103日目:あなたにふれて(後編)
一緒にお風呂に入る。一緒の布団に入る。今までしてきたことを、今やる難しさ。
かつて地球が回っていることに気づいていた人類が、後世では天動説を唱え始めたように。何世紀も前の人間に作れていたものが、現在では再現できなかったり。
得てして人は、できていたことができなくなる生き物だと言える。
好きな人と一緒にお風呂に入る。
それはほんの少し前までの自分が当然のように行っていた事実で、今の自分には羞恥と緊張をもたらす行為。
「……莎楼?」
「はっ、はい?」
「服……脱がないの?」
脱衣所で、脱衣せずに硬直していたら先輩に心配された。
コンタクトも外して、先輩は準備万端になっている。私も早く脱がないと。
急いで服を脱ぎ捨てて、カゴに入れる。衝撃で、カゴが軽く動いた。
浴室のドアを開ける先輩に続いて、お風呂に入る。今日の入浴剤は乳白色のやつで、お湯が白濁としている。
掛け湯をして、同時に湯船に入る。今回も計算され尽くした湯量で、全く溢れない。怖いよお母さん。
「ふぅ。やっぱり一緒に入るのは最高だねぇ」
「そうですね。先輩の家のお風呂と違って狭いですけど」
「あはぁ。これくらいが丁度いいよぉ」
広いと掃除が大変だって言っていたし、それはそうだろう。基本的に自宅のお風呂は1人で入るものだし、あんまり広くても持て余しそう。
白いお湯の中。濁っているとはいえ、うっすらと先輩の肌が見える。
いや、見たくてたまらないから凝視をしているわけではなく、視線を落とすと見えるというだけで変な意味ではない。じゃあ見たくないのかと問われたら、まぁ見えた方が嬉しいけど。
「……あ、まだ怪我治ってないんですね」
「ん? でも結構治ってきたよ。お湯もしみないし」
「それは良かった。捻挫も平気なんですか?」
「うん。ボクは昔から、怪我の治りが早いんだよねぇ」
アニメだったら、先輩は回復能力を持つ怪異の血を引いていた……みたいな伏線になりそうな台詞だと思った。
体を洗うために、同時に湯船を出る。まるで長年連れ添った夫婦のように息ぴったりだ。長年連れ添った夫婦が身近に居ないので、あくまで想像だけど。
「お背中流しますよぉ」
「ありがとうございます」
「はい、交代!」
「先輩、背中も怪我してたんですね」
「背中の傷は、剣士の恥なんだけどねぇ」
「いつ剣士になったの?」
なるべく傷を擦らないように、優しく背中を洗う。跡が残らないことを祈ろう。
お互いの背中が綺麗になったところで、頭を洗う。初めて一緒にお風呂に入った時に比べて、先輩の髪は長くなった。今では肩を超え、胸の上くらいまであるだろうか。
シャンプーを泡立てて、羊のようになっていく先輩を眺める。目を閉じているから、私の視線には気づかない。
「なぁに、そんなに見つめて」
「え、えっ!?」
気づかないハズだったのに、気づかれてしまった。変わらず、目は閉じ続けているにも関わらず。
「心眼だよぉ。剣士だから見えるのだ」
「本当に剣士だったんですね……」
納得しそうになったけど、当てずっぽうで言ったのかな。別に裸を見ようとしていたわけではないけれど、それでも当てられると恥ずかしい。
慌てて自分の洗髪を済ませて、シャワーで洗い流す。
「そんなに慌てなくてもいいのにぃ。見たいならぁ、好きなだけ見ていいよ?」
「あっふぁっ、あ、あの。髪伸びたなぁって思っただけで、決して変な目で見ていたわけではなくて」
「そ、そんなに慌てなくてもいいよ?」
「す、すみません」
「……少しは、変な目で見てよぉ」
ほつれた糸を引きちぎった時のような音が、脳内に響く。シャワーの音に混ざるその幻聴は、自分の理性が限界を超えたことを証明しているに違いなかった。
「み、見てるよ……?」
だからそんな、普段の自分なら決して口にしないような言葉が出るのも、仕方が無いことだと言えた。
「莎楼!」
「は、はい?」
「もぉ我慢できない……いい?」
「なっ何が? なんの許可を取ろうとしてるの、先輩?」
頭に泡を乗せたままの先輩が、一足先に湯船に戻った私に迫る。
「莎楼……」
「のっ、のぼせちゃうから! 後にしましょ、ね?」
「うん、わかった」
急に落ち着いた先輩が、蛇口を捻ってシャワーを浴びる。するすると泡が流れ落ちていくのを、呼吸を整えながら見守る。
何か、とんでもないことを後回しにしてしまった気がする。大丈夫だろうか、本当に後にしましょうとか言って平気だったのだろうか。
「ふぅ。それじゃ、100数えたら上がろっか」
今日は、100も耐えられないかもしれない。逆上せちゃいそう。
―――――――――――――――――――――
「はい、乾きましたよ」
「ありがとぉ」
無事に逆上せずに済んだ私は、自分の部屋で先輩の髪を乾かしていた。
髪が伸びたことで、以前よりも時間がかかった。それはつまり、幸せな時間も伸びたということ。
