57日目:サマー尾途(前編)
先輩のおばあちゃんに会いに行く。
月曜日、晴天。
早速バイトを休むことになってしまった。マスターは「お泊まり、楽しみですね」と電話口で言ってくださったので、取り敢えず何かお土産を買おうと思う。
もうすぐ8時になる。準備は万端で、備えは万全だ。
お土産といえば、先輩のおばあちゃんにも何か買って行った方が良いだろうか。駅で何か買おうかな。
そんなことを思案していると、インターホンの音が私を呼んだ。ただの電子音が、先輩の指先と穏やかな表情を想像させる。
モニターを確認すると、やはり先輩だった。
「はい」
『迎えに来たよぉ』
「すぐ行きます」
モニターを消して、荷物を持って、玄関の戸を開ける。
まだ強くない朝日に照らされている先輩は、想像通り笑顔だった。
丈の長い黒のワンピースに、薄手のカーキのジャケットを羽織っている。そして、たすき掛けしたバッグが胸を強調する。いやいや、そんなところを凝視したらダメだ。
「その服、着てくれたのぉ?」
「はい、どうですかね……?」
「やっぱり、すっごく似合ってるよぉ。可愛い!」
「ありがとうございます」
参反でデートをした時に先輩が選んだ、白いオフショルダーのフリルワンピースを遂に着る日がやってきた。
「本当に可愛いなぁ……君のオフショルダーなんて貴重すぎて……」
「何度も裸を見ているのに、肩の露出がそんなに珍しいですか」
「その言い方は語弊があるよぉ?」
何度も一緒にお風呂に入ってますもんね、が正解だったか。無駄に含みのある表現をしてしまった。
実際、私がスカートと半袖以外の服で肌を露出することはほとんどないので、貴重という表現に間違いはない。
折角の夏だし。夏休みだし。お出かけお泊まりイベントだし。ワンピース被りをしてしまったけれど、逆にペアルック的な感じで良いかもしれない。
姉妹コーデとか流行っていた時期があったけど、今はどうなんだろう。流行に疎い私にはわからない。
「それでは、行きましょうか」
「うんっ」
午前8時。暑くなる予感を孕んだ朝日の中、駅へと歩を進める。言うまでもなく、手を繋いで。
―――――――――――――――――――――
電車に乗り込み、座ってから5分ほどで先輩は寝てしまった。尾途は遠いし、先輩にしてはかなりの早起きだっただろうし、寝かせておいてあげよう。
正面で静かに寝ている先輩の顔を見て、なんとなく幸せな気持ちになった。なんだろう、なんか安心する。
話し相手がログアウトしてしまったので、鞄から小説を取り出して読むことにした。
行方行方の最新作、『そいつとあの子』。裏表紙に書いているあらすじによると、主人公が昔好きだった女の子と、その子と付き合っている彼氏の行く末を見守る話、らしい。
あんなに恋愛系は書いていなかったのに、どうしたんだろう。まるで、作者自身が恋愛をしたり見たりすることが増えたみたいだ。
見慣れた景色が、窓の向こうで過去になっていく。それをたまに見ながら、本に視線を落とす。
読み進めながら、たまに先輩のことも見る。随分と幸せそうな寝顔だ。本当に可愛い。そして美しい。ここだけ切り取って美術館に寄贈したい。嘘、独り占めしたい。
「……今、どこら辺?」
眠り姫が、半分ほど目を開いて訊ねる。そんなに時間は経過していないので、もう少し寝ていても良いのに。
その美しい目の下に、クマでもできたら大変だ。
「もうすぐ不行も終わりってところですね」
「そっかぁ。ごめんねぇ、すぐ寝ちゃって」
「いえ。寝顔ごちそうさまです」
「あはぁ。いつも見てるでしょ」
「食べたことのある美味しいものって、その後も何度も食べるじゃないですか。そういうことですよ」
「なぁにそれ」
柔和に微笑む先輩。本当に、感情がそのまま顔に出ているって感じの笑顔だ。これも、何度見てもおかわりしたくなる。
「また寝ます?」
「ううん、君とおしゃべりしたいから寝ない」
「……では、話題をどうぞ」
「君のこと、おばあちゃんにボクの彼女って紹介してもいい?」
「だめです。というか、おばあちゃんは知ってるんですか」
「うん、知ってるよぉ。ボクの初恋とかっ……も……」
「私も聞きたいな」
「えっ、いや。そんな面白い話じゃないよぉ?」
思わず口が滑ったのだろうか、ハッとして慌てる先輩。そういうミスをするところが、完璧超人っぽさを崩して面白い。
「教えてくださいよ」
「ちょっと前までの君なら、教えてくださいなんて言わなかっただろうねぇ……」
「そうですね。踏み込みワードですもんね」
「なぁにそれ。……えっと、小学3年生の時かなぁ。雪ちゃんって子なんだけど」
雪と書いてススギ、と説明して、先輩は話を続ける。
「当時のボクはまだ女の子が好きーとかわかってなくて、でも雪ちゃんはわかっている子だったんだ」
「凄いですね、小3で自分のセクシュアリティが理解できているなんて」
私は、高校2年生になっても恋愛をきちんと理解できていないのに。勿論、自分が先輩と同じなのかどうかも。
「で、雪ちゃんに好きって言われて。ボクも普通に好きだったから一緒に遊んだりして……。でも、ボクも君と同じだよって言わなかった。言えなかった」
今の私と同じだ。名前しか知らない人に、思わず感情移入してしまう。
「次の年に、雪ちゃんは親の転勤で転校することになってねぇ。会えなくなって初めて、それが恋だったって知ったんだぁ。……はい、終わり。面白くなかったでしょ?」
「……私は、そうならないように頑張ります」
「そうなるってぇ?」
「先輩に会えなくなってから気持ちに気付くとか、しないようにするってことですよ」
「あはぁ。それってもう愛の告白じゃない?」
「違います」
違わないよ、って自分の声が何処からか聴こえた。
ただの幻聴だと振り払い、聴こえないフリをする。
私の気持ちも、今乗っている電車と同じように、決まった方向に決まった時間通りに進んでいけば良いのに。そうすればいつか、終着駅に辿り着けるのに。
解答を終えたのに、名前だけ記入できていない答案用紙が目の前にある感覚。
「どうしたのぉ?」
「え、何がですか」
「なんかさぁ、怖い顔してたから」
「どうもしませんよ」
きっと、テスト終了のチャイムが鳴る日は近い。
次回、おばあちゃんに会います。