THREE
雨は止んでいた。一時的に、水の循環が止まる。雨は止めてやったぞ、さあ行ってこい、と言われているような気分だった。
どうやら彼女は柊茉優の現在の居場所を知っているようで、その足取りからは迷いは見られなかった。出会ったばかりのはずの彼女が、柊茉優のことも岡崎拓海のことも知っている。そして彼ら二人は、僕の過去を語るうえで重要な鍵を握っている。
突然現れた、僕と瓜二つの彼女。死にたがっている彼女。柊茉優と岡崎拓海を知っている彼女。彼らに復讐をしたい彼女。
僕たちと彼女を繋ぐものは、一体何だというのだろう。僕でさえ知らない柊茉優の居場所を、どうして彼女が知っているのだろう。
確かに彼女は、もう一人の〈僕〉だ。それは出会った瞬間からわかりきっていることで、だけど一方で僕とは全くの別人であることもわかっている。僕の記憶の中で〈僕〉のような彼女は存在しなかった。つまり彼女は、僕の過去にいたことが一度もない。この矛盾した存在は、一体どこからやってきたのだろう。
駅のある方向へと歩き進める僕たち。小さな駅だ。中にはこぢんまりとしたコンビニエンスストアがある程度で、おそらくこの周辺で暮らす人々にしか需要はないのだろう。駅へ向かう道の途中で、昨日彼女と出会った――厳密に言えば、彼女が死のうとした――踏切を横目に見る。今なら、あの踏切へ彼女を連れ込んで死なせてあげられると思う。死にたかったんだろう? じゃあ、さようなら。そう言って、迫り来る電車なんか気にせずに、むしろそのタイミングに合わせて、彼女を踏切の中に放り込むことだってできる。簡単なことだ。
でも今はきっと、そんなことをしても意味がないのだと思う。だってそれは、彼女が僕に課した死に方ではないから。
――私を殺してください、と言ったらどうしますか?
彼女にとって確実に死ねる方法が、誰かに殺されるということだ。自分の力で死ねなかったのだから、誰か、自分とは別の人間によって死んでいくしかない、というのが彼女の出した結論なのだろう。
そんな彼女が、今は誰かを殺そうとしている。復讐をして、それから死ぬ。なんて自分勝手な考え方なんだ。生き物なんてどうせみんな死んでいく運命なんだ。僕たち人間に限ったことじゃない。早いか遅いか、ただそれだけの違いなんだ。復讐なんてしてもしなくても、ゴールは一緒じゃないか。
死にたい。そんな感情を持っているから、彼女は死ねないんだ。感情なんて消してしまえばいい。
「小学生のときだった」
湿気に満ちた空気の中を歩きながら、僕は言った。
「同じ学校に通っていたらしい女の子が、こう言ったんだ。『喜怒哀楽を失ってしまった人間は、きっと誰よりも強く生きられる気がするんだよね』って」
一言一句間違えることなく、僕はあのとき少女が言った言葉を口にする。
「中学生になる直前だったとはいえ、まだ六年生だ。そんな風に考えることができる彼女は、きっと僕みたいにひねくれているんだと思った。今でもそう思っているし、僕も相変わらずひねくれたままだ」
隣を歩く彼女はただただ黙っていた。僕の声が聞こえているのかはわからない。聞き流しているのかもしれないし、本当は考えながら聞いてくれているのかもしれない。もしかしたら、上の空になっているだけなのかもしれない。僕の話についていけていないだけなのかもしれない。とにかく彼女の状態はわからないけれど、黙っていることだけは確かだった。
「君は、どう思う?」
あのとき、あの少女が尋ねてきたのと同じように、僕は彼女に訊いてみる。すると彼女は少し間を空けて、言った。
「感情なんて、消してしまえばいいんです」
きっとそれが、彼女の答えなのだろう。そしてそれこそが、彼女の死にたい理由でもあるのだと思う。あのときの少女も、本当は感情なんていうものをすっかり消してしまいたかったのではないだろうか。それをそのままの言葉としてではなく、「消してしまえば誰よりも強く生きられる」なんていう回りくどい表現にして僕に投げかけたのも、本当は何かしらの意味があるのではないかと思う。
今、あのときの少女がどこでどのようにすごしているかはわからないけれど、いずれは感情なんてものをきれいさっぱり消してしまって、誰よりも強く生きていくのだろう。それが、わからないなりに考えて出した少女の答えなのだから、きっと、少女はそんな風に生きていくはずだ。
