81日目:(M)OTHER(前編)
目を覚まして体を起こし、スマホを確認する。
表示される日付と時間を見て、八月も今日で終わりを迎えることを思い出した。
長いようで短いようで、とにかく充実感があった八月も終わりかと思うと、少し寂しい。
まぁ、明日からもしばらくは夏の暑さが続くだろうけど。
「先輩……はまだ寝てるか」
初めて先輩の部屋で一晩を過ごして、そして朝を迎えたわけだけど、どうも朝日が射し込まないことに気が付いた。
勿論、カーテンが閉め切られているというのもあると思うけど、部屋の位置的な問題なんだろうな。
だから先輩は目覚めが悪いんじゃないか。
と思ったけど、何処で寝ても先輩はこんな感じだから関係無いね。
「ん……朝……?」
「朝です。八時半ですよ」
「休みなんだし……もちょっと寝てたい……」
「もちょっと……?」
新しい擬音だろうか。それとも、もうちょっとの親戚だろうか。
布団の中でもちょもちょ動く先輩を眺めていると、先輩のスマホが鳴り出した。
「んぅ……だれぇ……?」
やや不機嫌そうにスマホを手に取り、通話に出る先輩。
「はい……え、いやボク休みだし。午前中だけ……いやいや、ボクにも予定があるじゃん」
怒った先輩を見たことがない、そんな以前にも昨日にも話した話題の伏線が回収されそうだ。
「……わかったよぉ、午前中だけだからね。お昼になったら帰るからね。うん、はい。はーい」
「どなたからですか?」
「バイト先の店長。今日の午前中に入る予定だった人がみーんな来れなくなったから、ヘルプに来てほしいってさぁ」
「それは大変ですね」
「ごめんねぇ、君が遊びに来てくれてるのに」
「気にしないでください。ほら、支度しちゃいましょう。私、軽く何か作りますから」
「ありがとぉ」
先輩は布団から出て、軽く伸びをしてから部屋を出た。その後を追うように、私も部屋を後にする。
先輩が身支度をしている間に、キッチンに入る。未開封の食パンが目についたから、サンドイッチでも作ろう。
冷蔵庫を開けて中を確認すると、ハムやチーズ、マヨネーズにジャムまで揃っていた。完璧。
全て賞味期限も消費期限も過ぎていないけど、やっぱりこれは先輩の母親が管理しているのかな。
食パンを二枚出して、皿に乗せる。
バターを塗って、ハムとチーズ、マヨネーズを挟む。あとはジャムのやつも作っておこう。
「何作ってるのぉ」
「あ、先輩。支度は終わりました?」
「うん。あ、サンドイッチだぁ」
「良かったら、食べてください」
「食べる食べるぅ」
「電車の時間は大丈夫ですか」
「えっ、もうこんな時間かぁ」
「電車で食べてください。ランチボックスに入れておくので」
先輩の家なんだけど、何処に何があるのかなんとなく把握してきた。すぐ食べるだろうし、ラップで包まなくても良いかな。
「ありがとぉ!」
「玄関まで持っていきますよ」
寝起きとは違う、真っ直ぐに整えられた髪を揺らして、玄関に向かう先輩。その後ろを着いて歩く。
「お昼には、詫びバーガーをたっくさん持って帰ってくるからね!」
「ふふっ。詫び石ならぬ、詫びバーガーですか。期待してます」
「冷蔵庫の中のものは何を食べてもいいし、ボクがいなくても部屋に入っていいからね」
「わかりました」
「それじゃあ、いってきます!」
「いってらっしゃい」
バタン、とドアが閉じたのを見届けて、鍵をかけてからリビングに戻る。
先輩が帰ってくるまで、何をしてようかな。この広い家の中を、探検してみるのも悪くは無い。けど、流石にそれは気が引ける。
「まずは昨日の皿を洗おう」
キッチンに行こうとした私を、玄関のドアの解錠音が引き止めた。続いて、ドアを開ける音が聞こえた。
「……先輩? 忘れ物ですか?」
玄関を覗くと、そこには知らない女性が立っていた。
先輩に顔は似ているけれど、どこか生気の無い瞳。
肩にかかるくらいの長さの茶髪。そして先輩に遺伝したのであろうサイズの胸。
