1日目(朝):スローライフのはじまり
悪役令嬢フウカ視点。
さあ、『なにもしない』をはじめよう。
遠くで声が聞こえる。
起床時間――
「フウカちゃん、おっっはようございまっす!!!」
――を知らせる、馬鹿でかい声。
「うー……ん」
「うわあ、今日も可愛いね! フウカちゃんと朝を迎えられるなんて、私はなんて幸せなんだろうっ」
馬鹿でかい声は、少々聞く人に誤解を与えそうなことをウットリと述べている。
ああ、そうだ。この固いベッド。
ここはいつもの屋敷ではない。
「…………ミヤコ?」
目の前でにこにこと微笑む紅茶色の髪。
フウカは寝ぼけ眼をこすりつつ、周囲をうかがう。
あぁ。
そうだ、思い出した。
「わたくし、本当に屋敷を抜け出してしまいましたのね」
「そうだよ。長旅、ご苦労様。フウカちゃん」
「しかも、アティーカ地方なんかに……」
ぬくぬくと温かいベッドのうえ。
フウカは盛大に溜息をついた。
***
約一昼夜の馬車の旅。
昨晩遅くにやっとたどり着いたのは、王都の北にあるアティーカ地方のひなびた一軒家だった。
ミヤコの実家の所有するものなのだという。
暖炉のあるダイニング。
つつましいキッチン。
食料貯蔵庫。
そして、寝室はひとつだけ。
生まれてこのかた豪邸暮らしのフウカは卒倒しそうになった。
寝室がひとつでは、いったいどうやってミヤコが寝たらいいのだろう。
いまだ夜は冷え込むのに、野宿させるのはさすがに気が引けた。
『えっ、フウカちゃんナチュラルに私を追い出そうとしてない!? さすがにショックなんですけど』
寝室はひとつだけれど、左右それぞれの壁際にくっつくようにベッドが二つ置かれていた。
くたくたの身体からドレスをはぎ取って倒れ込んだ。
清潔に整えられていたベッドは、屋敷の羽毛布団よりもうんと固いけれどもカビの匂いひとつしなかった。
いつ眠りについたかも覚えていない。
とにかく身体は疲れていて、心は張り詰めていた。
その緊張の糸が切れた途端、フウカはすややかに眠りについたのだ。
***
「本当に、アティーカ地方なんていう遠いところにやってきてしまったのですわね」
「うん。すごくいいところなんだよ!」
「いったいここで何をしようというんですの?」
「ふぇ?」
馬車の窓。
夜闇のなかに見えた風景は見渡すかぎりの田畑や山、森、それに川。
こんなところに連れてきた、ミヤコの意図はなんなのだ。
なにか有益なことができるとは思えないけれど。
「なんもしない、だよ」
「……なんですって?」
「だから。ここには、フウカちゃんと『なんにもしない』をしにきたんだよ」
なにもしない、を……する?
「どういうことですの?」
今度はフウカが首を傾げる番だった。
「だから、そのままの意味です。黄色いハチミツ大好きベアーさんの受け売りだけどねっ!」
「?」
「ごめん、こっちの話。それよりフウカちゃん、昼ご飯食べようよ」
ご飯、という言葉にフウカは自分が空腹なのを思い出す。
ふと気付いた漂ってくる温かな匂いに、ひくひくと鼻をうごかすと『ぐゅぅ~』とお腹が鳴ってしまいフウカは頬を赤らめる。
「ん、昼? 朝食の間違いではなくて?」
「うん? もうお昼だよ」
「……なんですって!?」
がばり、と慌てて起き上がり、窓の外を見る。
庭の向こうに田畑ばかりが広がる光景。
空には太陽が、真上に。
ぽかぽか陽気の、お昼の風景だった。
「なっ、なななななぁっ!?」
フウカは大いに動揺する。
「こ、このわたくしがこんな朝寝坊をするなんてっ!? どうしましょうっ、早朝の読書は!? 美容体操はっ!? 朝の8時にはお父様に挨拶をして、9時からは商学の勉強をする予定ですのにっ!!」
「ふふ、ふふふ……」
「笑いごとじゃありませんわっ!?」
どうしよう。
朝5時に起床して、夜の12時に就寝するまでみっちりとスケジュールを組んでいるのに。
それが、日課なのに。
毎日の努力がなかったら、自分なんて……。
「フウカちゃん、すごく顔色がいいよ」
「は?」
「ほら、鏡」
手渡された鏡をのぞき込んで、フウカは「あっ」と声をあげた。
そこには、いつもは化粧で隠している目の下のクマが見当たらなかった。
つるりとした顔。頬は紅色。普段悩んでいる肩こりも軽減している気がする。
普段の慢性的な寝不足が多少解消されたことで、体調が良くなったということだろうか。
「ね? 頑張っているフウカちゃんはすごく素敵だけど、今朝のフウカちゃんも私は好きだな」
「……休養も努力のうち、ということかしら」
たしかに、こうしてたっぷりと睡眠をとったのはいつぶりだろうか。
思い出せないくらいに、遠い昔のことのような気がする。
「ここでは、朝起きて、お料理したりお散歩したり、色々なことをしてノンビリ過ごすの。たまには空を見てぼんやりしてもいいし、川遊びもいいかも。ピクニックも!」
「ピクニック……」
ミヤコの言うそれは社交界遠征バージョンともいうべき思惑渦巻く貴族の家同士の見栄の張り合い、とは違うもののようだ。
それはすこし……楽しそうかもしれない。
「それが、『なんにもしない』だよ!」
満面の笑みで言うミヤコに、フウカはすっかり毒気を抜かれてしまった。
「朝ごはん食べましょうっ! 自信作なんだよ~」
「えっ、あなたが作ったのですの? 使用人ではなくてっ!?」
「ああ。ここには使用人はいません。御者さんも王都に帰ってもらったし。ふたりで、色々なことをして暮らしましょうっ」
「……」
「あっ、もしかしてフウカちゃん家事とかできない?」
「あ、あなたにできてわたくしにできないことなどっ、ありませんわっ!」
フウカがムキになって叫ぶと、ミヤコがコロコロと笑う。
「……フウカちゃん、一緒に幸せに過ごそうね?」
「っ、こんな怠惰でみすぼらしい生活にわたくしが幸せなんて感じる理由がありませんわ」
「えへへ。期限は2週間……14日もあるもんね。私、頑張るね」
「ふんっ、一度した約束ですわ。ハミルトン家の名誉にかけて、約束は守ります」
2週間で、フウカが『幸せだ』と言えばミヤコの勝ち。
そうでなければフウカの勝ち。
そんな奇妙なスローライフ、初日の朝である。
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