110日目:食べ歩きデート(箸休め編)
1ヶ月以上、お待たせしてしまい申し訳ございません。
「ただいま」
「おじゃましまーす」
返事は無い。お母さんは仕事に行っているので。
両面亭でのランチを終えた私たちは、今度こそ誰にも邪魔されず咎められることも無い場所を探し求めた。
その結果、シンプルに私は帰宅することになった。勿論、先輩を連れて。
「莎楼の家は、両面亭から歩いて来れるからいいねぇ」
「そうですね。こういう時に便利です」
前も両面亭から私の家に来たけど、家の近くに美味しいお店があるのは素直に嬉しい。
先輩と一緒に歩いたから近い気がしてるだけで、実際はそこまで近いわけじゃないけど。
階段を上って、私の部屋に入る。
先輩が来るとわかっていたわけではないけれど、念のため綺麗にしておいて正解だった。
「なんか、いつもと違う匂いがするぅ」
先輩はすんすん、と鼻を動かして匂いを嗅ぎとっている。普通に恥ずかしいんだけど。
「流石ですね。昨日、寝る前にアロマを焚いてみたんです」
「へぇ。なんだか安眠できそうな匂いだねぇ」
「そうですね。デート前の緊張を和らげる効果も期待されますよ」
「いつも緊張してるのぉ?」
「遠足前日の小学生みたいなもんですよ」
「そういうタイプのドキドキかぁ。ボクは別に、遠足が楽しみなタイプの子どもじゃなかったけどね」
そう言いながら、先輩は帽子を脱いで、カバンと一緒に床に置いた。
この後の流れはわからないけど、なんとなくベッドに座ることにした。それを見て、先輩も私の隣に座る。
アロマも裸足で逃げ出すくらいのいい匂いが、ふわりと香る。
「どうしてベッドに座ったの?」
「えっ、別に何も考えずに座ったんですけど」
「そっかぁ」
それ以上は言及もしてこないし、押し倒してきたりもしなかった。キスをねだるわけでもなく、ただ静かに私の隣に居る。
手、とか握っても良いのかな。
先輩が何も仕掛けてこないなんて、失礼な言い方になるけど珍しいから。私の方から何かをしても良いのかな。
「先輩」
「んぅ?」
「ギューってしてほしいです」
「いいよぉ」
へにゃりと微笑んだ先輩が、私のことを優しく抱きしめた。
柔らかさと温もりが、程よい圧と共に体を包み込んでいく。多幸感に溺れかけながら、私も先輩を抱き返す。
先輩の肩にあごを乗せて、音を立てないように息を吸う。幸せの匂いがする。
「君はハグが好きだよねぇ」
「キスでは触れない部分が、一気に包まれるじゃないですか。それが安心するというか、なんというか」
「なるほどねぇ。そう言われてみると、キスとは違う特別感があるかも」
抱きしめられたまま会話をすると、心音と声が細胞の奥深くにまで響く。
全身がリラックスしているのに、心臓だけが大きな鼓動を響かせている。なんだかそれが面白い。
操作受付不可な心臓に続いて、口まで無意識に動いた。
「先輩、したい?」
「え?」
「あっ、えっ、ちがっ。わす、忘れてください!」
「君からそんなこと言うなんてねぇ。ディナーの前にデザートを食べてもいいってこと?」
「えっとですね」
「なんてねぇ。しないよ」
「……あの先輩が?」
「真顔で失礼なことを言うねぇ。ボクだって、そんないつでも発情してるわけじゃないんだよ?」
私から腕を離して、指を曲げた両手をこちらに向けて「がおー」と鳴く先輩。
それだと捕食者のポーズになると思うけど、そこは指摘しないでおこう。もしかしたら、先輩なりの不服の意思表示かもしれないし。
「なんというか、その。私も先輩と同じ気持ちだって気づいてから、先輩にとても我慢させていたんじゃないかなって思うようになっ……近い近い先輩近いよ」
話しながら一瞬うつむいて、再び顔を上げたら真正面に先輩の顔があった。意図せずキスしかねないくらいの至近距離。
長い睫毛は触れる寸前で、甘い吐息は軽く皮膚を撫でる。
「あはぁ。まぁ確かに我慢はしていたけど、無理はしてないよ」
「そ、そうですか。それなら良いんですけど」
「だからさ、莎楼もボクにやってほしいことがあるなら、遠慮なく言ってねぇ?」
「じゃあ、今度は抱きしめながら頭を撫でてください」
「いいよぉ。いい子いい子」
再びギュッと抱きしめられ、一緒にベッドに倒れ込む。優しい声が耳元に届き、あたたかい手が頭を撫でてくれる。
まるで具現化したASMRだ。現実って本当に凄い。
―――――――――――――――――――――
「おはよぉ」
「……え?」
さっきまで明るかった室内は、夕闇に囲まれて薄暗くなっていた。
同衾して朝を迎えた時と同じように挨拶をして微笑む先輩を見て、遅刻を確信した朝と同じ感覚に襲われる。
「いっ、今何時ですか!?」