「そうそう、先輩に渡したいものがあって」
「なぁに?」
「あの時、渡せなかったお土産です」
あの時は、もしかしたらもう渡せないんじゃないかと不安だったけど、こうして渡すことができて本当に良かった。
先輩は少し緊張した様子で、袋の中からお土産の入った小箱を取り出した。まるで玉手箱でも開けるみたいに、そーっと蓋を取り外した。
「わぁ、可愛い櫛! つげ櫛?」
「はい。国産のさつまつげを使って作られているそうです」
「えっ、じゃあすごい高いんじゃ……って、値段の話をするのは下世話だよねぇ」
「すごい高い、って程ではありませんよ。高いのもありましたけど、これは1番小さいやつですし」
「ボクの手の大きさにぴったりだよぉ。あ、保護用のケースもあるんだね」
「色とか、それで大丈夫です……?」
「莎楼が選んでくれたものに、ボクが不満を言うわけないじゃん」
そう言って、青地に桜の花弁が舞っている布のケースを手に持って笑顔を見せる先輩。可愛い。
先輩は早速、乾いたばかりの髪を梳かし始めた。
「髪通りが全然違うねぇ。これは……これはすごい」
「先輩って、寝起きは髪の毛がうねっているじゃないですか。だから、良いかなって」
「はぁ好き。修学旅行先でボクのことを考えてくれる莎楼、大好き」
「喜んでもらえて、本当に良かったです」
ケースに櫛をしまった先輩が、突然抱きついてきた。ふわりと香るシャンプーの香り、いつも通りの暴力的な柔らかさ。
「せ、先輩?」
「なでなでして」
「は、はい」
「どう? サラサラ?」
「うん。凄くサラサラで気持ちいいよ」
普段からサラサラだけど、確かにより心地良さが増している気がする。
「ふわぁ……」
「もう寝ます?」
撫でられて気持ちよくなったのか、気が抜けたのかはわからないけれど、先輩は大きく欠伸をした。
まだ寝るには早い気もする午後10時。
しかし、先輩の返事が無いのが眠さを物語っている。
「先輩。まだ歯も磨いてないですし、コンタクトも外してませんよ」
「うん……。ちゃんとする」
意識を取り戻した先輩と手を繋ぎ、洗面所へ向かう。
お泊まりの時用の歯ブラシに、私の歯磨き粉を付ける先輩。それを見ながら、急いで歯を磨く。
どうして先輩は、いつもすぐに眠たくなってしまうのだろうか。それだけ、安心して気が緩んでいるという証拠なら嬉しいけど。
うがいと、先輩はコンタクトの取り外しも済ませて、また手を繋いで部屋に戻る。2階にも洗面所があれば楽なのに、とたまに思う。
「それでは、寝ましょうか」
「……莎楼、今日は別々に寝よっか」
「えっ。一緒のベッドで寝ましょうよ」
「今までは我慢できてたけど、今日は無理かもだから。ボクは床で寝るね」
さっきまであんなに眠そうだったのに、急にスイッチが入ったみたいに真面目な顔をする先輩。
今までと今日では何が違うのか。
訊くまでもなく、それは私自身が一番よくわかっている。でも、そんなことを言われたら寂しいよ。
「がっ、我慢できなくても良いから。一緒に寝ようよ」
「後悔しない?」
「しない。朝起きた時に、隣で寝ててほしいから」
先輩の手を握って、ベッドに誘導する。
きっと先輩は、私の好意が自分と同じだと確信していなかったから我慢してきたのだろう。でも、今は違う。両想いが確定した時点で、2人でお風呂に入るのも一緒に寝るのも、意味合いが変わってしまった。
布団に潜り込み、先輩と見つめ合う。どうしよう、心臓の鼓動が先輩にまで届いてしまいそう。2人分の熱が、ゆっくりと布団の中に広がり始める。
「莎楼ぅ」
「なんですか?」
甘えた声と上目遣い。布団の中で、先輩の手が私の手を握ってきた。そして脛の辺りを、右足で軽くつつかれている。全ての武器を同時に使われた感覚に、手も足も出ない。
「莎楼はさ、ボクのどこを好きになったの?」
てっきりキスやそれ以上のことをすると思ったのに、意外な質問が飛んできた。
「えっとですね。いや……まぁ全部好きなんですけど、きっかけはやっぱり『好き』って言ってくれたから、かな」
「ふーん。こんなボクを好きになってくれるなんて、本当に思ってもいなかったからさぁ」
「……こんな、とか言わないでください。私が選んだものには、不満を言わないんでしょ」
「う……。そう言ったけどさぁ」
「じゃあ、今から先輩の好きなところを挙げていくから。寝ないで聞いててよ?」
「お手柔らかに……?」
理由とかきっかけとか、言語化するのはそんなに難しいことじゃない。先輩が喜びそうな言葉もすぐに思いつく。
でも、今必要なのはそういう言葉じゃなくて。
先輩の心にふれるような、そんな言葉が大事なんだと思う。
いつから私が恋をしたのか、たっぷりと聞かせてあげよう。
だってまだまだ、夜は長いのだから。
新機能、いいねが実装されたそうですよ。




