34日目:欲望とイタリアン(後編)
クラスメートのこととか、顔のこととか。
全て食べ終えて、先輩と私は食後の珈琲を飲んでいる。
窓の外に広がる闇が、少しずつ深くなっていく。7月になれば、もう少し日は長くなるだろうか。
「ごちそうさまぁ。そろそろ行こっかぁ」
「はい、そうしましょう」
二人で席を立ち、レジへ向かう。同じ店員さんが小走りで来てくれた。彼女以外に店員さんはいないのだろうか。
「あの、貴女が店長さんなんですか」
「そうですよ。他に誰も雇っていないので、混んでいる時はお待たせしています」
「凄いですね」
『Venti』もそうだけど、少人数で回す方がやりやすいのだろうか。そんなに大きいお店ではないけれど、客入りを見る限りは繁盛している。
「凄くはないですよ。趣味でやっているだけなので」
「趣味と実益ですか」
「そうなりますね。あ、お会計は別ですか?」
「一緒でお願いしまぁす」
そう言って、先輩は3千円支払う。本当に奢ってもらってしまった。先輩に払ってもらってばかりだと悪いから、Ventiでバイトを始めたのに。
外に出ると、午後7時になっていた。控えめな街灯の光と、沈んだ太陽に代わって月が私たちを照らす。
「ごちそうさまでした、先輩」
「おいしかったねぇ」
「そうですね。ちょっと遠いですが、来る価値ありですね」
今日何度目かわからないけど、また自然と手を繋いで歩き出す。柔らかくて温かい。ココアを入れて少し時間の経った、マグカップのような感じ。いやマグカップは柔らかくないか。
「ねぇ、君のクラスメートのこととか聞きたいなぁ」
「え、本当に聞きたいです?」
「うん。学校祭準備とか、どんな感じなのかなぁって」
先輩は笑顔で訊ねている。語尾も柔らかい。もしかすると、今までクラスメートの話をしたことがない私に対する、期待のようなものなのかもしれない。
友だちがいなさそうなところとか、案外本気で心配されているのかも。
「えっと、この前会った杯さんを覚えていますか」
「うん、覚えてるよぉ」
「彼女がメイド服の採寸と制作をしています」
「へぇ。じゃあ、君のことを計ったのも杯さんなんだねぇ」
「はい。それと、この前Ventiに来たココさんが総監督……みたいな感じですね」
「央の妹だよねぇ。君のことを名前呼びしてる」
「嫌だったりします?」
もし、先輩が嫌だと言うなら、明日からでもやめようと思う。
名前呼びが特別なことかどうかはともかく、私が誰かを名前で呼んだり、呼ばれたりすることは珍しいことだから、もしかすると先輩はそれを快く思っていないかもしれない。
「別に、嫌じゃないよぉ? ちょっとびっくりはしたけどねぇ」
「そう、ですか」
「うん。でも、ニケさんアラさんアキラ先輩ときて、ボクはただの『先輩』だけっていうのは気にしてたり」
面倒な先輩でごめんねぇ、と自嘲気味に笑う先輩。
一番仲がいい存在である先輩のことを、ただ『先輩』と呼ぶのは、確かに味気がない。名前を呼ぶのは恥ずかしいし、私が関わる先輩は他にいなかったから、自然とこうなっていたのだが。
「その、一年間くらいずっと先輩と呼んできたので、ちょっと今更変えられないといいますか」
「大丈夫大丈夫、別に変えなくてもいいよぉ。君が『先輩』って呼ぶのはボクだけだもんね」
笑顔でうんうん、と頷く先輩。
気がつくと、お店も民家もほとんど無くなっている。駅からも離れ、街灯もまばら。先輩と手を繋いでいなかったら、さぞ不安になるだろう。ほとんど知らない土地だし。
「そういえば、この前三年生の階に行って思ったのですが、皆さん先輩のことをカサって呼ぶんですね」
「そうだねぇ。例外もいるっちゃいるけど、カサって呼び始めたのはセンパイなんだぁ」
「先輩が一年生の時、ヒアさんは何年生だったんですか?」
「三年生だねぇ。だから、今は二十歳だよぉ」
「どうして、ヒアさんと仲良くなったんですか?」
