番外編:一昨年の夏、君と出会い
突然の番外編です。舞台は二年前の夏。
電車内の人々の熱気と、マスクにこもり切らなかった熱が、ボクの眼鏡を曇らせる。でも、この息苦しさは、満員のせいでもマスクのせいでもない。何かが物足りない、そう思いながら漫然と生きている。
これだけの人の中に居るのに、何処までも孤独感が拭えない。誰もボクのことなんて見てはいない。
……変態以外は。
電車に乗ってから10分が過ぎた頃から、ずっと背後から、男性が体を触ってくる。とは言え、声を荒らげて糾弾するのはためらわれる。自意識過剰なブスが大袈裟に騒いでいる、なんて言われるのが目に見えているから。
万が一、ありえない話ではあるけれど、冤罪だったりすると困るし、降りる駅まであともう少しだし、黙っているのが利口だと判断した。忌々しいけども。
「あ、先輩じゃないですか。奇遇ですね」
「……?」
突然、知らない女の子に話しかけられた。誰かと勘違いしているのかな、と思っていると、彼女はボクにスマホの画面を見せた。
『知人のフリをして下さい』
「……あー、奇遇だねぇ。同じ電車に乗ってたんだねぇ」
「折角ですし、次の駅で一緒に降りませんか?」
後ろの貴方もどうですか、と彼女が付け加えると、変態は慌ててボクから手を離して、混雑している車内に消えていった。
「ありがと……」
「次で降りますか?」
「ボ……わたしがいつも降りるのは次の次なんだ」
「では、そこまでご一緒します」
それから彼女は何も言わず、ただボクの隣で静かに佇んでいた。ボクより少し低い身長、肩くらいまでの長さの黒髪、クールな眼差し。彼女は何を思って、ボクのことを助けてくれたんだろう。
誰もボクのことなんて見ていないこの世界で、彼女だけがボクを見ていた。なんて表現するのは、少しロマンティック過ぎるかな。
『次は不行です。不行では、全てのドアが開きます』
ボクの降りる駅名がアナウンスされた。ここで降りることを伝えると、彼女は静かに頷いて、定期券を取り出した。
ちらりと見えた区間が、ボクとほとんど反対方向で、それだけで泣きそうになった。
電車が停止し、ぞろぞろと降りる人の中に混じり降車した。さっきの男は見当たらない。良かった。
「本当にありがとう。その……」
ダメだ、本当に泣きそう。
「家は近いですか。良ければ近くまでご一緒しますよ」
「そんな、悪いよぉ。痴漢なんていつものことだし、全然大丈夫だよ。ほら、わたしは胸も大きいしさ、狙われやすいんだろうねぇ」
自嘲気味に、笑いながら言ってみた。そうでもしないと、涙がこぼれそうだから。
「『いつものこと』が慣れる要因にも、『胸が大きいこと』が痴漢をされても良い理由にも、ならないと思いますが。嫌なら嫌で、怖いなら怖いで良いじゃないですか」
「どうして……?」
「私は、胸が大きくて痴漢をされやすい人とではなく、貴女と話をしているからですよ」
もうダメだ。涙腺が仕事を放棄した。人前で泣くのなんて、初めてかもしれない。
居たんだ、ボクのことを見てくれる人が。
「お言葉に甘えて、もう少しだけ付き合ってもらっても良いかなぁ……?」
「もちろん」
ボクが泣き止むまでにまた電車が入ってきたけど、彼女はそれに目もくれず、ただ静かにそばにいてくれた。
歩き出してから、ぽつぽつと会話をした。彼女は中学三年生で、今年受験らしい。先輩、と声をかけたのは間違いではなかったわけだ。
「同じ高校に通うことになったりしたら、面白いよねぇ」
「ご冗談を。そんなに頭の良い高校には入れません」
ボクの制服を見て、彼女は自嘲でも卑下するわけでもなく、淡々と言う。
「いやぁ、そんなことないよぉ。ここら辺で2番目くらいに偏差値が高いだけでしょ」
「それでも、私にはとても」
頭、かなり良さそうに見えるけど。少なくとも、ボクよりはずっと賢そうだ。
「あ、ここまでで大丈夫。本当にありがとねぇ」
「いえ。それでは」
彼女は軽くお辞儀をして、振り向き、来た道を歩き始めた。
随分とクールというか、あまり近づいてこない感じがする。でも、初対面でここまで付き合ってくれたわけだから、冷たいわけではないと思う。
何より、ボクのことをボクとして見てくれていたのは、あの車内で彼女しか居なかったんだから。
あんなに嫌なことがあったのに、何故だろう。満たされない何かが、少し満たされた気がする。
大きな充足も、幸福も要らない。
それこそログインボーナスみたいな、小さな何かがあるだけで、少なくともボクは満たされるんだろうな。
「あ、名前聞くの忘れちゃったなぁ」
まぁいっか。もしボクの人生に必要な存在なら、きっとまたどこかで出会えるだろうし。
というわけで、後輩が覚えていない初対面の時のお話でした。伏線にしようと思ったけど書きたくなったので。




