122日目:決戦の前の前の金曜日(後編)
チゲ鍋のチゲは鍋って意味なので、チゲ鍋だと鍋鍋になっちゃうんですって。
「11月になりましたし、肌寒いので鍋にしましょう」
「どんどんぱふぱふー」
先輩の口からふわふわしたオノマトペが飛び出したところで、早速夕飯作りを開始する。
因みに、今日はお母さんは帰りが遅くなるとのことなので、2人分だけ作れば良い。
「冷蔵庫にある、残り物だけでも美味しくできるのが鍋の良いところです」
「今日は何が入るのかなぁ」
半分に切られてラップで包まれている人参、野菜室の奥に佇む玉ねぎ、恐らく買ったばかりのネギ、それから豚肉を回収。
「先輩は、何味が好き?」
「んー。味噌でも醤油でも、それ以外でも好きだよ」
「そうだよね。先輩に苦手なフレーバーなんて無いよね」
鍋の素みたいなやつは無いので、自分で調味料を駆使して味を決めないといけない。
再び冷蔵庫を開けてみると、さっきは見落としていた豆腐を発見した。
「……あ、豆板醤と甜麺醤がある」
「麻婆豆腐でも作ったのぉ?」
「というか、麻婆豆腐を作るつもりだったのかも。豆腐もありましたし」
「なるほどねぇ」
「でも挽肉が無いので、やはり鍋にします。キムチ鍋にしましょう」
「わーい」
キムチ鍋なのに白菜が無い。けど、まぁなんとかなるだろう。
好きなものを適当な大きさに切って、好きなスープに入れれば美味しい鍋になる。楽で美味しくてヘルシー。偉いぞ鍋。
「先輩、野菜を適当に切ってもらえますか」
「任せといてよぉ」
先輩が野菜を切ってくれている間に、豚肉を切る。
先輩に木のまな板を渡したので、自分はプラスチックのペラペラのやつを使う。肉だけ切るので、丁度いい。
「鍋にごま油を入れて熱し、チューブのにんにくと豚肉を入れます」
「もう、それだけでおいしそうだねぇ」
ごま油とにんにく。これは下手したら、禁止カードになりかねない。
「あっ!」
「どうしたのぉ?」
「に、にんにく入れちゃった……」
「ボクは犬とか猫じゃないから、にんにく食べれるよ?」
「あ、そうではなくて……」
ネコは私ですし、という言葉を飲み込む。
この暴力的なまでに素敵な香りは、後でキスをする時に邪魔になる可能性が高い。迂闊だった。
「大丈夫だよぉ、加熱したらそんなに臭わないから」
「そうなんですか?」
「うん。だからぁ、いーっぱいキスできるね」
「お見通しでしたか」
「あはぁ。だから、もっと入れても大丈夫だよぉ」
「では、もう少し入れます」
にんにくを足して、豆板醤と甜麺醤、醤油、塩、顆粒の鶏ガラスープも鍋に追加し、水を大量に入れる。800mlくらいかな。
そして、先輩に切ってもらった野菜も投入。順序とかはあまり気にしない。どうせいつかは全て煮える。
「お豆腐は入れないの?」
「沸騰してから入れます。その後は弱火にして、10分弱くらい煮れば完成です」
「あっという間だねぇ」
「それが鍋の良いところですよ」
沸騰したので、豆腐を入れる。とぽんとぽん、と着水するのを見届け、弱火にする。
「あとは煮えるのを待つだけだねぇ」
「はい。お皿と箸を用意しておきましょうか」
台所から少し離れて、食器棚の方を向く。
けれど、先輩に手を捕まれ、そんな私の動きは止まった。止まれと言われたわけじゃないけど、自然と静止する。
振り向くと、先輩は柔和な笑みを浮かべていた。どちらかと言うと、何かを企んでいる笑顔に見える。
「それはあとにしてさぁ、チューしよ?」
「と、突然ですね」
「にんにくが不安ならさぁ、食べる前にすればいいじゃん?」
「天才ですね」
「まぁ、あとでまたするけどね!」
「わっ」
抱きついて、頭をすりすりと擦り付ける先輩。マーキングだろうか。髪が揺れる度に、甘い匂いが香り立つ。
焼き立てのお菓子が並ぶお店に入った時でも、ここまで私を興奮させることはない。それくらい甘美な香り。
「んっ、ちゅっ」
首や胸元に、軽く唇が当てられる。一瞬、噛まれるかと思ってドキッとした。
「先輩……?」
「なぁに?」
