59日目:ダブル・デート(前編)
尾途から少し離れよう。
朝。いつもの目覚まし時計の音が恋しくなりつつ、布団から出てゆっくり起き上がる。
今日は蝉時雨が聞こえない。
まさか寿命を迎えたのか、と訝しんで廊下に出ると、蝉時雨ではなく普通の雨が降っていた。
けれど、そんなに嫌な感じがしない。ジメジメとした、湿度の重たさを感じないからだろう。
「くぐる……何時……?」
「朝の8時半です。因みに、外は生憎の雨ですよ」
「そっかぁ……」
んー、と声を出して、先輩は猫のように体を伸ばした。
まだ完全に開いていない目を擦りながら、ゆっくり私に近づいてくる。
とん、と軽く私に体重をかけ、小さく欠伸をする。
「おはよぉ……」
「おはようございます。目が覚めましたか」
「うん……。コンタクトつけてくるね……ふぁー……ふぅ」
今度は随分と大きな欠伸をして、先輩は先に階段を下りていった。それに続くように、私も階段を下りる。
朝も昼も日光がよく入るこの家は、雨のせいで随分と暗く感じる。それもそんなに嫌ではないけれど。
「おはよう、2人とも」
「おはよぉ」
「おはようございます」
「そうだ、おばあちゃん。明日帰ることにしたからぁ」
「あら、もう少しゆっくりしていけば良いのにぃ」
「親戚に会いたくないしさぁ」
そう言って、先輩は洗面所へ向かう。帰るのも初耳だけど、親戚に会いたくないのも初耳だ。
考えてもみなかったけど、先輩にも親戚がいるのは当然だ。会いたくないのは、親絡みだろうか。私は少し興味があるけど、先輩が嫌なら会わない方が良いだろう。
夏休みを利用しておばあちゃんの家に来るのは、先輩だけではないということだろうか。
コンタクトをつけて戻ってきた先輩と一緒に椅子に座り、昨日のカレーの残りをいただく。
2日目のカレーって、どうしてこうも格段に美味しいのだろう。
「先輩、今日はどこに行くんですか?」
「雨なのに平気なのぉ?」
「今日の雨は平気です」
「それじゃあ、3駅戻ろうかな。そこで適当にデートしよ」
「わかりました」
「デートって、やっぱり付き合ってるんじゃないのぉ?」
「つ、付き合ってません。言葉のあやみたいなものです」
「えー、デートでいいじゃん」
余談だが、デートの意味を辞書で引くと、親しい男女が約束をして遊びに行くことと書いてあるので、私たちは当てはまらない。
もう今のご時世だと、デートといえば男女がするもの、というのは古い気がする。最近の辞書だと、意味が変わっていたりするのだろうか。
「ごちそうさまでした。先に歯磨きと洗顔を済ませてきますね」
「はぁい。ボクはおかわり食べてから行くねぇ」
朝からカレーライスを2杯食べるとは、流石は先輩。デート前にそんなに食べるのもシンプルに凄い。
デートでは何を食べるのかな。というか、すぐに何を食べるかを考えてしまう私も食いしん坊なのかな。
先輩の影響、ということにしておこう。私も食べることは好きだし。
洗面所に入り、持ってきた自分の洗顔フォームの泡を育てて、顔を包み込む。
流水で綺麗に泡を洗い流し、タオルで顔を拭く。顔を上げると、鏡の中に自分の顔と、微笑む先輩の顔が映っていた。いつの間に。
「心臓に悪いんですけど」
「あはぁ。ごめんごめん」
「歯を磨いて着替えたら、行きましょうか」
「そうだねぇ。君が顔を洗ってる間に、雨も弱まってきたし」
「それはありがたいです」
「傘が荷物になるの、イヤだもんねぇ」
一瞬だけ自虐ネタに聞こえてしまった。日用品とニックネームが同じなの、今更だけど稀に不便だ。
そんな自分にはニックネームの一つも無いけど。……いや、先日クグ姉というあだ名ができたんだった。
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『次は眩仏です。眩仏では、全てのドアが開きます』
「ここで降りるよぉ」
「あ、ここは有名ですよね」
眩仏市。
尾途市の駅から3駅戻ったところにある街で、加木動物園と人気を二分する、眩仏動物園がある。
距離が距離だから、一度も行ったことはないけど。
電車が駅に到着したので、2人で一緒に降りる。
もうすっかり雨は止んでいた。雨上がりの匂いが鼻腔をくすぐる。雨は苦手だけど、この匂いは結構好き。
「あれ、カサちゃんと茶戸ちゃん」
「えっ、カサっちと後輩ちゃん?」
「アラとニケだぁ。奇遇だねぇ」
駅を出て僅か数分で、ニケさんとアラさんに出会った。恐らく、2人もデートの途中なのだろう。
ニケさんは白と黒のボーダーのトップスにグレーのパーカーを羽織り、ジーンズを履いている。アラさんはまさかの制服。
「こんにちは、アラさんとニケさん」
「こんにちは、です。2人はデートなの、ですか?」
「そんな感じぃ。そういう2人は?」
「デートみたいなものだよ、ですよ。ね、ニケ?」
「えっ、あっ、うん」
いつも快活でハツラツとしているニケさんも、アラさんの前ではたじたじだ。
先輩には付き合っていることを伏せているみたいだし、ニケさんが困惑する気持ちもわかる。
「目的地は動物園?」
「そうだよ、ですよ。カサちゃんもなの、ですか?」
「うん。折角だしさぁ、一緒に行かない?」
「ふふ。ダブルデートだね、ですね」
私とニケさんを置いて、とんとん拍子に話が進んでいる。その様子を見ながら、コソコソとニケさんが耳打ちをしてきた。
「あのさ、カサっちにはその……」
「……わかってます。ですが、隠した状態でダブルデートって難易度が高くないですか」
「なんとかするよ。ていうかダブルデートってどうやるんだよ」
「恐らく、この場にそれを知る人は居ませんよ」
「マジかよ……」
というか、ダブルデートってなんの意味があるのだろう。今みたいに、相手のパートナーと話したりすれば良いのだろうか。だって先輩とだけ話したりしていたら、普通のデートと変わらないもんね。
幸い、ニケさんともアラさんとも話したことがあるし、お2人は先輩の親友でもあるわけだし、むしろチャンスと思って色々とお話してみよう。成長した私にならできるはず。
2人は話に決着が着いたようで、先輩は私の、アラさんはニケさんの横にそれぞれ戻ってきた。
先輩は私と親友と遊ぶ。私は先輩とデートを楽しみつつ、先輩の親友と親交を深める。ニケさんは付き合っていることがバレないように、そしてアラさんは何を考えているかわからない顔をしている。
四者四様の、それぞれの考えと思惑を胸に秘めて、予想外のダブルデートが始まった。
次回、誰にも正解のわからないダブルデートが繰り広げられる。




