薬を欲する人
時に激しく唸るほどの痛みを求めて春の夜に発つ。拠点を出れば行き場はないと思うくせして、頭の中には向かいの湖が明瞭に浮かぶ。あそこではよく魚が跳ねる。その度白い腹をこちらへきらりと光らせる。それは恐ろしく感じるほどの鋭い輝きである。獣の眼光イコール魚の腹。ばかばかしい。いかにそれが本能、強いては食欲から来る殺意の目だと思い込もうと、実際は魚の白い腹でしかない。それ以上にもそれ以下にもならない。それをわかっていてもなお、俺の頭は想像力を働かす。どうにか湖面を破る魚たちのジャンプを意味ありげに、文学的に表せないかと探っている。無学な俺は度々「文学」にあてられる。
果たして痛みは救いになるのか。肌に立ててきた爪の数は跡を見ればわかる。それが既に結果である。痛みは救いになんかならない。だってそれは複数回ほど繰り返されている。たったの一度も決定的な解決策など運んできてはくれない。
苛立ちが酷い。俺が求めたもの。「今」が原因となり「今」に結果を出せる世界。俺はもう嫌だ。俺の「今」を決めるのはいつでも「過去」だ。「過去」の生活が「今」の生活を次々苦しく塗り替える。なんだってこんなこと。俺はその時その時、冷静に、最善の選択をしてきたはずだ。それはつまり、その都度、適材適所に、身近な霊を使ってきたということである。
霊。霊。霊!
ベッドに座ってふわふわ笑う透明色した月の主。俺はまた彼女に会いたい。あの時、俺の周りには今よりももっと霊が溢れていた。俺が発揮できない生命力が形を取った姿。彼女はその中でも最も美しい娘で、いつでも俺の鎮痛剤として働いた。
MIZUUMIに着いた。
果たして霊はそこにいた。彼女ではないが、それと全く違う生き物にも見えない。かつて彼女がそうしていたように、そいつは月を見上げてふわふわ消えそうにぶれている。俺はこの際誰さえ気にならなくなって、そいつに呼びかけた。
「おい! 今晩は随分いい夜だな。月は好きか」
「ええ、ええ。月は好きですよ。あれはあの世と繋がる穴ですから。心が落ち着きます」
「ははは。幽霊が心とか抜かしてやがる。さっさと成仏しろ! 紛らわしい」
「あなたのその言葉遣い。いったい何にそこまで腹を立てておりますか」
「腹を立ててる? 俺が? バカをいえよ。俺はただ苦しいだけだ。生きるが楽か死ぬのが楽かという話さ。しかしそれだってそもそもおかしな話だ。幼い頃の話だ。俺は美味そうに盛り付けられた毒を差し出されて、それが毒だと知りながら平らげたんだ。俺は裕福だったからね。解毒剤を買ってこの身にあてりゃそれで済むものだと信じて疑わなかった。けれど実際はこの有様さ。そもそも解毒剤なんて無かった――詳しく言えば、『愛情』が俺を惨状から救うただひとつのものだと思っていりゃあ、そもそもそいつが違ったのさ。愛情はそんな力を持たなかった。愛情は、人を生かす力だ。人を救う力じゃなかった」
「それではあなたはどうやって生きているのです? 毒を体に残しながら?」
「そんなの。お前によく似た幽霊を待ってるのさ」
「その幽霊はあなたを救えるのですか?」
「救えやしない。俺を救えるものがあるとしたらそいつは俺だけだ。俺が『もう既に俺は救われていた』と気づくことだけだろうよ。でも俺はそう思いたくない! 彼女無しで救われるのなんてごめんだ!」
「これは我儘だ」
幽霊が発する淡い光と月光の為に、本来夜の暗さを呈するはずの湖はぼんやりと浮き上がる。そしてそこにいっぴき、魚が腹を見せて不気味に漂っている。
「あれはお前か」
幽霊は静かに首を振った。
「知らない誰かです。今あなたの毒を吸い込んで死にました」
「俺の毒くらいで死ぬというならとっとと死ねばいいのだ」
「愛する人を失った人は強いですね。何が消えてももう怖くない」
「ばかをいえよ。俺は俺が死ぬのが怖いよ。だってそうしたら、ついにあの子のことを知っている人は、この地球上から消えてしまうんだ」
「ああいえばこういう」
「ああいってこう言わせるのはお前だろう。あれ、そういえばお前、やっぱり彼女に似てるな」
そう言った途端幽霊は消えた。そして影だけが残った。俺はと言えば魚を食った。自分を殺した俺への憎しみがたっぷり詰まった、膨らんだ魚を食って、思い出した。あの時出会った彼女はやはり、どう思い出しても幽霊ではあったが、俺のせいで本当に「絶命」したのだったと。