恐らく、先輩の母親だろう。
両手には、何かが入ったビニール袋を持っている。
「……誰?」
「あっ、えっと、華咲音さんの後輩の茶戸と申します」
「ふぅん。あの子はいるの」
「いえ、今は居ませんが」
「そう」
私にも先輩にも全く興味は無いらしく、スタスタと冷蔵庫に向かって歩き出した。
そして、ビニール袋の中身を入れていく。やっぱり、食材の管理は先輩の母親がしていたんだ。
ビニール袋が空になったタイミングで、突然話しかけられた。他人に深入りしない私だからこそわかる、話しかけないでオーラ全開だったのに。
「……サド、ってどういう字」
「お茶の茶に、戸棚の戸ですけど」
「少しだけお話しようよ、茶戸さん」
「は、はい……?」
「座って」
リビングのソファに座り、向かい合う。
とても若い印象を受ける。先輩が天真爛漫な美人なら、この方は薄幸の美人と言った感じだろうか。
「あの子から、どこまで聞いてるの」
「……ご両親の話は、ある程度は聞いてます」
おばあちゃんにも少し聞いたけど、そこは伏せておこう。
「期待しないで欲しいんだけど、愛し方がわからないだけで本当は大事に思っているとか。そういうのは無いから」
「……」
「私みたいにならないでほしい、とだけ思って色々させてはきたけど」
「……なりませんよ。先輩は貴女とは違います」
「勿論。だってあの子は人を愛せるから」
「貴女は誰も愛せないんですか」
「娘も、夫も、自分も。この世界の何もかもを愛せない。嫌なの、全部が」
嫌、という言葉に過剰反応する先輩を思い出した。
そうか、そういうことだったのか。
深く踏み込むつもりも、それこそ怒ったりするつもりなんて毛頭も無かったのに、今の自分は少し冷静さを欠いているという事実。落ち着こう。
「あの子は同性愛者だけど、茶戸さんがその相手なの?」
「……先輩が女の子を好きなのは知っていますが、もしそれを私が知らなかったらどうするんですか」
「?」
「もしそれで、私と先輩が険悪になったらどうするんですかって言ってるんです」
「別にどうも。あの子が幸せになろうと不幸になろうと、特に思うところは無いし」
「くっ……」
歯ぎしりにも似た、声にならない声が漏れた。
自分が他人に対して、ここまで嫌悪感を持つ人間だとは思ってもいなかった。これ以上、会話なんてしたくない。
話せば分かり合えるとか、改心する敵役とか、悲しい過去があってこうなったとか、そういう種類のものじゃない。
そうだよ、期待してたんだよ。
もしかしたら、本当にもしかしたら先輩のことを、少しは愛しているんじゃないかって。
「あの子のために、そんなに怒ったり悲しんだりできるんだね」
「当たり前じゃないですか」
「男の子を望んでいたあの人にも、子どもを産むつもりなんて無かった私にも、誰からも愛されないと思いながら産んだんだけど」
「私がっ! ……私だけじゃありません、華咲音さんは友だちにもセンパイにも恵まれて、沢山の人に愛されています」
「そう。じゃあ、やっぱり私みたいにはならないね」
淡々と、感情を込めるでもなく呟いて、彼女はソファから立ち上がった。
そして、何やら鍵のようなものと名刺を机の上に置いた。
「あげる」
「いっ、要りません」
「そう。でも、ここに置いたままにしておくのは良くないと思うな」
「……そうですね」
用途不明の鍵と名刺を取って、取り敢えずポケットに突っ込んだ。
「それじゃあ、もう二度と会うことが無いように祈っておいて」
それだけ言い残して、一度も振り返ることなく、彼女は家を出ていった。
ドアの閉まる音が聞こえた瞬間、私はソファに倒れ込んでしまった。体に力が入らない。
まるで雨の日みたいに、途方もない虚無感に襲われる。
「先輩、早く帰ってきてよ……」
時計を見ると、まだ先輩が出ていってから三十分も経ってなかった。
詫びバーガー、たくさん食べてやる。
 




