42日目:夏の幕が上がる
7月はイベントが盛り沢山。
今日から7月。なんとなく夏の始まりを感じさせる月ではあるけど、そのスタートは生憎の雨から始まった。
「おはようございます、先輩」
「おはよぉ。元気ないねぇ」
「雨ですから」
いつも通り、第二理科準備室で先輩に朝の挨拶をする。
昨日買った目覚まし時計で起きられたようで、何より。
「元気ないところ悪いけどぉ、今日のログボちょーだい」
「はい、では」
先輩に近付き、いつものようにキスをしようとした。そう、ログインボーナスという名の通り、いつもしていることをしようとしただけ、のハズだった。
いつも通りキスして、教室に戻る。そう、それだけのことのハズだったのに。
私はすんでのところで、とんでもないミスを犯していることに気が付いた。
「……あれぇ、どうしたの?」
「先輩、キスは放課後まで待っていただいても良いですか」
「それは別にいいけど……どうしたのぉ?」
「いえ、本当になんでもないんです」
なんでもは、ある。
確かに昨日のデートが楽しすぎて、ちょっと今日は気が抜けているところがあったのは認めよう。だから、普段はしないようなミスをしても、大目に見てもらいたい。
そう。昨日の夜に私は、ニンニクたっぷりの餃子を食べてしまったのだ。
普通に歯を磨いた程度の状態で、先輩とキスをするのは憚られる。会話する程度なら問題ないだろうか。先輩は優しいから、臭いについて言及はしないだろうけど。
取り敢えず放課後まで待てば、なんとかなるだろう。
そういえば牛乳を飲むと良いって、昔なんかの本で読んだ記憶がある。昼休みに購買で牛乳を買おう。
「じゃあ、また放課後にねぇ」
「はい。あ、今日は学祭準備ですか?」
「んー。そうだねぇ、バイト先の店長とセンパイにも『高校生活最後の学祭なんだから、働いてる場合じゃないぞ』って言われちゃってさぁ」
「楽しそうな職場ですね」
「アットホームが売りの職場って、逆に危険らしいけどねぇ」
先輩と一緒に第二理科準備室を出る。そういえば鞄にマスクと飴が入っている。これで凌ごう。
次の日が学校なのにニンニクたっぷりの餃子を食べるなんてヘマは、もうしない。
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放課後。
普段マスクを着けていないから、「風邪引いたの?」とか「生配信でもするの?」とか、心配してるんだかしてないんだかわからない質問をされ過ぎて疲れた。
ココさんと話すようになってから、急にクラスメートの距離感が近くなったように感じる。
やれやれ、私の平穏な学校生活も騒がしくなったもんだ……とか、一昔前のラノベの主人公のようにため息をつくのが正解だろうか。
なんて考えていると、笑顔のココさんが話しかけてきた。
「クグルちゃん、カテキンが根負けしたよー」
「と、言いますと」
「『Venti』の商品、出しても良いって。売上は全部Ventiさんに渡すって条件でね」
「では、マスターに話してみますね」
「うん、よろしくー。ダメならダメで大丈夫だからね」
「わかりました」
マスターが喜ぶかどうかは微妙だけど、あの味を沢山の人に知ってもらうチャンスでもある。良い宣伝にはなるだろう。
準備の手伝いも終わり、先輩を迎えに行くために教室を出る。先輩はスマホが壊れているので、軽い連絡もできなくて不便だ。私は一部の人間ではないので、テレパシーは使えないし。
3年生の階に着くと、廊下も教室内も大賑わいを見せていた。学祭まで残り2週間、先輩方の熱の入りようは2年生のそれとは桁違いだ。
「あら、茶戸ちゃん。カサちゃんに会いに来たの、ですか」
「アラさん。はい、一緒に帰ろうと思いまして」
「今、ちょっとここには居ないです、ので。どこか別のところで待っていてもらっても良いかな、ですかね」
「わかりました。では、玄関前のベンチで待っていると伝えておいていただけますか」
「わかったよ、ですよ」
微笑むアラさんに軽く頭を下げ、3年生の階を後にする。
本当は図書室で待っていようかとも思ったのだが、あそこは午後5時に施錠されるので、待つには不向きだ。
階段を下り、玄関前のベンチに座る。ここに座ると、外が見えるのが良い。どうやら雨は止んだようで、それなりに陽も長くなってきた。濡れたコンクリートをうっすらと照らすオレンジ色の陽光が美しい。
先輩は、こういう光景を写真に収めたりするのだろうか。昨日のデートには持ってきていなかったけど、今度はカメラを使うようなデートを提案してみようかな。
具体的にどんなデート、というのは思いつかないけど。登山……はネットゲーマーの私の体力では厳しい。8日目のログボで行ったところとか、また行っても良いかもしれない。
「おまたせぇ」
「すみません、急がせてしまって」
「ううん、そんなことないよぉ」
慌てて階段を下りてきたらしい先輩が、呼吸を整えながら私の隣に座る。
「朝できなかった分のキス、今します?」
「玄関前でするなんて、大胆だねぇ」
「駅でしたことがある人が、何をおっしゃいますやら」
「あはぁ。確かに」
誰もいない玄関前のベンチで、卵ひとつ分の隙間もないくらい密着する。先輩は、私のマスクを顎のところまで下げた。
マスクで隠れていた部分が、外気に触れて冷たく感じる。そんな余韻をかき消すように、先輩の唇が私の唇に重なる。
「んっ……」
「莎楼ぅ……。朝、おあずけされたからね、もっとしたい」
「良いですよ。ニンニク臭くなければ」
「もしかして、朝はそれを気にしてたのぉ?」
「そうです。昨日の夜、ニンニクたっぷりの餃子を食べてしまいまして」
「そうだったんだぁ。別に、におわないよぉ」
「色々と頑張りましたので」
「そっかぁ。お疲れ様ぁ」
先輩は労いの言葉をかけつつ、綺麗なピンク色の舌を出して、私の唇を舐める。そしてまたキス。
唾液が接着剤の役割を果たしているかのように、全く離れない。こんなに長くキスをしているのに、誰も玄関に来ないのは奇跡としか言いようがない。
先輩の唇が離れる。流石は7月最初のログインボーナス、ちょっと激しかった。
「では、帰りましょうか」
「うん。あ、明日からは一緒に帰れないかも」
「迷惑じゃないなら、待ちますが」
「いや、本当に遅くなるからさぁ。さすがに悪いよ」
「わかりました。またしばらく、朝のログボだけの生活になりますね」
「学祭が終わるまでの辛抱だねぇ。夏休みが待ち遠しぃ」
「そうですね」
そうなると、やっぱり学祭まで早送りで、ダイジェストでお送りしたくなる。
私がそう思ったところで、1日は24時間だし、2週間はどう頑張っても2週間なんだけど。
「それじゃあ、行こっか」
「はい」
いつものように手を繋いで、駅を目指す。
学祭準備、学祭本番、梅雨明けに夏休み。こうして、大忙しの7月の幕が上がった。
7月編も、ゆるりと楽しんでいただければと思います。




