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探偵助手、はじめました。  作者: 是木田イミフ
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file.1 「金原ユキの調査ファイル」

※この作品は、乙女ゲームのシナリオとして書きだしたものなので男女比率が3:1くらいに男子に偏りがちです

※探偵小説というキーワードになってますが推理や謎にはご期待せずにご覧ください←超能力で何とかしちゃうのでお察しください

※ナイスミドル上司←鈍感ヒロイン←年下ツンデレ美少年 の三角関係 です

※つかず離れず、くっつきそうでくっつかない展開 そんなに甘々ではありません

※ピンチに落ちるヒロインをサイキックアクションで救う萌展開が書きたかっただけのものです

※仕事と育児の合間の超ゆっくり更新です

挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


1 プロローグ


「ああ…っ、いやあああああああああああッ……!!」


経験したことのない、焼けるような痛み。


男は躊躇なく、何度も何度も何度も何度も、私の腹にナイフを突き刺した。

(嫌だ、嫌だ、いやだ、いや………。)

熱い血が服を濡らしていく。私を刺した男の荒い呼吸だけが妙にはっきりと聞こえていた。どくどく、どくどく、どく……だんだんとゆっくりになっていく自分の心臓の音が、人生終了の時を知らせていた。絶望、後悔、苦しみ……目の前が暗くなっていく。


たった18年の、短い人生の走馬灯が見えた。なにかで一番だったことなんてない、表彰されたこともない、恋が叶ったこともない。ぱっとしない人生。なにひとつ、やり遂げていない。いや、やりたいことすら、なにひとつまだ見つけてはいない。嫌だ、嫌だ、このまま終わりだなんて、嫌だ!


(おかあさん、ごめんなさい……わたし……。)


産み育ててくれたたった一人の母への謝罪は言葉にならず。ただ、かすかに唇が動いただけだった。

耳を掴まれ、間近でナイフで肉をそぎ切る音が聞こえた。



「…ぐっはァッ…!!!」


少女はフローリングの上で目を覚ました。

ベッドからころがり落ちたらしい。

床には犬のぬいぐるみが散乱していた。


「なんか……。」

「す~~~っごい…。怖いユメ見た気がする…。」


痛む後頭部をなでた。内容は覚えていないが、恐怖心だけがリアルに残っていた。貧血のような、血の気の引く感覚。心臓の音がうるさいくらいドクドクと鳴っている。


(なんか…よく出来たホラー映画1本観た気分)


伸びをして起き上がる。面白い夢を見ると得した気分になるものだが、だいたいは中身を覚えていられない。なぜヒトが夢を見るのがまだ科学的に解明されていないらしいが、人体とは不思議なものだ。あふぅ…と間の抜けたあくびをする。大きく開いた口元で尖った八重歯が光った。


夢の内容を思い出そうとしたが、もんやりとしていて断片すら掴めなかった。

(そういえば昨日、髪乾かさないで寝ちゃったなぁ…。)


金原ユキの朝は寝癖との格闘から始まる。もともと癖のある髪が寝癖のせいで、まるで爆発から出てきたかのようにおかしな形に膨らんでいた。癖を伸ばそうとブローばかりするので、髪は傷みに傷んで染めてもいないのに茶髪に見えた。毛づくろいをする挙動がどこか小動物を想起させる。


洗面所にはオレンジとローズピンクの歯ブラシが2本。ユキと母親のものだ。金原家は母子家庭であった。リビングの壁には写真がいくつか並んでいたが、新しい物ではユキと母親が並ぶ高校の卒業式の写真。母親の希望で人生の節目に写真撮影を必ずしてきたが、両親が揃って写っているのはユキが園児だった時のものだけだった。


ぼんやりと朝食を食べながらニュースを見る。テレビでは3カ月前に起こった殺人事件についての報道がされていた。被害者は女子高校生。無残にも遺体は耳を切り落とされていた。事件以前につきまといがあり、警察に相談していたらしい。それを防げなかったことを非難し、目撃証言を募っていた。可哀想に。若くて可愛い女の子。父親が涙ながらに記者に語っていた。ユキはそれをもぐもぐとパンを頬張りながら眺めていた。


『……子は、明るくて、優しくて…。皆から愛される子でした。人生、本当に、これからでした…。

なぜっ、なぜ…? こんな無残な死に方をしなくてはいけないのかと…。』


「あ! そうだ、ゴミ捨て行かなきゃ!!」


ふとカレンダーが目に入り、はっと立ち上がる。

ユキの母親は看護師として忙しく働いている。母が夜勤の日はユキがゴミ出しをしないといけない。悪夢のおかげでかなり早くに目が覚めたので今のうちに出しておかねばと慌ててゴミをまとめ出す。後回しにするとすぐ忘れてしまう。ユキはなにかと忘れっぽい性分であった。興味がないことは右から左に通り過ぎてしまって、頭に残らないのだ。


4月末。早朝はまだまだうす暗いし、肌寒い。ユキは部屋着の上に適当に上着を羽織ってゴミ捨て場に向かう。その途中で大きな犬を見つけた。毛足が長く目が見えない。白とグレーのツートンカラー…だと思うが汚れで全体的に茶ばんでいて、モップのように毛がからまり汚れていた。

(なんだっけ? この犬……オールドファッション…じゃなくて…)


ユキは犬が好きだ。ユキが人に自慢できる唯一の特技は、犬の犬種に詳しいということ。チワワとゴールデンレトリバーが同じ「犬」とひとくくりにされていることが子供心に不思議に思えた。見知らぬ種類の犬に出会うたびに種族の多彩さに妙に感動する。夏休みの自由研究は犬の犬種にはじまり、犬の身体、犬のしつけ方法であるとか、犬の歴史だとか…だいたい犬についてだった。


ユキは毛の長い犬をじっと見つめた。連れているのは……なんだか小汚い中肉中背の男。まだ薄暗いのに、帽子を目深にかぶっているからか目元ははっきり見えなかったが、ぼさぼさに伸びた髪を襟足で結んでいた。ホームレスだろうか? 男は背中を丸め、道草を食う犬に小声でブツブツと何か犬に話しかけている。タバコ臭いと思ったら、指には火のついた煙草。それを吸うでもなく、微動すらせず灰が落ちるままにしていた。


(うっわ……、なんか、こわいよう…。)


本能的に危機感を覚え、目を合わせないように足早に通り過ぎてゴミを出す。通り過ぎた所で、男はユキの方にゆっくりと振り返った。耳につけていたイヤホンがはずれてラジオの音楽が漏れる。生気の無い男とは対照的にDJが元気に語りかける。


『ミーナの早朝radio。本日も、さわやかな朝の空気をガン無視して独断と偏見でお届けしてます。オープニングの1曲目は、定期的に聞きたくなる名曲。美しいメロディに乗せた偏執的な歌詞のラブソング…。超ストーカーっぽいよねコレ。でもそこが好き。ポリスの Every Breath You Take。邦題は……見つめていたい。』


足早に去っていくユキを、男はじっと見ていた。ユキは自宅のドアを開けた所で、あの毛むくじゃらの犬種を思い出した。


(あ、そうだあの犬! オールドイングリッシュシープドッグ!だ!)


