1話 床離れ
目が醒める。脳が活動を開始し、頭に情報が流れ込む。今日も昨日と同じような、また明日も同じであろう一日を貪る覚悟を決め、瞼を開く――努力をする。外界に触れることを拒む眼球を説得するように数回瞬く。見える映像が鮮明になるのにつれ、思考もはっきりしてくる。思わず小さく声を上げる。この感覚、旅行先で目覚めたときに似ている。いつもなら真っ先に目に入るはずの蛍光灯と白い壁紙の貼られた天井は、そこにはなかった。茶色、木目。一度完全に覚醒したはずの脳は、再び混乱の渦中へと押し戻される。掛け布団をはねのけ、ベッドの上に胡座をかく。考えてみればこれもおかしな話である。私は確かに昨日の晩、普段通り布団に入ったはずなのだから。だとすれば何だこれは。拉致か。誘拐か。慌ててドアに駆け寄り、ノブをひねる。動かない。やはり――とまで考え、ふと気づく。ノブのすぐ下、サムターンのようなもの――この位置とこの形、これが錠を開け閉めするための金具であると考えないほうがむしろ不自然であるか。もしかするとこの思考の論理の半分は、この金具を回転させさえすればドアが開くのだ、そうであって欲しい、という願望によるものだったのかもしれない。とにかく、私はそれをつまみ、ひねる。確かな感触とともに、静かな部屋の中にカチャリと音が響く。ノブをゆっくりと回転させ、ドアを細く開ける。隙間から顔を覗かせ、左右を確認する。まだ外は薄暗いが、近くには誰もいない、というより人気がない、という表現のほうが適当だろう。ひとまず考えられうる最悪の可能性は排除できたようだ。そもそも考えてみれば、私を拐う理由がないではないか。金も権力もあるわけではない、平凡という形容のふさわしい家の子供なのだから。ホッと息を付き、ドアに施錠した上、先程までいたベッドに戻り、腰掛ける。安心した途端、視界に潜む違和感が鎌首をもたげる。部屋は全く見覚えのないはずなのに、妙に親近感を感じる。腰掛けているベッドに目を落とし、その違和感の正体に気づく。この模様、肌触り。紛れもなく私の掛け布団だ。それだけではない。枕も然りである。単純だ。この目の前の事実から導き出される結論は一つしかないが――。私はそのあまりに現実離れした結論を自分に言い聞かせるように一つ深呼吸をする。私は布団ごと、どこか知らない場所へ飛ばされてきてしまったようだ。