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復讐をしましょう




 目が覚めると、窓から覗く窮屈な空は、夜なのかと思わせるほど真っ黒だった。サーという循環する水の音しか聞こえない。それが僕の部屋に湿気を持ち込んで、シャツがべたべたとくっついている僕の体を不愉快にさせる。


 すぐそばにある机の上のデジタル時計を僕の目が捉える。規則正しく動くそれが示すのは、木曜日。朝の9時を過ぎていた。よし、僕は昨日も死ななかった。昨日も無事に、一日を乗り越えた。そして今日もまた、死なずに明日を迎えるのだろう。


 いつもなら「今日も僕は死なない」と断言できるのだけれど、ここで「だろう」という推測しかできないのは、いつもではない状況が僕の目の前に転がっているからだ。


 体の節々が鈍い痛みを訴えている。いつもならこんなことはなかったのに、なぜなのか。これもまた至極簡単な話で、繰り返し言うようだけど今がいつもではないからだ。


 古くなり寝返りを打つたびにギシギシと音を立てる僕のベッドを占拠しているのは、もう一人の〈僕〉――すなわち昨日出会ってしまった、出会うはずのない少女だった。


 そう。彼女こそがいつもではない状況を作り出した本人だ。だから当然、僕は床で寝なければならなかったというわけだ。


 そんな彼女に、静かに視線を送る。見つめられている感覚が皆無なのか、気がつかないほど熟睡しているのかはわからないが、布団に綺麗に包まれた小さな身体は、死んでしまったのかと思わせるほど全く動く様子がない。まあ現に彼女は死のうとしていたわけだし、今もし死んでしまっていても彼女にとっては何の問題もないのだろうけれど。


「〈僕〉は僕以上に脆かったようだね」


 彼女が眠っていることを前提としたうえで僕は言った。


 頬を包む大きな絆創膏。傷だらけの力のない弱そうな腕。普通サイズの絆創膏が所狭しと貼られた細い脚。喧嘩なんていうレベルの傷ではないことは確実だし、外見での判断になってしまうのだけれど彼女が殴り合いをして傷を作ってくるような子には思えない。もしそんなことをするやんちゃな性格だったとしても、こんな華奢な身体じゃ勝つことはまず難しいだろう。それどころか相手にダメージすら与えられない気がする。


 でも、なんとなく想像はつく。なんたって彼女はもう一人の〈僕〉なのだ。顔も同じ。髪の色も髪型も同じ。眼の形も色も位置も同じ。鼻の形だってそうだ。僕と彼女との間にまるで鏡が存在しているかのように、僕たちはそっくりなのだ。僕と同じ経緯をたどってきたに違いない。


 名前もないあの感情を抜きに考えても、僕と彼女は、もともとは同じ生命体だったのではないだろうかと思う。だから僕は彼女の顔を見た瞬間に、彼女とは出会わないはずだった、出会ってはいけなかったと感じたのだろう。そのときに僕の意識がそうさせたのかどうかはわからないけれど、意識的だったとしても無意識的だったとしても僕がそう感じたのは紛れもない事実なのだ。まあそんなことを言っても、もう出会ってしまったのだからどうにもならないのは確かなのだろうけれど。


 かすかに彼女の声が聞こえた。それと同時に、もぞもぞと布団が動く音も。それが彼女のお目覚めの合図なのだろう。なんとなく、そのまま布団に飲み込まれそうに見えたし、今にも消えてしまいそうにも見えた。


「やあ」


 彼女の存在を、そして〈僕〉の存在を確かめるように僕は言った。


 僕の声に反応した彼女はこちらを向き、そして無表情のまま僕を睨んだ。キッと鋭いわけでもなく、他の人間からしたらただ僕を見つめているようにしか見えないのだろうけれど、相手は〈僕〉だ。僕にはわかる。その瞳はどうやら僕を責めていることを表しているようだった。


 どうして助けたんだ。どうして死なせてくれなかったんだ。


 彼女の瞳は今、そう言っている。この瞳の訴えに、僕は答えるべきだと思った。僕のきまぐれな散歩さえなければ、彼女は死ぬことができていたのだから。


「そんなに睨むなよ。あれは不可抗力だったんだ」


 そうだ。あれは不可抗力だった。確かにあのとき、彼女が何かを言っていたのはわかった。でも何を言っているかなんてわからなかった。それ以前に、あの遮断機の間に彼女がいた理由が死だなんて、彼女本人に聞かなければわかるはずもない。聞くよりも前に足が動いていた。そしてその結果、間に合った。そして彼女は助かった。いや、違う。死ねなかったのだ、彼女は。僕のせいで。