珍しい犬の名前を思い出したことで、不審な男のことはもうすでに忘れていた。彼女が去った後、男がユキの出したゴミ袋を持ち去っていたことなど想像もしなかった。






自宅から自転車で10分ちょっとのコンビニ。ここが金原ユキの職場だ。

ユキには夢らしい夢はなく、特にやりたいこともなかった。金原家には「とりあえず」で大学に行くだけの経済的余裕もなかった。そして国公立大学に行けるだけの頭もなかった。母から学費くらい出す!と看護師を勧められたが、持ち前のぼんやり癖と天性のドジっぷりで患者を死なせて逮捕される想像しかできなかったので、結局のところ惰性で高校時代にアルバイトしてたコンビニでそのまま働いている。


高校時代からアルバイトなので3年。バイトの中でも古株なほう。コンビニのバイトはつなぎでやっている人も多くて入れ替わりが激しい。


「ユキちゃん、おはよぉ~。」

「店長、おはようございます!」


重熊店長の顔はガマカエルに似ている。体格はでっぷりとしていて「重熊」という名にふさわしい。酒好きで肝臓が悪いのか妙に顔色が黒く、てかてかと光っている。店長はこの店のオーナーでもあるから、彼がここのボスである。


「ユキちゃん、昨日品出し場所間違ってたよぉ」

「あっ、すみませんでした!」

「気を付けてね」


背中をポンと叩かれる。店長はときどき、こうやってささやかなボディータッチをしてくる。ユキには正直それが不快だった。胸やお尻を触られたわけではないので騒ぎはしないが。仮に胸やお尻触られても文句を言う度胸はなかった。我慢して愛想笑いするのが精いっぱいだった。


『テロリロリラン♪』


コンビニ店員とは来店メロディ-がなるとパブロブの犬のように必ず「いらっしゃいませ!」と反応するようにできている。ユキは同系列のコンビニに行くとこのメロディに反応して3回に一回は「いらっ!」まで言ってしまい恥をかく。すっかりコンビニ店員に染まっていた。

うっかり者なのでせめて接客は丁寧に。と、ちゃんと顔を見て笑顔で挨拶するように心がけていたが、ユキは来店者を見て思わず声を失った。


(わっ…!すごい、綺麗な子……!)


一瞬女の子と思ったくらいだが、地元の名門高校の白い学ランを着た美少年。はっきりした二重瞼に長い睫毛、右目元の泣きぼくろが憂い気で、表情は険しく、人を寄せ付けないオーラがあった。色素の薄い瞳と男子にしては長めの髪が美しい顔立ちをさらに引き立てていた。王子様の衣装を着せたらさぞ似合うだろう。頭の中で白鳥の湖が流れ出して、白タイツの王子が登場したあたりでユキは現実に帰ってきた。というより、帰された。いつのまにか、美少年がレジ前で精算するのを待っていた。


「…あの。」


「あっ! すみません…」


ぼけっと口を開けて見惚れていた自分に気付いて思わず赤面する。ユキは時々、自分の意思と関係なく妄想が始まってしまい、意識がどこかへと旅立ってしまう。友人からこの癖は『妄想劇場』と呼ばれていた。


美少年がレジに差し出したのは、漫画雑誌。差し出した手には手袋をしていた。潔癖症なのかもしれない。買う物は年相応の少年らしくて、ああ、やっぱり男の子なんだな。と不思議に感じる。


芸能人に興味はないが、写真撮らせてください!と言いたくなる気持ちがわかった。記念に撮っておきたいくらい。立ち居振る舞いも美しくて、スマホで電子決済を済ませ、去っていくだけでドラマのワンシーンのようだった。


「あ、ありがとうございました…!」


後姿に見惚れていると、また来店メロディが鳴った。朝ゴミ捨て場ですれちがったばかりの、あの帽子の男が入ってきた。すれ違いざまにじっと美少年を見ていたようだった。美少年は見られていることに気付くと、不愉快そうに眉をひそめてプイッと顔をそらした。普通はあからさまにこんな対応をされたら傷つくと思うが男はこんな扱いは慣れているのか、そのまま何もなかったようにレジに来て煙草を注文した。


「メビウス、ふたつ。」

「あ、はい、メビウスですね。」


煙草は未だに種類が多くて慣れない。番号で言ってほしいんだけどなぁ…。同じ煙草でも種類がたくさんある。吸わないユキにはくさいし、身体にも悪いし、毎日吸っていたらけっこうな金額にもなるし、何が良いのか喫煙者の気持ちがまったく理解できなかった。


「えっと…こちらでよろしいでしょうか?」」


「ありがとう。」


男はポケットから直にお金を出して寄越した。釣銭を募金箱にいれ、タバコをまたポケットにそのまま入れて出て行った。


「ユキちゃん、ゴミ箱お願いできる?」


「あ、はい!」


店長に呼ばれ、ゴミ箱処理に向かう。コンビニ前のゴミ箱横の喫煙所ではさっきの男が早速タバコを開けていた。ゴミ箱にゴミ袋を入れながら、横目で観察していた。タバコにペンで何か書いている。手元が良く見えない。男はそのタバコにライターで火をつけて目を閉じて深く吸った。煙が細く立ち上る。そのゆっくりした所作は、なぜだか礼拝のような、占い師の儀式のように見えた。


「…お嬢さん。」


「ハイッ!?」


突然声をかけられて思わずユキはビクっとしてしまった。


「仕事は……楽しいかい?」


「へっ? えっ、え~~っと…普通です。」


「そう、それなら良かった。」


沈黙。何が良いのか。ユキは話が続くのかわからず作業の手を止めて待っていたが、ただ男はもう一息、深く吸い、細く煙を吐き出した。朝は直視できなかったが、男はサイズの合っていないブカブカのトレンチコートに中はシャツにスラックスという服装だった。サラリーマンじみた服装だが、仕事着にしてはあまりにも汚らしく、山に置いておいたら土に還るのではないかというくらいくたびれた風貌をしていた。


リストラされてホームレスになったサラリーマン…という身の上ならしっくりくるかもしれない。ユキの頭の中で妄想が広がっていく。会社をリストラされて一家離散。家を追い出され、犬を連れてホームレスになった。仕事を見つけて、家族を迎えに行くのが夢。公園で、巻貝の遊具の中で雨の中わんちゃんとひざを抱えて眠るのかもしれない。


「…あまり夜遅くに出歩かないようにね。この辺も、物騒だからね。……特に、最近は。」


「…はぁ。ありがとうございます…。」


(今朝のことかな? 夜っていうか、早朝だったケド…。)


一服を終えた男の背中を見送ったユキは、灰皿の掃除もした。その中に数本、文字が書いてあるタバコがあった。どれも、年月日と、時間を書いているようだった。そういえば、最近こんな風に文字を書かれた煙草が灰皿に入っていたな。禁煙のためだろうか? 不思議に感じた。その後もいつもと変りなくミスもそこそこに仕事をこなし、日が沈むころ、交代にきたバイト仲間の藤城まどかと一緒になった。


