132日目:mother(後編)
「ただいま」
「おかえりぃ〜!」
玄関開けたら5秒で先輩が抱きついてきた。
「おっ、遅くなってすみません。っていうか汗すご、すごいのでアレですよ!」
「そんなことないよぉ。確かにちょっと遅くて心配だったけど、汗のにおいなんてしないよ?」
「しないってことはないかと……」
「しないけどなぁ。そんなに気になるならぁ、一緒にお風呂入っちゃう?」
導入が完璧すぎる。鍵の件も気になるし、お腹も空いたけれども、まずはお風呂の方が良いな。
シンプルに疲れたし。汗、止まらないし。
「んぅ〜、莎楼ぅ」
かなり待たせてしまったのか、それとも心配をかけてしまったのか。
先輩は甘々に甘えた声を出しながら、決してホールドを緩めようとしない。頭すりすりも止まらない。
天国って、死ぬ前にも行ける場所にあったんだ。
「先輩。多幸感に包まれて最高なんですけど、やっぱり汗が気になるのでお風呂に行きたいです」
「はぁい」
ホールドが解除されたので、着替えを用意するために先輩の部屋に向かう。
先輩の着替えは別の部屋にあるので、一旦進行方向が分かれる。改めて、衣類専用の部屋があるのは凄いな、と思った。小学生並みの感想。
「よし」
カバンから着替えを取り出して、お風呂場に向かう。その途中で先輩と合流。
個人宅で合流って表現もおかしいけど、でも本当にそう言わざるを得ないくらい広い。いくらお金持ちだからって、わざわざこんなに大きい家を建てたのは何故なのだろう。
そうすることに決めたのは、まだ見ぬ先輩の父親なのか、それともハオリさんなのか。
「……なんかさぁ、悩みごとでもあるの?」
「えっ。いや、そんなことはないよ?」
「怪しいなぁ。なんか、難しい顔してるもん」
こんな顔だよ、と言って眉間に皺を寄せる先輩。え、そんなにしかめっ面になっていたのか。
お母さんに、ゴリラみたいな顔になっていると揶揄されたことを思い出した。駄目だ、今日は思考にお母さんとハオリさんが入り込んできてしまう。
「先輩には敵いませんね。でも、話しても大丈夫だと判断するまで待ってもらっても良いですか」
「莎楼が平気なら、それでいいけど」
「ありがとうございます」
墓まで持って行くことはできなさそうだけど、もう少し時間が欲しい。
時間は万能薬では無いけれど、それでなくては解決できないこともある。
脱衣所に入り、最早脱ぐことになんの躊躇いも無くなったなぁ、なんて思いながら裸になる。
「……」
やっぱり、先輩の身体は綺麗だなぁ。
陶器のような、とか彫刻のような、みたいな言葉で言い表すのは勿体ない。もっと褒め倒しつつ、官能的ですらあることを万人に伝わるように……。
「く、莎楼?」
「はっ」
「お風呂入ろぉ?」
「は、はい」
いけないいけない。色々あった衝撃から、思わず先輩のことを性的な目で見てしまっていた。
引かれたり嫌われたり……はしないだろうけど、今はやめておこう。
―――――――――――――――――――――
「それが、取りに戻ったもの?」
「はい。ハオリさんから謎に託された、謎の鍵です」
「謎が謎を呼んでるねぇ」
本当に謎すぎて、これは最後まで使われることの無いアイテムなんだと思っていた。
序盤で入手したけど、結局使わないままボス戦まで来てしまった……なんてことは、割とよくあることだし。
「これを入れて……あ、やっぱり開きましたよ」
「ありがとぉ。じゃあ早速、見てみよっか」
「さ、先に私が見ましょうか?」
中身も恐らくハオリさんが入れたんだろうし、先輩にとって辛い気持ちになるものや、とてもじゃないけれど受け止めきれないものが入っているかもしれない。
この箱を開ける鍵を私に託したのだって、先輩には見せられないものが入っている、という意味だったのかもしれないし。
「平気だよぉ。莎楼が一緒に居てくれるから」