「あなたは死なせてくれなかった。あなたは私に死ぬことを許さなかった」


 彼女から出てくるのは、僕に対しての怒りだけだ。不可抗力さえも、彼女にとっては余計なものだったらしい。


「君が死にたがっていることを知っていたなら僕だって止めなかった」


「嘘」


 それでも彼女は信じてくれない。


「あなたの目は、死を否定している。私が死にたいと言ったって、あなたは必ず止めに来る。そうでしょう?」


 僕自身は死を受け入れているつもりだ。死にたいのなら死ねばいい。どうぞご勝手に。そういう考え方で生きてきた。けれども彼女は、目が否定していると言う。


 そうでしょう、と聞かれてイエスもノーも言えないのは、彼女の言うことがどこかで的を射ているからなのだと思う。どういう返事をすればいいのかが全くもってわからない。確かに僕は「死んでしまおう」とは思わなかった。けれどもそれが死を否定することと一致するとは到底思えなかったのだ。


「じゃあ」


 何を血迷ったのか、僕は自分でも驚くようなことを言い始めた。気づいたときには僕の口はもう止められなくなっていた。


「僕が君の前で死んでみせたら、君は僕が死を肯定していると認めてくれる?」


 彼女は何も言わなかった。その代わり、ただ黙って、何をばかなことを、とでも言うように彼女は僕を睨み続けた。僕も彼女から目を離さなかった。僕自身がこんなことを言うなんて思ってもみなかったけれど、冗談のつもりではない。〈僕〉が僕をそういう目で見てくれるのならば、僕は喜んで〈僕〉のために死んであげよう。


「そんな簡単には認めてあげません」


 自分が死ぬと言えば「はいわかりました」と言ってくれると思っていたのだけれど、どうやら僕の考えは彼女よりもずっと浅はかだったようで、頷くことなく彼女はまるで焦らすかのように意地悪に言った。けれども自分では認めてくれるのではないかと思っていながら、僕がもし彼女の立場だったら僕は彼女と同じ答え方をするだろう。


 矛盾している。矛盾しかしていない。そんなことは僕にだってわかっているけれど、認めてもらう側と認める側の立ち位置というものはこういうものだと僕は思うのだ。


 〈僕〉のことだ、簡単には認めないと言ったのならば、かなりレベルの高いこと、あるいはレベルの低すぎるばかげたことを求めてくるはずだ。〈僕〉の出す難題とはすなはち僕自身が考え出せる程度のものだ。言ってしまえばそんなものは難題でもなんでもない。こんなちゃらんぽらんの僕の分身である〈僕〉が考えられることなのだから、僕にクリアできないはずがない。


「死を肯定すると断言する人間が自ら死ぬなんて、説得力の欠片もないじゃないですか」


「誰かに殺されればいい、と。そういうことかい?」


 僕自身が自ら死ぬことに意味がないのなら、誰かの手によって命を絶たれればいい。僕は彼女の言葉からそう解釈した。極めて単純な思考回路だ。未だにあの歪んだ自尊心を捨てられずにいるのだから、僕という人間はかなりのポンコツらしい。周りの人間をばかにしておきながら、僕という人間に対しての僕自身の評価は依然として高く、そして狂っているままだ。


 違いますよ、と彼女は言った。依然として表情は無のままだった。僕を睨みつけるような瞳も、何の変化もなくそのままだった。


「あなたが死ぬということそのものが無意味だと言っているんです」


 彼女はきっぱりとそう言うのだけれど、それでは僕の手段がなくなってしまう。〈僕〉は僕よりもずっと遠くへぶっ飛んだ発想を持っているようだ。きっと彼女が明確な言葉で言ってくれれば僕だって容易に理解できるし実行だってできるのだろうけれど、彼女は僕の頭の中で遊んでいるようにも感じた。彼女の言動が予想できないのは、やはり彼女は〈僕〉に過ぎないのだということであって僕自身ではないからなのだと思う。そして僕の考えることと彼女の考えることが不一致なのも、おそらくはそれと同じなのだろう。


 彼女は〈僕〉であって僕ではない。僕は言うまでもなく僕であって〈僕〉ではない。もちろん彼女でもない。


 きっと彼女は、僕と同じ時間を同じ空間で同じように歩いてきたに違いない。でもその中で生じる小さな違いが、僕と〈僕〉を分岐したのだ。その違いは砂漠で特定の一粒の砂を探すようなもので、僕と〈僕〉の過ごしてきた時間を照らし合わせたとしても答え合わせをすることは不可能だ。そもそもその間違いがいくつあるのかということさえもわからないだろう。