「おはようございやーす。」


「おはようございます。まどかさん。」


夜だけど「おはようございます」この習慣にも慣れた。


藤城まどかはバンド活動をしながらアルバイトをしている。ユキが子供っぽいせいか、少し年上なだけなのに二人で並ぶとずいぶん年の差があるように見えた。ざくざくっと荒く切られた黒髪のショートヘアがよく似合っている。コンビニ店員らしからぬ濃い口紅。店長も注意するのを諦めていた。


その風貌で気だるげに話すので最初は怖かったが、情報通でシニカルで、独特のセンスがあって話していて楽しい。自分らしさというものをはっきりと自覚し、音楽に生きるという人生の展望を持っているまどかに憧れていた。


「今日ね、すっ…ごいキレイな男の子がきたんですけど、まどかさん見たことありますか?」

「あぁ、白皙の美少年ね。」

「…ハクセキ?」

「色が白いことを指すんだけど、特に男で色白で美形なヤツに使う言葉。」

「へぇ~~、まどかさん、さすがですね。初めて知りました、そんな言葉。」

「近所のボンボン学校あるじゃん。あそこの生徒で剣道部。全国大会行くくらい強いらしいよ。試合に見に全国からおっかけが来るんだって。ちなみに彼女はいないらしいぜ。」


彼女がいない、ということをなぜか男言葉で強調する。


「まどかさん、本当になんでそんなに詳しいんですか…」

「情報源は、明かせねーな。」


ヒヒヒ、といたずらっぽく笑う。笑った後に、今度は真面目な顔になり、小声になる。


「それよりさ、知ってる? マネージャー、最近見ないと思ったら。子供連れて出て行ったんだって。」


「え~~~~~、マジですかぁ~~~。」


マネージャーとは店長の奥さんのことである。しばらく顔を見ていなかったがバイトのことを教えてくれたのは彼女だった。優しくて、良い人だったのでさみしく感じた。


「なんで家出しちゃったんですか?」

「………さあね。仕事も一緒で家でも一緒だったら、いつ嫌になってもおかしくないと思うけどね。


夫婦でコンビニ経営とか、そりゃもう地獄の臭いしかしねーわ。」

恋愛経験ゼロの少女には男と女のことなどわかるはずもなかった。母子家庭で育ったユキにとっては、夫婦とはホームドラマで見るようなほんわかしたもの。あるいは、友達の話に出て来て、自分にないものとして妙に羨ましく聞こえるものだった。愛し合って結婚した夫婦がいがみ合うというのが想像出来なかった。


そして昔から素敵だな、と思う人にはやっぱり素敵な想い人がいて、ユキはいつもただの部外者だった。友達と同じ人を好きになった時は、それを一言も出すことなく隠して応援した。友達の代わりに想い人を呼び出してラブレターを渡した。無事に友達と彼は付き合うことになって、笑顔でおめでとうと言って、誰にも知られず、ひっそりと終わった。「恋愛」との付き合いはその程度のものだった。


(そう。ああいう人達とは生きる世界が違うんだよねぇ。)


なぜか、先ほどの王子の顔がぱっと思い浮かんだ。白皙の美少年で剣士。そして、私立の名門高校に通っているということは名家の生まれなのだろう。ドラマみたいというか、少女漫画的というか…。彼女はいないらしいが、ああいう人はどんな子と恋をするんだろう。美しいお姫様と、美形の騎士。それがお似合いだ。また妄想劇場が始まりそうになったが、まどかに「時間だよ」と背中を叩かれまたはっとした。


「お疲れさまでーす。」


控室で着替えながら、鏡に写る自分にがっかりする。きらびやかな妄想とは程遠い。とうてい可愛いとは思えないコンビニの制服姿。「普通が一番よ」とは母親の口癖だ。ユキが幼いころに、トラックの運転手だった父親は事故死したと聞かされた。女手ひとつでユキを育て、人並みを維持する苦労をわかっているからこそだと思うが「普通が一番よ!」と何度も言われてきた。


しかし、ユキには普通すら難しいということを痛感していた。コンビニのバイトすらミスばっかりするのに、正社員で働くとか絶対にムリだ。普通に、恋して、結婚して、子供産んで…とうこともイメージすらできない。人生の展望は暗雲に包まれていた。


はぁ~~~、と、ため息をついた。


その時。何かが背後で光った気がした。振り返ったが、特に誰もいないし、何もない。


(……何だろう? 誰かに見られてる気がしたんだけど…気のせいか。)


ロッカーの上の時計の影。明らかに防犯カメラとは目的が違う、小さなカメラが仕掛けられていた。恐らく、カメラが仕掛けられていると言われて、探しても見つけられないであろう。盗撮を目的として作られたものだった。



「あっ!!」


すっかり日が沈んだ帰り際。自転車のロックをはずして漕ぎ出そうとして、妙な重さとギイ、という異音に気付く。タイヤがパンクしていた。


「え~~、なんでぇ~~~??? あ~もう~…ついてないなぁ。」

「けっこう高いんだよねぇ……パンク修理」



仕方なく自転車を押してとぼとぼ歩く。母にタイヤがパンクしたことを言ったら、怒りながらも修理代を出してくれることが想像できたが、負担をかけたくないので、こっそり朝一番で修理に出しに行こう。


頭の中でそんなことを考えながら歩いていたら……後ろからヒタヒタとかすかな足音を感じた。夜道で後ろを歩かれるのは、なんだか気持ちが悪い。追い越してもらおうと、ゆっくりと歩いたが距離が縮まる気配がない。


高齢者なのだろうか。今度は引き離そうと少し早歩きで歩く。が、それでも、距離が開く気配が無い。ひたひた、ひたひた、と足音が聞こえる。不気味に感じ、ぴたっと止まってみる。すると、後方の気配もぴたりと止まった。これは…もしや自分の後ろをつけているのではないか? 不安な気持ちが渦を巻く。


(チカン? 妖怪? ストーカー、変質者??)


振り返るのも怖くて、またゆっくりと歩き出す。変わらずひたひたと後ろをついてくる不気味な足音。

交差点にさしかかった時ちょうど車が通りかかった。カーブミラーにヘッドライトが帽子にだぼだぼのコートのシルエットが一瞬だけ、映し出された。


(帽子のおじさん…)

早朝、そして昼間にタバコを買いにコンビニに来たあの男だった。何だか、嫌な予感がする。


(もしかして…私のこと…つけてるの?)


朝のニュースがフラッシュバックする。事件の前に、男に付きまとわれていた。と。まさか、気のせいだろう、と思いながらもスマホを出した手は小刻みに震えている。母の番号を探し、コール音が聞こえる……、コール音が止まり電話に出たかと思ったら…。


「あっ、お母さん!! あ、あのね…!!」


画面が真っ暗になり、電源が落ちた。こんな日に限って、充電し忘れていたことに気付いて一気に血の気が引く。


(ちょっと待って、朝ゴミ捨て場にもいたってことは、家も知られているってことじゃないの?)