そして少女のこの表現こそが、今、彼女に必要なもののような気がする。けれど彼女は、その言葉をまだ知らない。感情なんて消してしまえばいい。彼女自身の考えは、きっと、あと少しで強く生きられるための形になるはずなのに、そこまでの道はまだまだ遠いように感じる。
復讐が終わって、僕が彼女を殺してしまうまでに、彼女の出した答えが少女と同じ形になっていればいいと願う。
「ちょっと待ってて」
駅に着き、そこのコンビニエンスストアの前で、彼女にここで待っているように言った。そういえば、朝食を食べていなかった。もう少し記憶を遡らせると、夕食も食べていなかった。外出の目的が復讐とはいえ、かつて僕が暮らしていた場所にいる柊茉優を尋ねるのだから、財布は持ってきている。
財布を取ろうと鞄を覗くと、家から持ってきた小型のナイフが開いた鞄の隙間から人工的な白を吸い込み、鈍い光を放っていた。果物の皮を剥くときに母がよく使っていたものだ。皮を剥くときは普段使う包丁よりもこちらの方が使い勝手がいい、といつだったか母が言っていた。一人暮らしを始めて果物なんて買わないから必要ないと言ったのだけれど、実家を出るときの荷物と一緒に入れられていたので、買ったままの状態で眠っていた。それが今、復讐なんていう目的のために目を覚ますことになるとは、当時の僕も母も、そしてこのナイフでさえ、想像していなかっただろう。
死のうとした彼女は見たところ何も持っていないようだから、僕はそこで二人分のお茶と菓子パンを買った。酒や煙草は、やめておいた。中毒のように毎日吸っていた汚い煙なんて、今はどうでもよかった。ニコチンの効果なんてとっくに切れているはずなのに、禁断症状のようなものは出ていない。彼女がいるからかもしれないけれど、本当のところは僕自身でさえわからない。死ぬ前でいいや。
もしかすると僕が買い物をしている間に電車に乗って一人で行ってしまっているかもしれない、と思ったけれど、彼女は店の前で待っていた。そうだ、彼女はお金を持っていないんだ、とそこで思い出す。どうぞ、と彼女の右手首を引っ張って、その手のひらの中にお茶と菓子パンを置いた。いりません、とも、ありがとう、とも言わなかった。けれど僕はそれでよかった。僕がそうしたかったからしただけだ。未だ名前をつけることのできていない感情を彼女に見出した僕の、ただの自己満足だ。
やはりお腹が空いていたのだろう、彼女は菓子パンの袋をすぐに開け、何口かで半分も食べた。腹が減っては戦はできぬ、ということなのだろう。あとの半分はどうするの? と尋ねると、残りは家で食べます、と答えた。家とはきっと、僕の部屋のことなのだろう。たった1回泊めてもらっただけで自分の空間と認識してしまうとは、思ったより彼女は強い子なのかもしれない。
地元にある駅の名前は覚えているので、切符売り場でそこへ行くのにかかる料金のボタンを押す。2枚買って、1枚は彼女に渡した。やはり彼女は何も言わない。きっとこれも、僕が彼女と一緒に復讐をすることに含まれているのだろう。彼女に確かめたわけではないけれど、そう思うことにした。
ホームに入って五分ほど待つと、目的の駅へ向かう電車がやってきた。平日で、しかも街中とは反対の方向へ走っている電車というだけあって、乗客は少なく閑散としている。人が少なすぎるせいか、ちょうどいい温度に設定されているはずの冷房が効きすぎていて肌寒い。純白でノースリーブのブラウスとパステルブルーのスカートしか身につけていない彼女は、きっと僕が感じているよりも寒いだろう。かといって、気温の高さと湿度の高さのバランスが保てずに湿気によって体感温度をさらに上昇させてくるこの季節に、上着を持ち歩く理由なんてない。仕方なく、なるべく冷房の当たらない席を探し、窓側に彼女、そしてその右側――つまりは通路側に僕、という具合に座った。
「意外です」
電車に乗って20分ほど過ぎた頃、突然、彼女が言った。
「ホームで私を突き落とすと思っていました」
「あそこで僕に殺される、と思っていたの?」
はい、と彼女は答える。それだけだった。だから僕も、それ以上は何も言わなかった。実は道の途中の線路を見て君を殺すこともできると考えていた、なんて物騒な本心は、僕だけの中にしまっておいた。
