第三話 備えて、洗礼式
「かあさまー」
僕は何かと動きにくい小さな足で家の中を走る。
自分の足で移動ができるようになってしばらく経つが、どうにも自由自在とはいいにくい未熟な体ではこうやって走ることも一苦労だ。
前世の感覚との落差も相まって転んでしまうこともしばしば。
でも、今は自分一人であちこち行けるという事実が今は嬉しい。
物心がついて2年近くが経とうとしている。つまり僕はもうすぐ5歳ということになる。
僕、ミュー君ことミューハルト・ループも歩けるようになって、まだ舌足らずではあるが話せるようにもなってきた。
ちなみにフルネームは話せるようになってきた頃に、自己紹介の練習がてら教えてもらったわけだが、存外立派な名前がついていてなんだかむず痒い。
父はレミアヒム・ループで母はアンナ・ループという名前なのだが基本的には「とおさま」「かあさま」と呼ぶように言われているため、当分呼ぶ必要はなさそうだ。
ちなみに母がそう呼ぶように言ったので倣っているが、「パパ」と呼んで欲しかったらしい父の寂しそうな顔をしていた。
僕としてはとおさまかあさまと言うのも少し恥ずかしいのだが、そのうち慣れるだろう。
3歳になっても歩けず話せないという成長具合が気がかりだったが、ハイハイできるようになってから歩けるようになるまではあっという間だった。
これは凄いことじゃないかと内心盛り上がっていたのだが、母のホッとした様子を見るに結構遅かったいぽくて申し訳なかったものだ。
まあ、その時は、父が歯が浮きそうなポエムと共にべた褒めしてくれたので、あれ以上の賞賛はいらないけれども。
何はともあれ歩けるようになったので、行動範囲もぐんと広がると思ったのだが――
「はいはい、ミュー君」
そう言いながらひょっこり出てきた母は、僕を抱きかかると寝室へと移動していくのだった。
歩けるようになったのはいいのだが、驚くことに僕はこの年になるまで一度も家の外に出ていない。
ファンタジーな異世界でレジャーやショッピングや幼稚園に行けるとは思っていなかったが、お庭にすら出ないとは思ってもみなかった。
ドアノブの位置が高くて、まだまだ小さい僕には扉を開けるのも一苦労だし、母は専業主婦のようで、おおむね家にいるため迂闊に脱走すらできない。
ご飯を食べて母と遊んで寝ているだけで一日が終わるという前世で憧れた日々(成人の場合はニート生活とも言う)を満喫しているため、大したことはしてこなかったが、いい加減行動を起こすべきではないだろうか。
アイドルプロデューサーに憧れていたのではないのかって?
いつまでも終わりの見えない金策という名のバイトに明け暮れていたら、そんな日々に憧れる時だってあるさ。基本はブレてないよ。多分。
ちなみに父は朝早くに家を出て、朝食・昼食の度に帰ってくるが、夕方前に帰ってくるという生活パターンとなっている。更に7日のうち1日は昼から休みで、その翌日は1日中お休みというリズムがあるので、多分曜日のようなものもあるのだろう。
そういえば父が何の仕事をしているかも知らないことに気づく。
思った以上に何も考えず生きている自分にびっくりだ。
うーん。精神年齢は単純計算でアラサーくらいにはなるはずだけど、見た目通りに退行している気がする。
「ねえ、かあさま」
「なあに?」
「お外に行きたい」
「だーめ。ホビット族は5歳になるまでは巣のなかで暮らす習慣があるのよ。ホビット族は体が小さくて成長が遅いからお外は危ないの。今はそこまで外が危ないわけじゃないけど……まあ、おまじないみたいなものね」
ふむふむ。たしかにホビットは自分や母を見る限り小さくて体もそれほど頑丈そうではないし、外敵が多かったころは巣に籠って子育てをする慣習があったのが今も続いているということだろう。
産まれて5年も巣に籠る生き物なんて地球基準だと寡聞にして聞いたことがないが、こっちの外敵がオークやゴブリンやドラゴンとかいるかもしれないと思うと、乳飲み子なんて抱いて歩けないのも納得できる。
僕はアイドルプロデューサーになりたいのであって、騎士とか勇者とかに今のところなる予定もないのでそういったモンスターには一生会わなくてもいいくらいだ。
でも魔法があるなら魔法使いにはなってみたいかも。
火の玉を打ち出す自分の姿を想像してワクワクしているところで、母が言葉を続ける。
「でもミュー君はもうすぐ5歳の年になるから、その時はお外に出るわね」
「いちがみさまのひ、だよね?」
「そうよ。一神様の日になったらお外に出られるのよ。よく覚えていたわね。偉い偉い」
僕は頭を撫でる母親に僕は子供らしくエヘヘと笑いかける。見た目中学生ぐらいの女子に褒められて、相好を崩す自分の姿は、客観的に考えるとかなりドン引きな気がするが、それを違和感なく行けいれている自分は、やっぱり退行している気がする。
でも、褒められるっていうのはなんであれ嬉しいよね。前世では、就職した後は怒鳴られてばっかりだったし、この優しさが心にしみる。