偶然、こんな3回も同じ人に会うことがあるだろうか。


(もしかして、もっと前からつけられていたのかもしれない。)


ストーカーされてた可能性に気付き背中に冷たい水が流しこまれるような感覚に襲われる。


(……逃げなきゃ!!)


心臓がバクバクと鼓動する。意を決して、角を曲がった瞬間に、自転車を置いて走り出す。ガシャリ、と倒れた音が後ろでした。必死に走る。何度も通った道だが、知らない道に見えた。家に帰るよりも、とりあえず人気のある大通りに出ようとただ必死で走った。息が苦しい。


(どうしよう、どうしよう、どうしよう…。お願い、ついてこないで…!)


振り返ったら、男が手を伸ばしているのではないか。そんな妄想に駆り立てられて、全力疾走で走る。


(誰か……誰か助けて!!)


ユキの願いが叶ったのか、角を曲がった先で歩いてきた人物に勢いよく衝突した。





ユキは盛大に尻もちをつく。


「いったぁ…」


「きみ……大丈夫?」





ひ、人だ! 生き返った気持ちで見上げると、男性が手を差し伸べていた。




ガマガエルのような顔。


「て、店長!!」


「どうしたの?そんなに慌てて」


「だ…っ、誰かにつけられてて…!!!」


「本当に? 誰もいないみたいだけど…。」


まだ怖かったが、周りを見渡す。後ろにはもう、あの影はなかった。


人の気配がすれば、ひとまずは大丈夫だろう。ユキはひとまず胸を撫で下ろした。


「大丈夫?」


「……大丈夫、と、思います。」


息を整えながら経緯を説明する。見知らぬ男が朝、ゴミ捨て場にいたこと、コンビニに来た事。


「う~ん…ストーカーかな。今日はもう遅いし、送って行くよ。」


肩を抱かれて歩き出す。いつもは不快に思うボディータッチだったが、今日ばかりは人のぬくもりにほっとした。


「最近、事件あったじゃないですか。だから、怖くて…。」


「そうだね。そうだね。暗い夜道を一人で帰るのはやっぱりよくないねぇ。」

このあたりは、人気も少ないし、暗いし、危ないよぉ。」



店長が目線を向けた先は、土手下の放置された雑木林。ユキの住んでいる住宅街は高台になっていて、その周りにはぽつぽつと小さな会社のビルや昔ながらの町工場などがまだ残っていた。ここにも古い小さな町工場があったようだが閉めてしまったらしく裏の雑木林が見下ろせる。昼間、土手滑りをして子供達が探検して遊んでいるのをみたことがある。昼間みると、のどかな風景だが夜に見ると化け物が口を開けて潜んでいそうに見えて、なんだか恐ろしかった。



「本当に。これだけニュースになっててもまぁだノコノコと一人で歩いてるんだから、ありがたいことだよねぇ。」


「……はい?」


耳を疑って、聞き返した瞬間。何が起こったのか理解できず、声すら出なかった。



身体に衝撃を感じた頃にはバランスを崩していて、視界が回転した。ガサガサ!パキパキパキ!と枯れ葉と小枝の音が耳元で聞こえる。ユキは雑木林の中に突き落とされたのだった。



「きゃあっ!!」



2、3メートルほど土手を転がって止まった。斜面の上をどうにか立ち上がろうとしたところを、追いかけてきた店長にまた蹴り飛ばされる。今度は下まで転がり落ちてしまった。

逃げる間もなく首根っこを掴まれてものすごい力で引きずられる。驚きと恐怖。何が起こっているのか理解できなかった。


「いっ!痛い…!!な、なにするんですか!?」


「ユキちゃん、実はボクね……肝臓のがんなんだ。もう、そんなに長くない。

もう、店も閉めるしかない。」



「………え…?」


ユキを引きずりながら、店長が身の上を語り出したが、自分の身に起こったこととまったく繋がらずパニックになる。



「ずっと、経営苦しかったんだ。自転車操業も良い所でさぁ。借金も膨らむばかりでさァ…。

がん保険の保険金も全然足りない。家はもう借金取りがくるから、帰れないんだ……。」



町工場の裏口の鍵は開いていて、そのまま中に引きずりこまれる。暗くて中は見えない。

店長はアウトドア用のランプに灯りを灯した。眩しくて一瞬目が見えなくなるが、目が慣れると工場の中が見えた。ゴミが散らかっていた。黒いゴミ袋がいくつもあった。腐臭が鼻をつく。寝袋や生活用品もある。



「ここ、いいでしょ。誰もこないんだ。」


「……。」


「はい、手首、出して」


店長の形相。いつもへらへらと笑っているあの顔ではない。瞳の中に、ランプの光が見える。何か、怨念の炎が灯っているようだった。


「大声出したら、殺すからな。」


有無を言わさぬ迫力に、思わず手を差し出してしまう。


「…ま、出しても、聞こえないと思うけどね。」


凄んだあとに、いつものようにへらへらと笑う落差に呆然とする。手慣れた様子が初めてではないとうことを想像させた。身体ががたがたと震えだす。


「……。」


「君は僕と似てるから、わかってくれるでしょ?」


「にて…る…?」


「いつも、人に気を使ってるよね。どいつもこいつも、バカばっかで嫌になっちゃうよね。」」


「……。」


「ユキちゃん見てると、癒されたよ。もっと違う形で出会いたかったよ。顔も胸もふつうだけど、良いお尻してるよね。パンティーはもっと…色っぽい方が僕は好みだけど。藤城君は、ツンツンしてるけど、意外と可愛いのつけてるんだよねぇ。」


何を思い出したのか、鼻を膨らませ下卑た笑みを浮かべる。


「なんでそんなこと……。」


「……防犯カメラだよ。防犯カメラ。」


防犯カメラ? 着替えを覗かれていたとしたら、それは……盗撮と言うのだ。ユキはショックを隠せなかった。言葉が出ない。人を罵ったことなどないユキには、相手を罵倒する言葉など持ち合わせてはいなかった。気の強い藤城まどかなら「この、クソ野郎」なんて吐き捨てたのかもしれない。



「まぁ、最後の夜なんだから、楽しもうよ。優しくしてあげるから…ねっ?」


「短い人生、楽しまなくちゃ。」


店長は、ユキの服のボタンに手をかけた。嫌悪感に、反射的に叫ぶ。


「……さ、触らないで!!」


重熊店長はさも心外、というように驚いた顔をした。



「…なんで、君はボクのこと好きなんでしょ?」

「はぁ?! すっ……好きなわけないじゃないですか!?」



私が、この男を好きだと? ユキにも妄想癖があったが、妄想と現実の区別くらいはついていた。店長が何を言っているのか、さっぱりわからず、目の前がクラクラする。さっきから、何を言っているのか意味不明過ぎて吐き気がするくらいだった。確かに、値踏みするようなねっとりした視線を感じることはあった。触られて、やめてくださいと言えず、愛想笑いをしていた。それが、喜んでいたと?