座って時間の流れを待つだけで僕たち自身は動いていないからだろう、感じる寒さもだんだんと強くなっていき、蒸し暑いはずの季節なのに突き刺すような冷たさが肌を襲った。
「寒くない?」
「大丈夫です。絆創膏や包帯が守ってくれているので」
痛々しくて頼りない防寒具だ。せめて手だけでも、と思い、膝の上で交差させている彼女の手の甲に自分の左手を乗せた。驚いたのかほんの少しだけ肩をぴくりとさせた彼女だったが、嫌がるわけでもなくただじっとしていた。
動いていく景色。動かない僕たち。聞こえるのは、電車の走る音とアナウンス、そして踏切を通過するときのあの音だ。あの音が鳴り響く世界の中で、僕たちは出会った。きっと僕たちは、出会うはずではなかった。出会ってはいけなかった。けれどもこの出会いは、必然的だったように思う。
矛盾した出会いが連れて行く先は、一体どこなのだろう。
あの少女が僕に出した宿題の答えを、教えてくれるとでも言うのだろうか。
* * *
電車に乗って約2時間が経ち、目的の駅に到着した。電車から出ると、水分を吸い込んだ重い空気が僕たちの頭から圧力をかけるように覆いかぶさってきた。じっとりと皮膚にはりつくそれは、歩こうとする僕たちの足にまで邪魔してくる。そのせいもあってか、黙って歩き出す彼女だったが、心なしか足取りが重いように見えた。こんなにも重くのしかかる空気なんて感じたこともない、と言わんばかりの足取りだった。散歩に行くことが嫌いなのに飼い主に無理矢理外へ連れて出されたために仕方なく歩いて散歩を早く終わらせようとする犬みたいに、僕たちは足に鞭打って前へ進ませた。
かつて僕が住んでいたこの街は、駅から出てくる人々に圧をかけるように建つ家が目立つ。よそ者を寄せつけないような、そんな静けさだけが広がっている。この街を離れて3年と少し。地元のはずなのに、僕でさえ足を踏み入れることに躊躇してしまう。どうやらこの街にとって、ここを出た時点で僕はもうよそ者らしい。まあ、ここに住んでいたからといってこの街に特別何かしらの思い入れがあるわけでもないのだけれど。
柊茉優とは同じ中学校に通っていたけれど、彼女の家を僕は知らない。遊ぶような仲でもなかったし、なにせ僕は彼女からのいじめに遭っていた立場だ。隣にいる彼女も僕と似たような境遇のようだが、いじめの仕返しが殺しとは、いささか事が大きすぎないだろうか。まあ彼女がしようとしていることなのだから僕が止める必要もないのだけれど。
彼女の足は迷うこともなく、止まることもなく、柊茉優の家があるのだろう方向へと向かっていく。細い道を通ったり大通りに出たりと、右左折を繰り返しながら駅からどんどん離れていく。家ばかりが並ぶ風景が大きく変わることはなく、もしかすると僕たちは同じ場所を何度も旋回しているんじゃないかとさえ思えてきた。
僕の家はどこだっただろう。そんなことを、ふと考えた。これといった特徴なんて何一つない家だから、周辺にある家と同化しているのだろう。見つけたところで帰るつもりはないけれど、「僕はこれから殺人を犯すよ」なんてことを何事もないような顔で言ってみても面白いかもしれない。今は彼女がいるからそんなことはしないけれど、一人だったら行動に移していた可能性は大いにある。
母は止めるだろうか。呆れるだろうか。怒るだろうか。たぶん、呆れるんだろうな。何を言っているの、あんたにそんなことができるわけがない、と。すると、それができてしまうんだな、と僕は笑いながら母の心臓をえぐるように刺す。ほら、できた。有言実行の成立。父はきっと、母の倒れた音を聞いてようやく出てくる。そんな人間だからだ。僕を叱るだろうかと考えたとき、それはないな、という答えが出てきた。父は昔から、僕に興味を持ったことがなかった。それは僕が他人に無関心であるのと同じだった。母の倒れた音といっても、父にとってそれは、何か大きな物音がしたな、くらいの認識でしかない。
「僕が母さんを殺した」
赤い液体のついたナイフを持ってそう言う息子と、その足元に横たわる妻を見たとき、父は何を思うだろう。救急車を呼ぶ、は当然の行為だろうが、そのあと彼は僕をどういう目で見るのだろう。殺人犯として見るだろうか、それとも、息子がとうとう狂ってしまったという見方をするだろうか。少なくとも、お前がそんなことをするようになるとは、なんていう言葉を父が放つことはないだろう。