「例えばの話ですけれど、私が死にたいと今ここで言ったらどうしますか?」


 昨日遮断機に入って電車を待っていた彼女が言ってしまうともはや例え話にならないのだけれど、まあそれには触れないでおくとして。


「僕は何もしない。君の好きなときに死ねばいいと思う」


 何度も言うようだけれども、昨日彼女を助けてしまったのは不可抗力だ。死にたいという奴をわざわざ止めるほど僕は鬼じゃない。


「でしょうね」


 僕がそう答えることを見通していたかのように彼女は言った。そして続ける。


「では――」




「私を殺してください、と言ったらどうしますか?」




 彼女の言いたかったことがここでようやく理解できた。僕が死ぬのでは意味がないとはこういうことだったのか。死にたいと言う彼女を好きなようにさせるわけでもなく、かといって僕が誰かによって殺されるわけでもなく。僕が彼女の命を終わらせることによって、僕は初めて彼女に「僕は死を肯定している」と認めてもらえるというわけだ。


 ああ、なんて皮肉なことなんだろう。僕が彼女の人生を終わらせてしまえば彼女はもうこの世にはいないわけで、そしてそれはつまり彼女に承認をもらうことができないということになる。彼女の出した問題は僕の想像を遥かに超えた難問だった。〈僕〉の方が上だった。そんなふざけた思考を持つなんて、一体〈僕〉はどんな時間を歩んできたのだろう。どんな世界を見て、その世界に何を感じてきたのだろう。僕と〈僕〉はどこで違ってしまったのだろう。


「わかったよ」


 折れたのは僕だ。


「そのときは僕が君を終わらせる。だからそれが終わったら、ちゃんと認めてくれよ」


 彼女の命を終わらせた時点で審査員となる彼女はもういないとわかっていながら、それでも僕は言った。彼女のことだから「ばかなんですか。私、いないじゃないですか」なんて当然のことを言うのだろうと思っていたけれど、僕の思考力を再び超えてきた。


「いいですよ」


 そう言ったのだ。その顔には、ほんの少しの笑みが見て取れた。厳密に言えばさっきまでの無表情と何ら変わらないのだけれど、僕にはその違いがわかった。


 ただし、と彼女はまた言った。


「もう一つ、条件があります」


 なにやらまたとんでもないことを突き付けられそうな気がしてならないのだけれど、仕方なく僕はこれから彼女が僕に与える条件を聞くことにした。


「復讐をしましょう、私と」


 先ほどまでと変わらない顔で、そして彼女の綺麗で整った顔には似合わない言葉を、淡々と放ってみせた。


 ふくしゅう。フクシュウ。復讐。頭の中で反芻してみたけれど、きっと僕が思い浮かべている〈ふくしゅう〉と彼女の言う〈ふくしゅう〉は同一の意味を持つものなのだろうと思う。そうでなければ、こんなにも素直に胸の中に収まるわけがない。


「誰にどんな復讐をお望みですか」


 何をもって復讐とするのか、何のために復讐をするのかなんて僕にはさっぱり理解できないけれど、断ろうとは思わなかった。悪いことだとも思わなかった。おそらく条件として投げかけられたからだろう。

誰にどんな復讐をしたいのかなんてことを僕が聞いてもわからないのだろうけれど、まるでお嬢様を相手にするかのように丁寧に尋ねてみた。何かしらの答えが返ってくると思ったのだ。そしてその予想は当たる。


「簡単な話です」


 相変わらず彼女は絆創膏だらけの表情を変えない。今にも消えてしまいそうなその瞳に何が映っているのか、何を映してきたのかなんてとても想像できない。感情というものをどこかに捨ててきたかのような顔で言う。


「私をこんな風にした人間を、私と一緒に殺してくれればいいんです」


 全身を絆創膏と包帯に覆われた人間が何を言っているんだ。彼女の言葉を聞いて最初に感じたことは、それだった。簡単に折れてしまいそうな細い腕と脚。そんな華奢な身体で人一人殺せるわけがないじゃないか。


「こんな風に、と言うと?」


 疑問点であるとか無茶な点についてはあえて触れなかった。


 こんな風に。傷だらけということなのか、それとも死んでしまいたいと思うことなのか。あるいは――。


 死なせてもらえない身体になってしまったことなのか。


「わざわざ聞くなんて意地悪ですね」


 このとき、ふうと息をつきながら初めて彼女は僕から目を逸らした。


「言わなくてもわかっているくせに」


「どうだか」


 はっきりとはわからないけれど、彼女の呟きがどうしてか的を射ているような気がして、僕は曖昧な返答しかできなかった。僕がまだ気づいていないだけで、どこかで僕自身は知っているのだろう。そんな気がした。


