8. リュウと異世界の教師陣
召使いのねーちゃんに連れられて着いた部屋。けっこう広めで、薄暗いけど、窓があって光が差し込んでいる。
ちょっと老い始めたかなっていう感じの灰のひげのおじいさんが立っている。
「今日から私がお前の教師だ。まず、異世界から来た勇者だということは、絶対に言わないこと。魔王に対して、不意打ちを食らわせなければならない。勇者召喚はこの王国の切り札だからな」
「分かっているかもしれないが、言葉が通じるようにする魔術をお前にかけておいた。転移者たちの便宜を図って開発しておいたものだ。耳で聞く言語、話す言葉については、元の体の感覚を使って不自然にならないようにできたのだが。文字の読み書きの完成度はいまひとつというところだ」
そういえば、昨日勇者召喚されたとき、最初は言葉が通じなかったな。そのあと香水みたいなのを振りかけられて、言葉が通じるようになった。あれのことか。
「という訳で、読み書きの講義を始める」
まずは文字の練習だ。隅に用意された机と椅子のところに、大きな皮が取り出されて広げられる。羊皮紙ってやつかな。俺の前には、白い大きな紙が置かれる。必要があればメモに使えということだろう。
Aa,Bb,Cc,Dd,と順番に、皮に書かれた文字を指差しながら、発音を示していく。見た限り、元の世界で使ってたローマ字アルファベットと一緒だ。
Aは「ア」または「アー」、Iは「イ」または「イー」、Uは「ウ」または「ウー」……。
Bは「バ行」、Cは「カ行」、Dは「ダ行」……。
発音もほぼ一緒だ。しかも英語と違って、規則的。aを「エイ」と読んだり、「ア」と読んだりといった、日本人には当たりがつけづらい紛らわしい読みはないということだ。母音は5つ、子音の発音も面倒くさいのはなし。
発音が分かればこっちのもの。声に出して読んでみれば意味が分かるってわけだ。
今度は文章が書かれた皮が広げられる。初心者用に簡単な文が書かれた例文集だ。
「声に出して読み上げてみろ」
『tempus fugit』
「テンプス・フギト」
<時は飛ぶ>
『disce aut discede』
「ディスケ・アウト・ディスケーデ」
<学べ、さもなくば去れ>
サボりの学習者にはなかなか辛らつなセリフじゃないか? というツッコミは置いといて。口に出して言ったあと、少し遅れて頭の中に日本語の訳が聞こえてくる。
「これ、短い文ならいいけど、長い文になったとき、読みながら少し遅れて聞こえてきたら、干渉して邪魔だな」
「次、口に出さない方法を。心の中で発音を確認しながら、文字を目で追ってみろ」
『disce aut discede』
<ディスケ・アウト・ディスケーデ>
“学べ、さもなくば去れ”
「文字が翻訳されて浮かび上がってくる。古い呪文が記された本は、声に出すだけで呪われることがあるから注意するように」
あぶねえ、そういうことは先に言ってくれ!さっそく文章読んでたらどうするつもりだったんだ。
「書物を記すときには、各国共通の古典語を使う。著述家や歴史家になるためには、古典語の文法も習得しなくてはだが。お前はまず書くことはないだろうから大丈夫だ」
本当にそれ。教材の下の方を見ていったらどんどん複雑になってくる。理解できる気がしない。
「これとは別に、普段使いの口語もあって、最近はそれでも出版されることがあるかな」
ここで少し文章を読まされる。ふんふんと読んでいくが、すぐに詰まる。
「この『recognize』「レコグナイズ」ってのは何ですか?」
「北西にある島国の異民族から伝わった言葉だな」
確かに、英語で見たような。
「心の中で読んでも和訳されない」
「お前の知っている言語に対応する言葉がない、または対応する言葉があっても知らない場合、翻訳されない。Advocacyとかも知らんだろ」
ぐぬぬ、言葉自体は聞くけど。不勉強で意味は知らない。日本語での訳語を、正確に、意味も含めて知らないと翻訳されないってかなり不便。ないよりはマシな魔法だが……。
「もしかして、意味を知らない言葉は耳で聞いても」
「もちろん翻訳されない」
アウト。日本語で調べられる辞書は日本に置いてきた。残るはこちらの辞書を使うことだけど。この世界の言葉、例文集の下の方を見ると、同じ単語でもすさまじく形が変わる。そして、もしかして、だけれど。
「辞書、言葉の意味を載せた本ってあるんですか、できれば持ち運べるくらいの大きさで」
「そんなものはない」
ですよねー。手書きだと、文字を分かりやすくするためには、どうしても大きな文字で書かないといけない。しかも紙は貴重。
人に聞くしかないのか。地道な勉強が要るわけだ。異世界まで来て単語勉強かよ。しかも辞書ナシ!