母が死んだことが知られれば、父の取り調べの中で僕の名前が浮上してくるのは当然だ。そして警察は僕を殺人容疑者として捜索しながら、僕の周囲の人間から話を聞いて回るのだろう。
テレビでよく見るパターンだ。おとなしい子だったとか、真面目な子だったとか、優しい子だったとか、そんなことをするような子じゃなかったとか、その人物を擁護するようなことばかり。インタビューのシーンを見て、お前たちはそれしか言うことがないのかと思ったこともある。懲りずに何度もルールを守らなかったり交通事故を起こしたりする人がいるように、殺す奴は殺すのだ。心の問題なのだ。見た目では誰も判断できない。上辺だけの関係で、「そんな子じゃなかった」なんて、誰が断言できるというんだろう。
彼女もきっと、周りから見れば殺すような人間ではないのだろう。僕の目から見ても、そんな痛々しい身体で何ができるんだと思ったくらいなのだから。
「もう少しです」
彼女のその言葉に、僕ははっと我に返った。下を向いていたらしい顔を上げるも、目の前に見えるのはやはり何も変わらない家が並ぶだけの景色と、彼女のさらさらとしたショートヘアだけである。
「復讐を終えたら、君はどうするの?」
よくない意味で僕と関係のある二人に復讐をしたあと、彼女はどうするつもりなのだろう。そもそも、どうして彼女は柊茉優や岡崎拓海のことを知っているのだろう。中学生のとき、同じ教室に彼女なんていなかったはずなのだ。だけど、もしかすると、彼女と柊茉優たちは同じ小学校に行っていたのかもしれない。これは僕の勝手な憶測でしかないのだけれど、もし柊茉優や岡崎拓海にいじめ癖があったとして、彼女たちが同じ学校で出会っていたとして、そこで彼女を標的にしていたのだとしたら。僕のことを気に入らないといじめていたのだから、僕と似た要素を持つ彼女がいじめのターゲットにされてもおかしくはない。
けれど、そんな10年ほど前のことを根に持つだろうか。いじめは酷いものだったかもしれない。復讐をしたくなるほどのことをされたのかもしれない。でも、小学校や中学校で存在していた人間関係なんて、いずれは消えていくものだ。友達なんて、捨てていくものなのだ。
そんな昔関わっていたかもしれない人物に、そしてこれからきっと関わることなんてないであろう人物に復讐なんてして、それから彼女は一体どうするつもりなのだろう。
「さあ、どうするんでしょうね」
死ぬんじゃないですか、と彼女は言った。
それは、昨日の会話と繋がっているのだろうか。僕が彼女を殺す。そういう意味を含んでいるのだろうか。今の段階では、僕は彼女を殺すことはしないだろう。彼女が一人で死んでいくのだろうと思っている。
「そういうあなたは、どうするんですか」
「さあ、どうするんだろうね」
死ぬんじゃないかな、と僕は言った。未来のことは、誰にもわからない。一番いい方向に動いていけばいいけれど、その方向なんて誰にもわからない。だから僕たちは悩んで、迷って、苦しんで、足掻きながら生きていくんだ。未来からやってくる猫型ロボットなんて、僕たちの世界には存在しないのだから。
「あなたは、死にませんよ」
表情こそは見えないけれど、こちらに向けられたその声は、なんだか少し笑っているように聞こえた。冗談を言っているようにでも思えたのだろうか。それでもいい、と僕は思った。冗談だったなら彼女のように笑って流してしまえばいいし、もし本当に死ぬことになったなら、その瞬間まで彼女と一緒にいればいい。さようならと言いながら、一緒にこの世界から消えてしまっても、僕はきっと後悔しない。もしかするとどんな死に方よりも幸せかもしれない。
「あなたが死んでしまったら、私が生き続けないといけなくなっちゃうじゃないですか」
それだけは絶対に嫌です、と彼女はまた笑った。そんなに嫌なら君も一緒に死ねばいいじゃないか、と言うと、私が死んであなたが生きることに意味があるんです、とのこと。僕の人生に、彼女は一体何を見出しているのだろうか。大学にも行かず、アルバイトをするわけでもなく、ただただ無駄な時間を無駄に過ごしているだけのこの僕に、生きていて何の意味があるというのだろう。
駅を出て、そしてこの街に足を踏み入れて、30分以上は歩いただろうか。少しずつではあるけれど、家だけの風景の中に公園や空き地が現れ始めた。そこでは飼い犬の散歩をしている主婦や肩を並べて歩いている老夫婦が、静かな時間を過ごしている。夕方になれば学校帰りの子供たちが寄り道をして遊んでいそうな、そんな景色だった。