「……わかりました」
鍵が無くて箱を開けられなかった、というのも勿論あるだろうけど、私が居る時に開けたかったんだろうか。
先輩は、少し震えた手で箱を開いた。一緒に、そっと中を覗く。
細長い木の箱、キャラメルの箱、母子手帳と写真の束に、日記帳のようなものが入っていた。
「この木の箱は……臍の緒ですね」
「へぇ、とっといてたんだ。キャラメルの箱には……乳歯かな、これ」
「そうですね。多分先輩の」
臍の緒に乳歯。先輩のことが嫌いだと言っていたのに、わざわざ残していたのか。なんだか意外。
そして当然、母子手帳にはハオリさんの名前と先輩の名前が書かれている。
「写真は、先輩の幼少期のものが多いですね。この家の建設途中の写真もありますよ」
「撮ってたのも、それを現像していたのも意外だなぁ。そういうことに興味がない人だと思ってたよ」
「私もそう思っていましたが、これを見る限りだとまるで……」
まるで、先輩のことを愛しているみたいだ。
この世の全てが嫌いだと、改める心も持ち合わせていないと言っていたのに。
社会的な体裁のためだったとしても、ここまでする必要は無いだろうし。
「いやいや、だってそんな……え、今更そんなこと言われても……」
困惑した表情を浮かべ、でも何かをずっと思案している表情の先輩。
そんな先輩のことを見ながら、写真の方も見進めていると、隙間から何かが落ちた。
「あれ。これって、先輩が好きなアイスの蓋じゃないですか?」
ホテルでも食べていたし、ハオリさんが冷凍庫に入れておいてくれたのも、このアイスだった。
やっぱり、偶然このアイスを買ったのではなく、これが先輩の好きなアイスだって覚えていたんだ。
「……これさ、ママが初めて買ってくれたアイスだったんだぁ。それがすっごく嬉しくてね、きっとそんなボクを見て、このアイスを気に入ったって思ったのかな」
「ふふっ。でも、実際に気に入ってるんでしょ?」
「まぁね。思い出の味だし」
先輩はそう言って、少し照れくさそうに目を細める。
初めて買ってもらったアイスを、今でも食べているの可愛いな。
味や匂いは記憶と結びつきやすいって聞いたことがあるし、先輩が『食』を大切にしているのは、案外そこら辺が起因しているのかもしれない。
「あーあ。会って話したら絶対に精神がすり減るんだけど、それでもママに会いたくなっちゃったなぁ」
「……先輩」
「んぅ?」
しばらく秘密にしていようと思っていたのに、なんだかその必要はもう無さそうだ。
自分だけでは背負いきれないと判断して話すか、一緒に背負ってくれると判断して話すか。あの時のことを思い出す。
「あのですね。実は、私の家に先輩のお母さん……ハオリさんが居ます」
「……え?」
「さっき家に戻ったじゃないですか、その時にハオリさんが居たんですよ。我が家のリビングに」
「待って待って。情報が完結しないんだけど」
「だから、私のお母さんと先輩のお母さんは、仲良しなんですって!」
「わかんない。わからないといけないけどわかんない」
「現実を見てください、あっそんな虚ろな目をしないで」
「黙ってようと思ってたの……?」
「この箱を開けるまでは、そのつもりでした」
「そっかぁ。優しいね莎楼は」
言い終わる前に、ぎゅっ、と抱きしめられた。
お風呂上がり故の体温の高さと、シャンプーの香りが私を優しく、柔らかく抱擁する。
「優しくないですよ」
「ううん、とっても優しいよ。そんな優しい君に、お願いがあるんだけど」
「なんですか?」
否定しても否定されるので、もう自分が優しいということを一旦受け止めることにした。
すぅ、っと息を吸った先輩は、真っ直ぐに私を見つめてこう言った。
「君の家に行っても、いいかな」
返事は決まっていた。
「もちろん。だって私、とっても優しいですから」
次回、先輩目線でお送りします。