「さて、ここからはこの世界の地理と歴史を」
異世界社会の勉強だ。まとめるとこんな。
この国はどうやらかなり北方にあるらしい。土地は痩せて、おもな作物はライ麦、雑穀、少しの野菜。わずかな小麦と、これまたわずかな家畜が生産されている。
新大陸の話はないし、石炭が取れる訳でもなさそう。めぼしい資源は鉄鉱石とまばらな森林。そこを魔王軍が荒らしまわっている。
内政モノやって国を富ませて大軍率いて魔王城へ、ってのはできなさそうだ。
「やっぱり俺が自分で行くしかないのか」
歴史の説明。この世界、今年は紀元450X年らしい。そして、この生活様式が4000年くらい続いている。つまり、よくいう西洋中世のまま、歴史が止まってしまっている。
科学の蓄積もない。なまじ便利な魔法があるせいで、科学技術を発展させようという動機付けがないのだ。
年表を見ていく。人間同士、しばしば戦争をしているけど、全ての国を巻き込んだり、世界を統一したりするような戦いはない。そんな戦いの合間合間に、どこかの王がドラゴン退治をしたとかいう話が、年号付きで記録されている。東方から来た魔王の封印が破れて、この前封印しなおしたのが4328年。
ドラゴン退治とか魔王封印って、いつか遠い昔の伝説とかで語られるものじゃない?
「てことは実際ドラゴンがいる?」
「何当たり前のことを言っているんだ。ドラゴンだけじゃない。山にはゴブリンがいるし、洞窟からはオークやトロルが溢れ出てくる。沼地にはケルビムが旅人を狙っている。怨みをもって死んだ人は悪霊になる。黒魔術や呪詛もある。魔王軍が荒らした農地には草が生い茂り、熊、猪、狼が繁殖して」
「危険すぎる!」
「だから勇者が要るんだろうが!」
さらにしばらく講義が続いた後。
「では、次の師範に」
入れ替わりに入ってくるごつい中年男、ザ・体育教師って感じだ。
「よし、これから体力を調べるぞ」
嫌な予感がする。中庭に連れ出される。それじゃ、これから待っているのは……。
握力、開脚、短距離走。俺のキライな体力テストじゃねーか。
次々に続く測定。動き続けるのは慣れてなくてかなりキツイ。前の体に比べて体重が軽くなっているとはいえ、体格小っさいし、栄養不良で体力ないし。そしてこの体、運動神経はいいんだが、まず元の体で運動してこなかった。だからこの体の運動神経を使いこなせない。
昼を告げる鐘が鳴る。やっと解放された。地面に転がる俺。
体育教師からも念押しされる。
「勇者だということは周囲に言わないように。お前が勇者だと知っているのは、陛下と少数の重臣、そして身の回りの世話をする者達だけだ」
体育教師はやっと去っていった。
朝から案内してくれているお姉さんが手に何かを抱えてくる。昼休みだ。腹が減る、何か食いたい。お姉さん何持ってきたんだろう。
「お疲れでしょう。お水です」
「昼飯はないの?」
「ございません」
「え、昼食がない」
「体を酷使する肉体労働者、体の大きな騎士、農民などは昼間に食事を取ることがありますが。普通は朝夕2食です。食事ばかりしていては、あっという間に食料が無くなってしまいます」
文字通り、休むだけの昼休み。食べなくても、体が慣れているのか、意外と何とかなるのだが。
「何か食べたいし、実際腹も減る」
それなのに食事はない。仮に大量の食事を並べられても体が受け付けない、朝で分かったけど。ええい、この体!
短い昼休みが終わる。
「午後の測定を始めるぞ」
体育教師が叫ぶ。
「次はもしかして魔法適性?」
「それは明日だ」
てことは。
「持久走するぞ!」
俺の一番嫌いな苦しいやつ。空きっ腹でふらふらする中、俺は中庭をぐるぐると走り続ける。
直近2部分、言語や文字関係に字数を割いたのは、作者が外国語好きだから。新しい外国語を学ぶのってわくわくします。なお、マスターするのは()