この街では昔から犯罪や不審者の情報が極めて少なかったが、その原因が今、ようやくわかった気がする。よそ者を入れまいとするように立ち並ぶ家々が、圧力を与えているのだ。だからこの街を出てよそ者となった僕にも、住んでいた頃とは全く違う雰囲気に感じられたのだ。どこか閉鎖しているようなこの街で、子供たちは守られているのである。
「ここです」
足を止め、彼女が言った。その目線の先には、落ち着いたブラウンの一軒家があった。柊と書かれた表札を見ると、確かにここは柊茉優の家で間違いないようだ。灰色のブロック塀で囲まれ、外からの情報や刺激をガードしているような印象だった。誰も来ないでくれ。堅いブロック塀から、そう訴えられている気がした。中学生の頃は自分と同じ思考や方針の者を仲間として受け入れていた柊茉優だったが、こうして家を隠すように囲む塀を見ると、本当にあの柊茉優の家なのかと思ってしまうほどだった。それほど、この家の様子は、柊茉優に似つかわしくなかった。
彼女がインターホンに手を伸ばした。ボタンに手が触れるか触れないかくらいのとき、その手を僕が遮った。
「僕が押すよ」
柊茉優への復讐は彼女の問題かもしれない。けれど同時にこれは、僕の問題でもあるのだ。柊茉優に恨みがあるわけではないけれど、でも、けじめとして、僕が顔を合わせるべきだと思った。
「ナイフ、私に持たせてくれませんか」
インターホンを押そうとした僕の手を、今度は彼女が遮った。自分の手で、というつもりなのだろう。彼女の瞳は、まっすぐ僕を見ていた。真っ黒なそれに、あのときと同じように吸い込まれそうだった。そしてそれは彼女の決意だった。
僕は鞄の中からナイフを取り出した。雲に邪魔をされながらもなんとか地上に届いている光を吸収したそれは、鈍く、そして濁った輝きを見せていた。
インターホンに再び手を伸ばす。指先にぐっと力を入れ、ボタンを押した。それと同時に、家の中にメロディが流れたのが外からでも聞こえた。
「どなたですか」
母親らしき女性の声だった。
「柊茉優さんの中学生の頃のクラスメイトです」
嘘はつかなかった。友達の多かった柊茉優のことだ、名乗らなくても、クラスメイトだと言うだけで門を通してもらえると思ったのだ。そしてその予想は見事的中した。ガチャリという音とともに、門が抵抗なく開けられるようになった。
「どうぞ。茉優に出させますから玄関で待っていてください」
言われた通り僕らは門を通過し、玄関の扉には触ることなくそこで待つことにした。
5分くらい待っただろうか。面倒くさそうに、そしてまるで何かに恐れているかのように、扉が開いた。僅かな隙間から、真っ黒な長い髪がさらさらと垂れているのが見えた。そしてゆっくりとその隙間は広がっていき、ようやく、柊茉優が顔をのぞかせた。
目が合った。あの悪態っぷりは健在なのだろうと思っていたが、柊茉優は僕の想像とは全く違う反応を見せた。とんでもないものを見たような目で僕を見つめ、そのまま動かなくなった。何かを言いたそうに口を動かそうとしているのだけれど、言葉が出ないらしく、ただ口をぱくぱくさせている。
「七草。ふたり」
やっとのことで出した言葉は、たったそれだけだった。
七草、ふたり。それはきっと、僕と、後ろにいる僕と瓜二つの彼女のことを言っているのだろう。どうして同じ人間が二人もいるんだ。どうして七草が二人も存在しているんだ。どうして自分の目の前に二人の七草がいるんだ。状況が全くもって理解できない。そんな顔をしていた。
「何を、しに来たの」
目の前にいるのは本当に柊茉優なのだろうか、というほど、その声はぶるぶると震えていた。僕の知っている柊茉優はもっと堂々としていたし、怖いもの知らずという感じだった。でもそれは、もしかしたら周りに同じ思考を持つ人間がいたからではないか、とも思った。あのときは、僕をいじめるという共通の目的を持った者が周りにいたから、堂々とリーダーとしていじめることができていただけではないだろうか。中学生から高校生になり、そして高校を離れていく間に、きっと彼女は今までのように人間関係を築けずに、心の負担を減らしてくれる仲間を作ることもできず、それまでとは正反対の時間を過ごすことになってしまったのではないだろうか。