「おっ、それを訊いちゃう〜?」
右手の人差し指をクルクル回す先輩。たまにそれやるけど、なんなんだろう。単純に癖だろうか。
可愛くて個人的にはツボなのは黙っておこう。指摘してやらなくなったら寂しいし。
「『可愛いね』って話しかけられて、今のバイト先に誘われたのが始まりだよぉ」
「あの人は本当にそんな感じなんですね」
「当時はピアスもしてなかったし、髪も染めてなかったし、タバコも吸ってなかったからぁ、普通の美少女って感じだったよ」
「常にパーカーとジャージですけど、整った顔していますよね」
「……センパイみたいな顔が好み?」
ぎゅっ、と握られた手に力が入る。心配そうな顔で、上目遣いで見られるのがもう本当に弱い。絶対に威力が高いことを自覚してその技を使っているに違いない。
恋をしたことがない、というスタンスなので、そもそも好みの顔というものがない。可愛いとか美人とか、整っているとか、自分の物差しで考えることはできるけども。
「私は、先輩の顔が好きです。可愛さとか整っているところとか」
「えへへぇ、顔を褒められることってあんまりないから、嬉しいなぁ」
「その顔で褒められないって、どういうことですか。贔屓目に見てもめちゃくちゃ美人なのに」
「え、そんなに褒めてくれるのぉ? うーん、別に普通の顔だと思うけどなぁ。センパイも美人って言ってくれるけど」
「まぁ、自分の顔の評価って難しいですよね」
家族仲が悪く、交際経験もなく、交友関係の狭い先輩は、もしかすると『愛された経験』というのが乏しいのではないだろうか。恋をしたことがない私と、ある意味で近く、ある意味で遠い。
だから、先輩はすぐに不安になるのだろう。私が嫌がっていないか極度に気にしたり、自分のことが好きなのか確信が持てなくなったり。
まぁ、私も自分のことを可愛いとは微塵も思っていないけど。
「えっと。私は顔とか性格とか、全部引っ括めて先輩のことが大好きですよ。自信持ってください」
「ありがとぉ。ボクも莎楼の顔だーいすきぃ」
手を離して、先輩は私を抱きしめる。
どうしよう。キスしたい。
「……先輩」
「ん?」
初めて、許可を得ずにキスをした。
少し戸惑い、目を大きく開く先輩の唇に、唇を重ねる。
前に、訊かなくてもキスしていいと先輩は言っていたので、それを真に受けてみることにした。
「1日目の先輩みたいなキス、してしまいました」
「していいか訊かないで……ログボ関係なく、君から……?」
「すみません、気を悪くしましたか」
「すっごい嬉しいよぉ!」
更に強く抱きしめられた。柔らかい先輩の体が、どんどん私を包み込んでいく。肉まんの中身みたいな気分。
「なんというか、許可を得てからでは遅い気がしまして」
「うんうん、わかるよぉその気持ち。いやぁ、今日はいい夜だなぁ」
前にもそんなこと言っていた。私には、まだその感覚はわからない。
でも、夜風の冷たさと先輩の温もりが対照的で、輝く月の下でキスをするのは、いい夜だと言えるかもしれなかった。
「そろそろ帰りましょうか。……先輩」
喉のすぐそこまで出かかった先輩の名前を、ぐっと飲み込む。
別に、そんな勿体ぶるようなことじゃないのに。
「そうだねぇ、暗いし肌寒いもんねぇ」
「明日のご予定は?」
「明日は、ニケとアラと遊びに行くんだよねぇ。日曜なら空いてるよぉ」
「では、日曜日は遊んでいただけますか」
「よろこんでぇ」
心なしか頬を赤く染めている先輩と、手を繋いで駅を目指す。家に着く頃には、すっかり夜も深まっているだろう。
色々なことを話したけれど、少しだけ踏み込んで話せただろうか。思わずキスもしてしまったし、距離感も変わってきた気がする。
もっと、先輩に寂しい思いや悲しい思いをさせず、物足りない何かを満たし続けられるように、私も頑張らないと。
先輩の自己評価の低さに気づいた後輩。上げられるか、自己肯定感。