 ここで一つ不思議だったのは、僕は僕自身が思っているよりも落ちぶれていなかったということだ。友達を作ったこともなく、無駄に高い自尊心を無駄に誇って生きてきた僕は、周囲の人間が当たり前のようにする言葉のキャッチボールなんてできないと思っていた。けれど今、僕はそれに成功している。それはただ相手が限りなく僕に近い〈僕〉だからなのかもしれないけれど、意外にも普通に、そして円滑に会話ができていた。もしかすると僕は、ただ思い込んでいただけで実際はコミュニケーションが苦手であるというだけだったのかもしれない。


「私が、知っているくらいなんですから」


 私が知っているのだから、あなたが知らないわけがない。彼女は確かに、そう言った。


 彼女の中には僕に対する何かしらの考えがあるのだろうけれど、僕はそれを理解することができない。〈僕〉の思考なんて僕と同じで読み取ることなんて簡単なことだと思っていたけれど、実はそれは間違いで、意外にも〈僕〉は僕の思考を超越している。私を殺してください、そうすればあなたが死を肯定していると認めてあげます、と言った時点で、そして〈僕〉の中にあるその答えを僕自身が見つけ出せなかった時点で、僕の思考は〈僕〉のそれよりもはるかに劣っている。いや、ある意味では僕の方がより正常に近いのかもしれない。なにせ相手は、私と一緒に復讐してくれという依頼――条件、と表現する方が適切かもしれない――を、「簡単な話です」の一言で片づけてしまうような人間なのだから。


 彼女はもう一人の〈僕〉だけれど、僕ではない。そして僕も同じように彼女ではない。だから、彼女の知ることを僕が全て把握しているというわけではないのだ。あくまでも僕たちはお互いに同一人物という名の限りなく近く、けれども別人という名の宇宙の果てのように遠い生命体だ。そしてお互いに、出会うはずのない、あるいは出会ってはならない生命体でもある。


 そうは言っても、もう出会ってしまったのだからどうしようもないのだけれど。


「柊茉優、という名前を知っているでしょう?」


 知っていますか、という疑問口調ではなく断定口調で尋ねてくるあたり、やはり彼女は〈僕〉なのだと改めて実感する。彼女の口から出てきたその名を、確かに僕は知らないわけではなかった。けれどもそれは聞き覚えがあるという程度のもので、決して僕がその柊茉優という女子と親しくしていたというわけではない。


 むしろ逆だ。柊茉優は、小学生の頃に僕に対するいじめに加わっていた女子の中でもリーダー格の人物だ。女子トイレに投げられた教科書を汚げに拾って、そして馬乗りにされて身動きが取れない僕を喉で笑っていた。僕は基本、他人のことはどうだっていいし、そんな他人の顔も名前も覚える必要なんてないと思っているのだけれど、あのときばかりはこんなやつらに負けてたまるもんかという感情が今では考えられないくらいに大きく膨らんでいたから、気に入らないけれど彼らのことはよく覚えている。


 あんなやつらのことを記憶に留めておくくらいなら、「喜怒哀楽を失ってしまった人間は、きっと誰よりも強く生きられる気がするんだよね」と言った、あのときだけ言葉を交わしたあの彼女のことを覚えていたかった。人間の記憶は、ときに残酷だ。


 知らないという四文字が僕から出てこないのを確認した彼女は、


「まずは柊茉優に、復讐をします」


 私がこんな風になってしまった最大の原因は柊茉優にありますから、とやはり表情を変えることなく、華奢で絆創膏だらけの顔や身体に似つかわしくない言葉を放った。そしてそれは、「柊茉優を一緒に殺しに行きましょう」という意味として解釈すべきものでもあった。


     * * *


 柊茉優という人間を説明するのは、難しいことではない。簡単に、本当に簡単に、たったの一言でまとめてしまえば、彼女はただの臆病者である。


 柊茉優の家庭は誰がどう見ても荒れていて、彼女自身の部屋はあっても居場所というものはなかった。彼女の両親は昔からやんちゃばかりをしていて――いわゆる不良グループに属していて――それでいて二人とも、男女それぞれのグループのリーダー格だった。どちらも勉強は得意ではなくて、自分は努力しているつもりだったがそれでも親や教員たちは認めてくれなくて、褒めてもらうこともなく、ただただ「どうして」という疑問や不満に押し潰されてきた。そんな感情を唯一ぶつけることができたのが、不良、非行というものだった。


