プロローグ ~悪役令嬢:フウカ~
フウカ・ハミルトンは朝の紅茶を飲んでいた。
……紅茶。
カップに満たされたその色は、自分から全てを奪った紅茶色の髪の女を思い出させる。
三年前まで、すべてが順調だったはずだ。
恵まれた家庭環境。
家同士の利益のための結婚とはいえ、年齢も近く容姿も整った婚約者。
――自分で言うのはなんだけれど、順風満帆な人生だったと思う。それに見合うだけの努力だってしてきた。
全てが変わってしまったのは、彼女が――ミヤコ・フローレンスがやってきてからだ。
ミヤコは内側から輝くような、健康的な美貌をしていた。
歯に衣着せぬ物言いや、聡明さ。
誰よりもフウカ自身がわかっていた。
ミヤコ・フローレンスは魅力的だ。
『フウカ。俺はミヤコを花嫁にしたい。婚約を破棄してくれ』
元婚約者クラウス・ラインハルトにそう告げられたときも、フウカが思ったことはただひとつ。
――『あぁ、やっぱり』。
それまでも、手をこまねいていただけではない。
フウカの実家であるハミルトン伯爵家としては、格上の侯爵家との婚約関係は絶対に失いたくないものだった。
ミヤコに心を奪われていくラインハルトを振り向かせるため、あの手この手を尽くしてきた。
実家の期待に応えるために、多少黒い手も使わざるをえなかった。
それでも。
身勝手な婚約破棄を言い渡されたときに、悔しさや惨めさよりも――納得、をしてしまった。
どうしてだか、自分でもそうなることをずっと前から知っていたような気がした。
そう。まるで、定められた運命かなにかのように。
「いけませんわね、考え事なんて」
ふう、と溜息。
ソーサーにカップを置く。
「さあ、やるべきことは沢山ありますわっ! ……もう一度、お父様に振り向いてもらわなくては」
侯爵家との婚約を破棄されたフウカに、ハミルトン家当主である父はひどく失望した。
そしてフウカを完全に見限ったかのように、今は妹たちの婚約者捜しに夢中である。
まるで、ここにいないかのように扱われているフウカは、それでも努力を重ねた。
経済学。
商学。
諸国の語学。
白魔術。
これから生きていくために必要なことを、貪欲に学んだ。
今のところ父は振り向いてくれない。
それでも、婚約破棄された『疵物』の娘に変わらぬ生活をさせてくれているのだ。
依然として、恵まれた環境であることに変わりはない。
「さて。今日は隣国の名著を、原語で読んでみようかしらっ」
だから。
だから、こんなことを。
「…………どこかへ」
そう、どこかへ。
「逃げ出したい、ですわ」
逃げ出したいなんて。
自分を、どこか遠くへ連れ出してくれる白馬の王子様が現われたら――なんて。
思っては、いけないはずなのに。
「フウカ様っ!」
「っ!? え、は、誰っ!? 何事ですのっ!?」
そのとき、部屋の扉が勢いよく開く。
窓から風が吹き込んできて、フウカの艶やかな黒髪とスカートを揺らす。
「どうか、私と一緒に来てください!」
そこに立っていたのは――ミヤコ・フローレンスだった。
自分から、全てを奪った女。
フウカは、あっけにとられる。
一緒に来て?
何を言っているんだ?
遠くで、使用人たちが突然の(めちゃくちゃ不作法な)来客に慌てふためいている声がする。
ここは自分が誇り高きハミルトン家の令嬢として、常識知らずの来訪をビシッと注意しなくては。
目の前で瞳を輝かせている女は、憎き恋敵のはずだ。
だから、差し伸べられる手を。
この手をとるなんて、ありえないはずなのに。
朝の風に揺れる紅茶色の髪の女は、まるで白馬の王子様のようにひざまずいてフウカの手を取る。
スカートが床についてしまうのも構わず自分の前にひざまづく、かつてのライバルは上目遣いにフウカを見つめる。
「フウカ様……ずっと、お慕い申し上げておりました」
あぁ。
誇り高き伯爵令嬢の自分が。
その手を取ることなんて――ありえなかった、はずなのに。
初日なので2回投稿です。
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