだ。隣の小川も徐々にその幅を増している。おそらく橋の辺りは本流が流れていて、こいつはそれに合流しているのだろう。少しずつ大きくなっていくそのシルエットを目がけて、歩を進めるのだった。