「いつも見つめ合っていたし、触られて、悦んでいたじゃない。ボクが既婚者だから遠慮してたんでしょ?」


「そ、そんなことしてません!」


想像の斜め上を遥かに超えた妄想に、思わず怒るように叫んでしまう。

それが、相手を刺激するだけになることも気付かずに。



「……お前もか。俺をたぶらかして、利用するだけ利用して…。」


好意が無い、とういことがわかると目に明らかに怒りの形相を浮かべた。重熊店長の豹変ぶりに恐怖を感じ、涙が浮かんでくる。話が通用する相手ではない。



「わ、わたし、たっ、たぶらかしてなんか、いません…! 

しかも、利用なんて…なにがなんだか…!」



「最初は笑顔で近寄ってきたと思ったら…なんだよ!」

「本当に勝手だな、どいつもこいつも!」


どいつもこいつも、とはどういうことなのか。誰のことを言っているのか。勝手に怒りがエスカレートしていくことにユキの恐怖感も倍増していく。



「誰のために、こんなに頑張ってきたと思ってんだよ。誰のおかげで、仕事があると思ってんだ!」

「逃げて、それで済むと思うなよ!」

「絶対に、捕まえて、道連れにしてやるからな…!」



重熊の目には、逃げた妻が見えているのだろうか。


「お願いします、私には、関係ありません…。もう、帰らせてください……。」

「私が、とか言うの辞めてくれるかな?」


ぴしゃりと遮られる。


「私は悲しい、とか。私、怖いの、とかイライラすんだよ。」

「自己主張ばっかり一人前で、本当に女って馬鹿だよな。うるさいんだよ!」

「くっちゃべるばかりで、何のために耳2ついてると思ってるんだ。」

「2倍聞くためだろうが。この耳は飾りか!!」

「お前も、耳なし女なのかァァ~~~~~~!!



鬼のような形相で耳がちぎられるのではないかと思うくらい、引っ張られる。


「痛い!痛い!!やめてぇ…!」


ユキが耳を引っ張る重熊の手を掴むと、重熊は正気を取り戻したかのようにいつもの顔に戻った。


「ああ、ごめんね。こないだはつい、カっとなっちゃってさ。耳、つい切り落としちゃったんだ。」


「だってさ、既婚者だから…って遠慮してたじゃない?」


「せっかく、嫁が出て行ったんだから。もうフリーだし。堂々と付き合おうよって言ってあげたのに、『そんなつもりじゃなかった』って、ひどいじゃない? 釣銭渡すのに、わざわざ思わせぶりに手握ってきて、誘惑してきたのはそっちじゃない。女子高校生に手を握られたら、手を出さないほうがおかしいよね? だよね!」


「ねぇ、そう思わない?」


激昂したと思ったら次の瞬間にはヘラヘラと笑う。視点がぎょろぎょろと定まらない。


同意を求められるが、彼の言っていることは……つまりは殺人の自供だった。誰に、語りかけているのか。誰に笑いかけているのか。こちらを向いているのに、目線はなにか、宙を捉えていた。重熊はもはや完全なる狂気の淵に落ちていた。


借金、がん宣告、そして妻の家出。いつ、彼の精神は崩壊したのか。正気な顔をして働き続けていたあれは、演技だったのか。本当はわかっているのではないか。


『そういえば、あの殺された女の子、うちの店に何回か来た事ある気がする。』


耳なし女子高生殺人事件がニュースになった時、藤城まどかは言っていた。ユキはよくそんなに人の顔を覚えていられるなと尊敬の念を抱いたものだが。まどかの記憶はやはり正しかったのだ。店長の言葉通りなら、来店した女性高校生にこの思い込みの強さで勝手に好意を寄せた店長が、付きまといの末にフラれて逆上して、殺害したのだ。



もしかしたら、自分もあの子に会っていたのかもしれない。自分が同じような立場に追い込まれてやっと、ニュースで語られていた無念さが血肉を帯びて見えてきた。自分も、あの子と同じように……と想像してユキの身体はぶるぶると震えた。


「あはは、残念だったね、どうせ王子様とか夢見てたんでしょ?」


「オンナは楽でいいよな。俺も女に生まれたらよかったよ。バイトで適当に小遣い稼いでさ。股開いて男に養ってもらってさ。専業主婦とか夢見てんでしょ? くだらない夢。」


重熊は転がっているウイスキーの瓶を拾い口に含んだ。ウイスキーの香りと廃墟らしい埃臭さ、そし

て腐臭が混じり鼻をつく。


「こっちは経営者で、不況にもプレッシャーに負けず、世の為人の為毎日必死で働いてんのに。お前ら女ときたら媚売ってたかることしか考えてねぇのか。なんで俺がガンにならなきゃいけねえんだよ。死ぬべきなのは、役立たずのお前らだろうが。」



ユキの目の前にブランデーの瓶を床に叩きつけられた。


恐怖に身が固くなったが、同時に目の前がかっと熱くなる。女性への…いや、ユキにとっては女手ひとつで必死に働いて育ててくれた母への侮辱と同義だった。この、他人の感情を一切無視して、自分ばかりが不幸で苦労しているかのような思い込み。怒りと、呆れと、蔑み。こんな男に、私は殺されてしまうのか。


『 犬 死 に 』



頭の中に、3文字が思い浮かぶ。子供の頃の記憶がまたフラッシュバックする。小学生の頃、上級生が犬をいじめていた。雑種らしい茶色で首輪をつけていたが、捨て犬なのか、痩せこけていた。気の毒な犬。石をぶつけられ、血を流し。次は木製のバットで殴ろうとしていた。その時の上級生の顔は…優越感に歪んでいた。そういえば、体格がよくて、店長に似ていた気がする。



犬は怯えていたが、上級生がバットを振り上げた瞬間、ぐるるるる!! と、噛みついた。人に従属して生きているように見える犬でも牙を剥く時があるのだ。犬は結局、子供を噛んだ「悪い犬」として保健所で処分されてしまった。


そうだ、あの時、私は見ているしか出来なかった。

ただ、祈る事しかできなかった。犬を見殺しにしようとしていた自分が、助けを求めるなんて、ムシが良すぎるはずだ。そうだ、王子様なんて、いないんだよ。ヒーローなんていない。

少女の淡い願望を幻滅させるには、もう十分すぎる経験だった。



人間ではなく、虫を見下ろすかのような男の目を、ユキは見上げた。後ろ手に腕を縛られ、足元にひれふすように頭を下げる姿は、完全に降伏したかのように見えた。



「なに、気が変わった?」



「―――――――ツ!」




「ああッ?! いたたたたたたた!!」



(犬死にするくらいなら……、私も…戦って、死んだ方がマシだ!)