「口にはしないの……?」
「しまァす!」
そんなに慌てなくても良いのに、と少し笑ったのも束の間。
瞬く間に身体が重なり、身体の自由も唇も、思考さえも奪われてしまった。
多幸感と閉塞感、というより窒息にも近い感覚に、酸素を求めて水面に浮上する金魚のようになってしまった。
唇が離れた隙に大きく息を吸おうとするも、第二波がすぐにやってきたので断念。
溺れる。
「ぷはぁっ!」
「ごめんごめん。ちょっと激しかった?」
「ちょっとどころじゃないですね……」
胸の鼓動が落ち着かない。肩で息をしつつ、先輩にも聞こえるくらいの深呼吸をする。
「お、怒ってる……?」
「怒ってはいないです……。ちょっと呼吸が追いつかないだけで……」
鍋を食べる前に、身体が温まってしまった。
冬の寒い日も、先輩が居れば暖房いらずかもしれない。
「あ、そろそろ鍋が煮えたんじゃ……ないですかね……」
「だ、大丈夫ぅ?」
「あの、アレですよ。インドア派がマラソンした後みたいな感じです」
小学生の頃は毎年あったマラソン大会、今思い出しても辛い気持ちになる。
走りたい、と思ったこと無いし。仕方が無く走った経験しか無い。
……100日目とか。
「ボク、お皿とか出すねぇ」
「ありがとうございます。今日はご飯少なめの方が良いですよ」
「シメがあるってことぉ!?」
「そ、そんなに喜んでいただけるとは。うどんがあるので、それでシメますよ」
「わぁい」
鍋つかみを装着して、鍋をテーブルまで運ぶ。
気の利く先輩が、既に鍋敷きをセッティングしてくれている。本当に助かる。
「はい、おたま」
「ありがとうございます」
お互い、皿に鍋をよそっていく。濃厚な香りと湯気が立ち、赤いスープで満たされていく。
「それでは、いただきます」
「いただきまぁす」
まずはスープを一口。うん、辛いけど美味しい。
ニンニクはそこまで強くない。豆板醤と甜麺醤が、きちんとキムチの味を出している。
「おいしぃねぇ」
「美味しいですね。コチュジャンが無くても、なんとかなるものですね」
「豆板醤と甜麺醤は、コチュジャンの代用だったんだね?」
「はい。白菜無しでも、ちゃんとキムチって感じがしますね」
「ニンニクも悪目立ちはしてないねぇ。あったまるなぁ」
ニコニコしながら、すぐにおかわりをする先輩。
これ、このままだと鍋の中が空になってしまう気がする。早めにうどんを準備しておこう。具が残ってる方が嬉しいし。
「先輩、ちょっと待っててください」
「んむ、あっふぁんふ?」
「今口に入ってるやつは食べてください」
鍋を回収し、台所に戻る。火にかけながら、冷凍庫からうどんを取り出す。
うどんをレンジに入れ、加熱する。その間にネギの残りを切る。これは食べる時に乗せよう。
切り終えたネギを小皿に乗せ、冷蔵庫から今度は味噌を取り出す。これを適当な量掬って、鍋に入れて溶かす。
チン、とレンジが鳴った。
「うどんが解凍されました」
リビングから、お風呂が沸いた的な機械音声の真似をする先輩の声も聞こえた。妙に上手いな。
「できましたよ。お好みで、ネギもどうぞ」
「すごいねぇ……結婚しよ……?」
「先輩は、うどんも恋愛対象なんですね」
「君に言ったんだよ!?」
冷静さを欠く先輩を他所に、キムチうどんを皿によそって食べてみる。
うん、完璧だ。味噌を足したことで、深みが出た。コクとかいう、基準の不明な言葉は使わない。
「ほら、先輩も食べなよ」
「う、うん。……おいしぃ!」
「でしょ?」
「味噌を足したんだねぇ。流石は莎楼」
「ありがとうございます」
あっという間に鍋は空っぽになった。今度からは、もう少し多めに作ろう。
「ごちそうさまぁ」
「ごちそうさまでした。皿は後で洗うので、下げるだけで良いですよ」
「はぁい」
先輩と一緒にご飯を食べるの、やっぱり幸せだなぁ。
……先輩が結婚とか言うもんだから、ついそんな妄想をしそうになる。まだ付き合ってないのに。
心も身体も温まったから、今はそれで満足しておこう。
同じ鍋をつつく仲、素敵です。
 