一神様の日というのは日本でいうところのお正月にあたる日みたいなものだ。
母が寝物語で語ってくれたのだが、この世界は多神教で、他の神様やこの世界を創った最初の存在が一神様というそうなのだ。
神話では、その一神様が何もない暗闇にこの世界や他の神様を作ったとされる日を「一神様の日」と呼んで、祝う習慣があるのである。
去年の一神様の日は、朝に家族でちょっと豪華な食事を食べた後は母親と一日家で過ごしていたので特別感はあんまりなかった。
しかし、父は朝食の後は外に出て、夜に酔っぱらって帰ってきたのできっと外では楽しい催しがあっていたのだろうと思っている。
ちなみにその時の父は僕の顔を見ながら「すっかり酔っぱらってしまった。目の前に天使が見えるなんて……ってミューじゃないか!」とか小芝居をしていたが、割と普段からそんな感じなのでどのくらい酔っていたかはわからない。
なお、この世界では誕生日という概念がなく、誰もが一神様の日に数えで年をとる方式となっているので全員の誕生日替わりでもあり、今度の一神様の日で僕は晴れて5歳となるのだ。
「一神様の日にお披露目と洗礼の儀式があるんだけど……お外怖くない?」
「ううん。だいじょうぶ!」
お披露目と洗礼が具体的に何をするのかわからないけど、初めて外に出る日が近づいてきて楽しみだ。
その夜。
いつも通り、家族3人での食卓での席のことだった。
その日の夕食は、変わり映えもせずパンと野菜のスープと果物。
この家の食卓は、基本的に肉はあまり出てこない。
飽食の時代を生きていた元日本人にはいまいち物足りない気もするが、体質的には合っているのか、体調もすこぶる良好だ。
でもそのうち前世の料理を作ってみるのもありかもしれない。現代日本の料理の数々を披露していくうちに世界一のシェフ扱いされたりして。いや、僕にはアイドルプロデューサーとしての夢が――。
そんなことを考えながらキャベツっぽい葉っぱをモシャモシャと食べていると、父がうれしそうに母に話しかけた。
「ミューの洗礼の装飾が出来上がったってライルが言ってたぞ」
「あら、ずいぶんと早かったわね。あと2,3日かかるって言ってなかった?」
「一神様の日の前日は細々とした仕事が立て込むから急いで仕上げたらしい」
「そうなの。それじゃあ衣装も出来上がっているし準備は万全ね」
洗礼式という単語に顔を上げる。
僕が対象となるイベントなのだろうが、具体的に何をするか聞いていないので、ここらで一回確認しておこう。
5歳児に難しいことをさせることもないだろうが、やらないといけないことがあると思うと、身を焦がすような不安が湧き上がってくるのだ。
これは明らかに前世の感覚を引きずっているからだろうが。
「とうさま。せんれいしきってなにするの? あと、かあさまからおひろめしきもあるってきいたよ?」
「お? ミューは物知りだなー」
そう言いながら、うりうりとほっぺをつついてくる父。そういうのはいいから早く教えて欲しい。
褒められると何であれ嬉しいと言ったが、父に対してだけはめんどくさいと思ってしまうのはなんでだろう。反抗期だろうか。
「洗礼式っていうのは、神様によろしくお願いしますって言う儀式だよ。天空教の教会に行って祝福を受けるんだ。そのついでに村の台帳に住民として登録……えーっと、簡単に言うと、ちゃんと村の一員になるっていうことだ。それで、そのあとに村の皆にこんにちはって挨拶するのがお披露目式だよ。わかったかな?」
簡単に言われなくてもわかるよと言いたくなったが、ここは素直にうんとうなずいておくことにする。
日本なら生まれてすぐ行う戸籍の登録みたいな感じだろうか。それが5歳になるときに行われるということは不思議な感じもするが。
それよりも洗礼式という名前である程度予想はしていたが宗教色の強い儀式であることが気になる。
前世では、大多数の日本人に漏れず、正月は神社、葬式は仏教、クリスマスも違和感なく受け入れるという雑な宗教観の持ち主だったせいで宗教とか聞くと少し身構えてしまう。
天空教って天空神様を信仰する宗教で、うちも教徒だと聞いていたが、割礼とか痛い系の儀式するようなやつじゃないよね?
そんな不安が顔に出たのか父は僕の頭をなでる。
「大丈夫だよ。この村の神父さんはすばらしい人だからな。とても優しいからなんの心配もない」
「そうね。優しくておまけにかっこいいわ」
「そうだな。 ちなみにその教会のシスターさんもかわいくて素晴らしい人だよ」
「そうだったかしら?」
クスクス笑いながら母も言う。
なんか引っかかる言い方ではあるが、少なくとも僕が泣くようなことはしないだろうと自分に言い聞かせることにしておく。
なにはともあれ一神様の日まであと数日。
こちらでも正月にあたる日は冬のような気候らしく、窓の外で降る雪を見ながら、指折りその日を待つのだった。