ユキは、思い切り重熊店長の足首に歯を立てた。草食動物は草をすりつぶすために平らな歯をしている。肉食動物は肉を噛み切るために、歯が尖っている。ヒトは基本的に草食動物のように平べったい歯をしているが、上下に2本づつ、尖った犬歯がある。肉を切り裂く、犬歯があるのだ。弱い自分だけれど、鏡で尖った犬歯をみると、自分にも肉食動物的な部分があるのだと少し強くなれる気がしたものだった。



「んぐぅぅぅぅぅ……!!」


「なにすんだこの!!」



しかし、ユキの必死の抵抗もむなしく、蹴り飛ばされてあっさりと床に転がった。


「うっ……。」


「痛い目みないと、立場がわからないみたいだな。」


店長が懐からナイフを取り出した。ああ、これでもうおしまいか…! あの時、犬を見殺しにしたから、罰が当たったのだ。ユキは想像もつかない痛みに目をギュっと瞑った。



(お母さん、ごめんなさい……!)






ギイ~~~~…。

錆びた、重いドアを開けた音が工場内に響き渡る。

ひた、ひた、と妙に静かなあの足音がする。人だ。どこから入ってきたのか、わからなかった。ユキと店長は時が止まったように固まった。


「こんばんは。良い夜だねぇ。」



男は、やはり夜にも関わらず、帽子を目深くかぶっている。


(……帽子のおじさん!!)


「犬死にって……なんで、犬死にっていうか知ってる?」


「いぬ、とは昔からつまらぬもの、いらぬものという使われ方をしていたから、つまらない死を意味する。」


「または、江戸時代。犬公方、徳川綱吉による生類憐みの令により、犬をいじめたばかりに死罪になった者がいたことから、犬のために殺されるという、くだらない死に方のこと言った。


「また、似て非なるもの、から来ているという説もある……。」


「諸説あるけど。語源ははっきりしてないんだな。犬の慣用句は、悪い意味のものが多いけど、飼い主に従属してる姿に人は無意識により強い物に従わないといけないという、嫌悪感を重ねたのかもしれないね。」



「「……。」」


ユキも、重熊も突然始まった朗々と語られる講義に一瞬聞き入ってしまった。


距離をあと3メートルかと言う所まで近づいた所で、はっと我に返り、重熊はユキを人質に取る。


「…動くな! な、なんだ、おまえ、警察か???」

男は、質問には答えずあいまいに首をかしげて微笑んだ。


「動いたら、こいつを殺す!」


数秒、にらみ合う。息が止まるようだった。店長が震えているのか、自分が震えているのか、ユキにはもうわからなかった。心臓がバクバクと早鐘を打つ。助かるのか、逃げられるのか…、それとも…!


「……わかった、動かないよ。」

男は、敵意はないと意思表示するように両手を上げて、宣言通り……本当に動かなかった。



「「「……。」」」



店長は冷静さを取り戻そうとブツブツと独り言をいった。


「大丈夫、大丈夫だ。こいつを殺して、あいつを殺して、いや…」


長い時間が過ぎたように思えた。実際は1分もたっていないのではないかと思う。

沈黙を破るのは、やはりこの場違いなほどにのんびりした声だった。



「あ~…、悪いんだけどさ……動かないから煙草、吸ってもいいかなぁ?」


いい? と煙草を吸うジェスチャーをして首をかしげる。


不気味なほどにマイペースな帽子の男に、重熊は叫んだ。



「うるさいッ!!! か、勝手にしろ!」


(な、なにしにきたのこの人?)


ユキは目まいがしてきた。殺人事件の犯人が店長だとしたら、この男は一体何なのだろうか。本当にたまたま、朝ゴミ捨て場付近を散歩していて、タバコを買いに来て、たまたま帰りも一緒になって、今ここにたまたま居合わせただけの犬好きのおじさんなのだろうか。いや、そんな偶然はありえない。



偶然にしても偶然が重なり過ぎている。たまたまではないのなら、やはり何かしら意図があってユキをつけていたストーカーなのか? こんな男に見覚えはないはずだ。ユキは男の正体を探ろうと、目をこらした。


どう見ても修羅場でしかないこの状況でのんきに一服しようとする男。昼間と同様にポケットからメビウスの箱から1本取り出し口にくわえる。だが、煙草のケースから出てきたものは煙草とは別の物のようだった。タバコに似たような細長い筒状ではあるが、それは煙草と違い、金属で出来ていた。火をつけるふりをして、それはランプの揺らぐ灯りを反射してきらりと光った。


『似て非なるもの。』


ユキにはそれに見覚えがあった。吸うのと吐くのが煙草と笛では逆だが、完全なる逃亡計画を必死に考えている店長は全く気づかなかった。人間には知覚できないほどに高い、細い音。


(あれは……犬笛?)


それは反撃の狼煙であった。それが聞こえたのは、大きな体をダンボールの山の影に潜めていた彼だけだった。熊のような大きな毛むくじゃらの生き物が牙をむいて飛び出す。


「グゥゥゥゥーーーー!!」



大きな毛むくじゃらの犬。朝、ゴミ捨て場にいた犬だ。ナイフを持つ重熊の手に噛みつき、効果的に傷をえぐるように左右に頭を振っていた。肉が裂ける痛みに重熊は絶叫した。



「いぎゃあああああああーーーーー!」


「金原さん、逃げろ!」



驚きで固まっていたが、帽子の男の声に反応してユキははじかれるように飛び出した。


「OK、ルド、離れろ。」


「な、…なんなんだ、お前はァ!!」


「私ですか。」



人質を失ったナイフが帽子の男に向けられる。


切っ先は重熊の呼吸に合わせてゆらゆらと揺れていた。

ユキはのどがカラカラだった。ごくりと、生唾を飲み込んだ。

間。本当に何者なのか、その謎の答えをユキも知りたかった。



「……そうです、私が変なおじさんです。」

「…なんてね。あはは。」


ユキは思わずずっこけそうになった。店長の頭の中ではブチっと音がしたようだった。ナイフを持つ手がわなわなと震え、犬に噛まれた傷から血がぼとぼとと流れ落ちた。


「ふざけんな!ぶっ殺してやる!!」


怒りに火が付いた店長は目を血走らせてナイフを振りかざして、男へ向かっていく。そこにはユキに向けた脅しの刃ではなく明らかな殺意がこもっていた。


上から下、下から上、斜め、右左。乱暴に振り回されたナイフが帽子をかすめて、はらりと落ちた。が、帽子やダボダボのコートをかすめはすれど身体を捉えることはない。


「くそっ!!くそぉぉっ! なんだよ、お前はァ!!」


めちゃくちゃに振りかざしても仕留めることができないと気付いた重熊は腹に狙いを定めて突きを繰り出した。


「危ないっ!」


一瞬、その光景はスローモーションに見えた。腹部にナイフが突き刺さる。重熊店長は手ごたえを感じ「やった!」と勝利の笑みを浮かべたが、ナイフはしっかりと手で受け止められていた。昼間にはしてなかった手袋。それは刃物を通さない特殊な手袋だった。まるで、その時を待っていたかのように男は一歩を踏みしめ、体をねじり、一本背負いで投げた。店長の巨体が宙を舞う。



「ぐぇッ!!」



コンクリートの床にたたきつけられた重熊店長はカエルが潰れたようなうめき声をあげる。男はポケットからスタンガンを出しとどめをさすように気絶させた。


そのまま手慣れた様子で結束バンドで後ろ手に親指をまとめて、足を店長が使っていた縄で縛ってしまった。さらに、それを繋ぎ、逆エビ状態で固定する。


落ちた帽子を拾い、ぱたぱたと埃を払うと、何事もなかったかのようにかぶり直した。

一瞬の出来事だった。静けさが訪れる。


(た…助かったの……?)