「あはぁ。そんなに慌てなくても大丈夫だよぉ。ディナーの時間まで、まだ30分くらいあるし」
「そうですか……。すみません、まさか寝てしまうとは」
「それだけ、ボクのハグとなでなでが気持ちよかったってことでしょ? ボク的にはすごく嬉しいよ?」
「確かに、抗うことのできない絶対的なパワーでした」
幼い日の、お母さんの腕に抱かれて眠った時の記憶がよみがえった。きっと今日のことは、走馬灯のラインナップに追加されたに違いない。
はにかむ先輩と一緒に起き上がり、ベッドから下りる。
時間はまだあるらしいけど、お店の場所によっては早めに出た方が良いかもしれない。
「それじゃ、そろそろ出よっか」
「やっぱり、時間ギリギリでした……?」
「だからぁ、大丈夫だって。もしギリギリだったら、さすがのボクでも起こしてるよ」
「それもそふにゃふふぁふんふん」
喋っている途中で、先輩の両手が私の頬を包み込んだ。ムニムニと縦横無尽に、まるでパン生地みたいに揉まれた。
寝かせた後にこねるのは、パンと順序が逆だけど。
頬に残る感触を反芻しながら、部屋を出る前にハンカチを鞄にしまう。流石にさっきの今で活躍することはないだろうけど。
「それでは、行きましょうか」
「うんっ」
部屋を出て、手を繋いで階段を下りる。
まだお母さんは帰ってきていないらしい。最近、帰りが遅い日が増えたように思う。シングルマザーだし、別に理由がなんであれ問題は無いけれど。
外に出て、ドアを閉める。
夏の頃ならまだ明るかったであろう時間だけど、もうすっかり日は暮れている。夜風は少し冷たくて、夏の面影はほとんど無くなってしまった。
月と星が、私たちの頭上で煌めいている。手を伸ばせば届きそうだと錯覚するくらい、近くに見える。
「まだ時間はあるし、ちょっと歩こっか」
「良いですよ。……いい夜、ですもんね」
「おぉ、わかるぅ?」
「わかるようになってきました」
私にとっては、先輩と一緒ならどんな夜もいい夜だけど。
手を繋いで、薄ら暗い夜道を歩く。基本的に人とすれ違わないし、車もたまにしか走っていない。
目的地はわからないけれど、なんとなく先輩に導かれながら歩を進める。
「ねぇ莎楼」
「なんですか?」
「ディナーの前に言うのも変なんだけど、食べ終わった後はまた君の家に行ってもいい?」
「良いですよ。泊まります?」
「いいのぉ?」
「もちろん。それに先輩、言ってたじゃないですか。日曜日も食べ歩きしたいって」
「そういえば土日って言ってたねぇ。でもさすがに、明日は大人しくしよっかな」
「じゃあ、おうちデートですね」
「うんっ」
大切なのは、何処に行くかではなく、誰と居るか。
きっと名のある人が残したのであろう言葉が、自然と頭を過ぎった。まさか商標登録なんてされていないだろうし、私だって自然とそう思ったんだから仕方ない。
歩き始めて10分は経っただろうか。先輩の家の方向……大きく言えば、学校方面に向かっている。
流石に自宅から徒歩で学校まで行ったことは無いけど、それなりに時間がかかることは間違いないだろう。
「そろそろ電車に乗る? 流石に弐舞下は遠いね」
「弐舞下ってことは、〈Stupid Days〉ですね」
「ぴんぽーん。お祭りの屋台で食べた時においしかったし、莎楼と一緒に行きたかったんだよねぇ」
屈託のない笑顔が、薄暗い中でも輝いている。
オススメした身としても、採用されて嬉しい。
駅の方に進路を変えようとした先輩の手を、少し強く握る。それに気づいた先輩が、無言の抵抗にまた微笑む。
「もう少し、一緒に歩く?」
「……先輩が、お疲れじゃなければ」
「あはぁ。ボクもちょっと寝たし、大丈夫だよぉ」
進路を元に戻し、先輩と他愛ない話をしながら歩を進める。
ヒアさんが、また改めてお礼をしたいと言っている話とか、先輩とライブに行った日が実はアラさんの誕生日だったとか、ニケさんの妹さんが私と同じゲームをやっていることが判明したとか、そんな話を。
「私は誕生日を祝っていただいたのに、皆さんのことは全然知らなくて」
「ボク抜きで関わることが少ないわけだし、仕方ないんじゃない? ニケは来年だけど、他のみんなはもう終わっちゃったかな」
「そうなんですね」
「ボクの誕生日は覚えてるぅ?」
「もちろん。祝日は忘れても、先輩の誕生日は忘れません」
体育の日だかスポーツの日だかを忘れる、という実績は既に解除してしまっているけれど、先輩の誕生日は忘れようが無い。
クリスマスイブだから、覚えやすいというのもあるにはある。でも、たとえ違う日でも忘れない。
そんな話をしていると、いつの間にか弐舞下に到着していた。
目的地までは、あと少し。もう少しだけ、この夜の空気を味わいながら歩こう。
次回、食べ歩きデート完結。
 