「今さら、いじめていたことを謝れっていうの?」
みんながあなたのことをいじめていたじゃない、と彼女は言った。確かにそうだ。僕をいじめていたのは柊茉優だけではない。
いじめの四層構造というものを大学で勉強したことがある。中心にはいじめられる者。その周囲にはいじめる者。その次に、はやしたてる者。そして最も外側にいるのが、傍観者。つまり、僕以外の人間はみんな、いじめに加担していたということなのだ。
僕は今、後ろにいる彼女が柊茉優と岡崎拓海の名前を出したからここにいるわけで、もし、彼女の出した名前が柊茉優とはまた別の人物のものだったなら、僕らはそっちへ行っていた。彼女がどうしてこの二人に限定したのかはわからないが、クラスメイト全員がいじめに加わっていたことは言われなくてもわかっている。いじめを受けていたのは僕なのだから。
「謝れなんて一言も言ってないよ」
僕たちは謝ってほしくてこんなところに来たわけじゃない。彼女が復讐をしたいと言ったから来ただけだ。僕に謝ったってそれは意味のない謝罪だし、彼女に謝ったところでもう手遅れなのだ。
「謝罪なんていらない。耳障りなだけだもの」
後ろにいる彼女が言った。一歩ずつ、前へ進んできていた。怒っているのか、悲しんでいるのか、僕にはわからなかった。無になっているような表情にも見えた。ただ何も考えないで復讐をしようとしているようにも見えた。彼女が僕の横を通過する瞬間、彼女の瞳が光を失っているように、僕には感じた。
彼女は僕よりも前に出て、柊茉優と対峙していた。柊茉優は先ほどよりも身体の震えが大きくなっている。彼女に怯えているのか、それとも人間そのものに怯えているのか。
「その眼」絞り出すように、柊茉優が言った。
「その眼が、気に入らないの。私たちの全てを見透かしているようなその眼。人間の闇を見ているようなその眼。人間をばかにしているようなその眼。世界の破滅を見ているようなその眼が、気に入らないの」
おそらくそれは、柊茉優の心からの言葉なのだろう。なるほど、だからさっきも何かに怯えるように顔を出したのか。柊茉優は、人間の眼が怖いのだ。だからきっと、何を見て、何を考えて、何を感じ取っているのかがわからない僕のような人間をターゲットにしていじめることで、周囲の人間の視線を自分へ向けられないようにしたのだ。確かに彼女も、何を考えているのかがわからない。その瞳から読み取れたことは一度もない。
でも、彼女と柊茉優が同じ空間にいたところを見たことがない。きっと彼女は小学生の頃から、他人あるいは柊茉優からそう思われるような瞳をしていたのだろう。小学生の時点で「あいつは異常な人間だ」と思われていた僕とほとんど同じだ。
「そう」彼女は表情を変えることなく、そして柊茉優を見つめたまま、言った。
「気に入らないならそれでいい。誰が誰を気に入ろうと、誰が誰を嫌いになろうと、それは人それぞれだから、私にはどうだっていい」
こんなにもすらすらと話す彼女を、僕はこのとき初めて見た。意思表示の少ない子だと思っていたけれど、僕には言葉を交わすほどのことがなかっただけなのだと感じた。彼女は続ける。
「好きも嫌いも、あなたの自由。私の眼が気に入らないのなら、気に入らないままでいい。この眼は、私にだってどうすることもできない。ただ、一つだけ、あなたに言っておかなければいけないことがある」
そこまで言うと彼女は一度言葉を止めた。柊茉優は、これから自分に放たれる言葉がわかっているように見えた。言わないでくれ。そう訴えるような眼を、彼女に向けていた。けれども彼女は、そんな柊茉優の様子など気にも留めず、ゆっくりと深呼吸をしてから、再び口を開いた。
「あなたがいるから、私は、あなたに復讐をする羽目になった」
あなたがいなければ、私は、こんな風にならずに済んだ。彼女は、そう言ったのだった。
柊茉優は動かなかった。動けなかったのだろう。聞きたくない言葉を、聞いてはいけない言葉を聞いてしまったような、そんな顔をしていた。どうして私がそんなことを言われなければならないの、とでも言いたげで、でも言えないような、そんな表情だった。彼女のペースだった。こんな風にならずに済んだ。それが彼女の本音だということは、彼女との今朝の会話からわかっていた。