ユキは息をすることすら、忘れていた。ぶはぁ~、息を吐くと同時に、体中の力がへなへなと抜けていく。その横で男はポケットからガラケーを取り出して電話をした。

「松浦、神鳴町3丁目31番地の工場跡地だ。捕縛してあるから確保してくれ。」




「ルドルフ、よしよし。よくやったね。」


犬が尻尾をふって応える。先ほどの猛獣のような姿が嘘のようだ。男はポケットからジャーキーを一本出して犬に与えた。この男は何でもポケットに直で出し入れしているが、ポケットの中身はどうなっているのか。ユキは怖い物見たさで覗きたくなった。この男を信用して良いのか、迷ったが、犬好きに悪い人間はいない、と警戒を解いた。というよりは警戒するエネルギーがもう残っていなかった。


「大丈夫かい? 怪我はない?」


男がポケットからナイフを出し、手の縄を切る。

手を差し出されるが男性不信の膨らんだユキは自力で立とうとする。


「だい…じょう…ぶ、です。

あ、あれ? おかしい…な……。」


立ち上がろうとしたが足腰にまったく力が入らず、上手く立てない。やがて感情より先に涙が溢れてくる。怖かった。生きてる。人を見る目が無い自分の愚かさや、恐怖、助かったという安心。熱い涙が頬を伝う。嗚咽が止められない。なんとも表現しがたい気持ちだったが、安堵の気持ちが一番大きかった。


(わたし、生きてる…。)


「うっ…、ひっ………。」


泣きだした少女に、男は少し困ったように頭を掻いて目を泳がせた。そして、少しためらった後、ユキのそばに跪いた。ユキは手を引かれて、立たせてくれようとしているのかと思ったら、次の瞬間。


「……失敬。」


「ひゃあ!!」


ユキの身体は抱きかかえられ、ふわりと浮いていた。俗にいうお姫様抱っこである。涙を間近で見ら

れるのが恥ずかしくて、あせって顔を手でぬぐう。代わりに一気に顔が熱くなっていく。


(な、なにこれ!)


「送っていきます。」


「わ、わわわわわ…!!!」


廃墟を出ると、雲は晴れ満月が明るく輝いていた。帽子が落ちた時に見えた感じだと、男は中年というほど老いてはいなかった。年のころは30代半ば。話していてほっとするような、人好きのする顔立ちをしていた。何より、声の響きが穏やかで、柔らかく…幼いころに父を亡くし父性に飢えている金原ユキには心地が良かった。ひたひたという足音と、犬特有の肉球の軽快な足音が静かに響く。


(お父さんてこんな感じかな。いや、お父さんていうか、この人…おにいさん……だよね。)


命の危機を救ってくれた、男性に、お姫様抱っこをされている。まさしく少女漫画の王道ではないか。


ヒーローが、本当に現れた。夢から覚めるのではないか。恥ずかしさをごまかすように、ユキは男に質問をした。


「えと…おじさん…じゃなくて、お兄さんは? 警察の人なんですか?」


「おじさんで良いよ。私は警察ではありません。」


「ええと、ということは、お仕事は…?」


「サンタクロースです。」


「へえっ???」


素っ頓狂な声をあげてしまう。ルドルフ、といえばサンタクロースのソリを引くトナカイのリーダーの名前がルドルフだった気がするが…冗談…だよね。驚きから困惑、疑いのまなざしへと変わる表情を面白いなぁと思いながら男は眺めていた。


「というのは副業で、探偵業をしています。」


「へ、へぇ~~~! た、探偵…!」


ユキの目が好奇心できらきらと輝いた。凡人そのものに生きてきた少女には、非凡でドラマチックな響きがたまらなかった。探偵。ドラマのようだ。サンタが副業というボケはスルーした。


「事件の捜査をしていたんですか?」


「……うん。まあね。」


「どうして、私の名前を?」


「なぜ、店長じゃなくて私のことをつけてたんですか?」


「タイヤのパンクは…偶然だったんですか?」


「あ、あとタバコに数字を書くのは何か意味があるんですか?」


「どうして、私の家の近所にいたんですか?」


命の危機から間一髪助かったそして、お姫様抱っこされているというパニックで興奮していたユキはまるで子供のように矢継ぎ早に質問した。


(ぼんやりしているようで、意外とこの子はよく見ているなぁ。)


男はにっこりと笑いながら、考えていた。口を開いた。この男が妙にのんびりと、ゆっくりしたペースで話すのは慎重に言葉を選んでいるからだった。ユキにはそれが本音なのか、冗談なのか、ウソなのか、さっぱり見分けがつかなかった。


「運命って信じるかい?」


「…運命…?」


「金原ユキさん。」

「僕は、あなたを守るために、生まれてきました。」

「……僕のお嫁さんになってくださいますか?」

「……はい…。」


はっ!!! と、私はベッドで目を覚ました。


「夢……か…。そうだよね…現実なわけないよね~…もっぺん寝よ。」



(っていう展開でも全然驚かないわ。)


そんな夢オチを妄想をしたが、ちっとも夢から覚める気配はない。


「今日、重熊はあなたを狙ってた。もし、あなたが重熊に捕まらなかったら、別の女性が被害にあっていた。そしてその後、重熊は今夜の犯行を最後にこの地域から逃げる予定だった。」


「…?? ええと…それは…。なにか、裏情報的なアレですか?」


あまりにも詳しい情報に、ここまで知っているならなぜ逮捕しないのかと不思議になったが

その不思議以上の謎発言にユキはさらに頭を抱えた。


「……予知能力と…言ってわかるかな。」


「私には自分が経験することがビジョンとして見える。特に、強い感情の動きを伴う行動。当事者として関わるくらいじゃないと、予知はできないけど。」


「???」


「リラックスしてる時…特に、煙草を吸っているときによく見える。」


「実は君が重熊に遭遇した後、一服してたんだよね。ことを起こす前に、必ず吸うんだ。何時何分に、何が起こるのか。習慣にしている。だから、煙草を行動の前後に時間の記録として吸うようにしている。


映画撮影の、カチンコみたいなもんかな。」


「………。」


ユキは男が『なんてね♪』と笑うのを待っていた。だが、想像より、ずっと真面目な顔をして語るので、変な半笑いのまま固まってしまっていた。 話が続けば続くほど、頭の上に?マークが増えていく。


「この能力は万能じゃない。」


「運命を大きく変えると予測がつかなくなってしまう。

大きく筋書きを変えると、反動も大きくなる。そう何度も視えるわけでもない。」

「だから、運命の流れというのは、スレスレでかすめ取ることが、一番確実なんだ。」

「重熊は、強い意思で今夜あなたを捕らえようとしていた。そして、殺されるはずだった。」

殺される。冗談じゃない言葉に顔がひきつる。本当に、殺されていてもおかしくなかった。

「君は…意外だったけど、立ち向かったね。君は勇気がある。運命を変えられるのは、運命を切り開く覚悟と勇気があるものだけだ。逆に言うと、運命の糸をかすめとるには、覚悟と勇気さえあればいい。」


にこっと笑った。


「まぁ、信じるか、信じないかは、君の自由だけれど。」


男の話はあまりにも現実離れしていて理解できないし附に落ちない。冗談かもしれない。それなのに、なぜかゾクゾクと鳥肌が止まらなかった。


「私…あの、難しいことはさっぱりわかりませんが…。」

「そういうことがあるのか、わからないけど……。」

「でも、わたし、あなたのこと、信じます。」


「……ありがとう。」


目を細めて笑った。ユキはその時、いつも笑っているこの男の本当の笑顔を、やっと見た気がした。

遠くからサイレンの音が聞こえてきた。重熊が逮捕される。アルバイトで数年関わった過去が思い返されたが、もはやただの忘れ去りたい、嫌な過去だった。話しているうちに気が付けば、もう金原家の近所にまで来ていた。


「あっ、もう大丈夫です、歩けると思います…」


(こんな姿、目撃されたら何て噂されるか…。)


「あのっ…本当に…ありがとうございました。」


少し名残惜しい気もしたが落ち着いたら、足にも力が入るようになった。


深々と頭をさげる。命を救われたお礼なんて、なにをして返せばよいのか想像もつかなかった。


「わっ、私…、金原ユキって言います!」


「……私は仙堂。」

「仙堂大介と言います。」


「……せんどう、さん…。」


なんだか、ユキは妙にドキリとした。二人の間を、風が通り抜けた。


散りかけの八重桜の花びらがはらりはらりと舞った。


「それでは、僕はこれで。警察から連絡が行くと思いますが、僕のことは内密に。公な依頼を受けて動いているわけではないので。未来が見えるとか言ったら、頭おかしいと思われちゃうからね。」


「……はい、誰にも言いません。」


「では、おやすみなさい。」


帽子の男、こと仙堂大介は犬を連れて去っていく。背中が遠ざかっているのを見ていて、ユキは胸が締め付けられるような気持になった。なんて呼び止めたらいいのだろう。お礼しないといけないよね、お礼をさせてください? 連絡先を聞いたら、迷惑だろうか、なんて言ったらいいのか…など、迷ううちに背中はどんどん遠ざかる。


(待って…!)


と、その心の声に呼応するように仙堂大介は急に立ち止まった。


「あ……。」


「そうだ……。最近助手が辞めて人を探していたんだけど。」


「もし、君が求職中ならしばらくアルバイトに来てくれないかな?」


もしも…も何も、店長兼オーナーが逮捕されたのだから、当然あのコンビニは続けてはいけない。言われて初めてユキは自分が失業していることに気付いたのだった。ポケットから名刺を一枚差し出した。名刺は角が折れていて、街灯の灯りのせいか妙に黄ばんで見えた。



「助手…。」


「と。いっても、まぁ、基本は掃除や書類整理とか事務仕事とか…犬の世話とか。あと猫探しとか探偵業のアシストとか簡単な雑務だよ。」


思いがけないオファー。犬の世話、というくだりで一気に目がらんらんと輝きだす。


(わんちゃんの世話してお給料貰えるなんて……最高過ぎる!)


「や……っ、やります! やらせてください!」


ユキは、離れた距離を急いで詰めるように、小走りで名刺を受け取った。

それは、ユキにとって未知の世界への切符だった。




『金原ユキの調査報告』

ファイルにはそう書いてあった。


「マダム。無事、金原ユキさんを無事保護しました。そして、予定通りうちの事務所で働いてくれるそうです。」


「そう…。良かった。そのまま、あなたの所で預かっていてちょうだい。」


古い事務所。壁は煙草のヤニ汚れで茶色く変色していた。黒い革張りのソファに、今どき珍しい黒電話。昭和のまま時間が止まっているようだ。古いラジオから、細く音楽が流れてくる。チャンネルは朝からずっと同じだった。これも、時系列を把握するための仙堂なりの儀式であった。


ソファに腰かけた女は、机の上の調査ファイルを眺めた。金原ユキの写真が並ぶ。どこで手に入れたのか。履歴書のコピー。それ以外のいたってプライベートなこと。性格はのんびりしていて、妄想癖アリ。考え事をしているとぽかんと口が開いてくる。悩みは癖っ毛と、お尻が大きいこと。犬が好きで、犬のぬいぐるみを集めている。そして、恋人はいない、などなど。


「素直な良い子ですよ。そして、意外と勘がいい。」


「……そう。」


仙堂はユキに対してウソをついていた。調査していたのは、耳なし女子高生殺人事件ではなく、金原ユキ本人であり、その調査過程でたまたま重熊の犯行に当たったのであった。

依頼主の女はサングラスをかけていて表情は伺いしれないが、妖艶な口元がふっ…と笑ったように見えた。そして、聞いている者の背筋が伸びるような冷たさと厳しさを孕んだ声で牽制した。


「手ぇ出したら、殺すわよ。」


「……わきまえてますんで。ご心配なく。」


殺す、と本気を感じる語気に対して、仙堂は肩をすくめた。


9 ~エピローグ~

いつもと変わらぬ、金原ユキの部屋。犬のぬいぐるみが並ぶ。布団に入って、目を瞑ったがちっとも眠れなかった。目覚めたときは普通の朝だったのに。たったの一日で人生がひっくり返った。生と死。希望と絶望。強烈なコントラストを放って今日の出来事が走馬灯のようにめぐる。見慣れた部屋のはずなのに、妙に鮮やかで、生々しくて…。人生を生きている、という意識がはじめて持てた。


明日からは探偵事務所で働くのだ。なんて、ドラマチックなのだろう。期待に胸が膨らんだ。


「仙堂大介さん…。」


明日から新たなボスとなる男の名前を ぽそっと、つぶやいた。お姫様抱っこされた感触が、まだ残っている。店長…殺人犯にベタベタ触られていたことも帳消しになった気分だった。


「……まだ、ドキドキしてる。」


彼女には、それが命の危機に直面した事件への興奮なのか、お姫様抱っこを経験したときめきなのか、はたまた転職への希望の胸の高鳴りなのか。今はまだ、判断がつかなかった。


END




読んで頂き、ありがとうございました!

小説を公開するのは初めてで、

色々模索の上実験中です。


次回「コスプレ潜入調査 美貌の少年剣士 鬼柳アキラの調査ファイル」に続く。

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