 似たような境遇の人間たちが多く集まるその環境は、彼らにとっては心地の良いものだった。頭の良さが全てだと思っている世の中は不条理だ。結果しか見てくれない。結果までの過程を一度だって評価してくれたことなんてない。こんな世界は不平等だ。できないものはできない、できるようになりたいと頑張ったけれどできなかった、それでいいじゃないか。人にはそれぞれの能力があるんだ。そしてそれはその人に必要だからこそ存在するものであって、その人が何を必要としているかで変わってくるのだから、今ここに生きている全ての人間に同じ能力がある、あるいは必要だと思っていることの方がおかしい。


 彼らの不満はとても正常で、けれども一方では異常で、その異常な面が彼らを不良、非行へと導いていった。そんな集まりの中で偶然出会った男女が柊茉優の両親であり、その二人から産まれたのが偶然、柊茉優だった。


 彼女が産まれても両親の荒れた心が整備されることはなかった。いつまで経っても捨てられることのないごみも、破れたままのカーテンも、赤ん坊のいる部屋での喫煙も当たり前だったし、お互いに気に入らないことがあると子供の存在も忘れて些細なことでもすぐに喧嘩になった。そんな場面を、柊茉優は何回も、何十回も、何百回も見てきた。一日中、不機嫌なときもあった。そんなときはいつだって、お前がいるから、と怒りの矛先を自分に向けられてきた。


 私を産んだのはお前たちだろう、と言ってやりたいと思った回数は計り知れない。子供は親を選ぶことができない。お前がいるからと言うくらいなら、全ての責任を親の勝手で産んだ子供に押し付けるくらいなら、最初から産むなんていう選択をしなければよかったんだ。望んでいたとしてもそうでなかったとしてもどっちでもいいから、結果的にいらないと思うくらいなら中絶して殺してくれればよかったんだ。命なんて、与えてくれなければよかったんだ。


 彼女が両親と違ったのは、そんな感情を勉強へと向けたことだ。おかげで塾へ行かなくても学校の授業は簡単に理解できたし、宿題だってそこまで時間をかけずとも解けた。けれどもその代わりに捨ててきたものもある。


 友人だ。


 お前がいるから、という幼い頃から聞かされ続けた両親からの言葉がまるで呪いのように彼女の心を拘束して、そこに鍵をかけてしまった。私が関われば、きっとみんなが両親みたいになる。小さなことで喧嘩をして、笑顔というものを忘れる。


 友達なんて、いらない。私は私の世界だけで生きていけばいいんだ。お前がいるから。そう言われたときは黙って笑みを浮かべていればいいんだ。仮面さえあれば、私は傷つかなくて済む。


 笑顔という名の仮面をつけ始めて、ほんの少し、世界が変わった。


 中学生になる頃には、亀が歩くスピードのように少しずつではあるけれど、友達とまではいかなくても話せる程度の関係を築けるようにはなってきていた。このままの状態を保てばきっと、みんなが私を友達として認めてくれる。そう思っていた。とある少年――あるいは少女――に出会うまでは。


 その出会いは、中学生になったばかりの頃だった。男の子なのか女の子なのかわからない子――名は七草というそうだ――がいた。ただの思い込みや見間違いなのかもしれないけれど、男子生徒用の学生服を着ているように見える日もあれば、セーラー服を着ているように見える日もあった。男の子だと言われれば確かにそうだと思うだろうし、逆もまた同じようにすんなり頷けただろう。もしかしたら双子の兄弟や姉妹がいて、ときどき入れ替わっているのではないか、と思うことさえあった。


 何を考えているかもわからないし、もしかしたら何も考えていないのではないかというほど、七草は周囲のことに無関心だった。それはきっと、物事に限ったことではなく、人間に対しても、だと思う。実際に柊は、彼あるいは彼女が誰かと話しているところを見たことがなかったからだ。いつも窓越しに外の世界を見つめていて、その眼はなんだかこの世界の終わりを探しているような色をしていた。


 そんな七草にちょっかいを出すようになったのは、そして、ありもしないでっちあげの噂を流すようになったのは、いつからだっただろう。はっきりとは覚えていない。気がつけば彼女は、クラスのリーダーとなって七草をいじめて愉しんでいた。教科書や上履きを隠したりみんなで無視をしたりもした。グループ活動では余りものとして扱うこともあった。こっそり取った教科書をトイレに投げたり、男子はその子を殴って上に跨って雑巾を押し付けたりもした。


 低レベルで単純な、けれども残酷ないじめ。でもそのことに対して、罪悪感を覚えていたわけではなかった。これは神様によって決められた運命のようなもので、仕方のないことだ。そんな認識でしかなかった。そのターゲットの何が気に入らなかったのかと問われれば上手く答えられないけれど、好きか嫌いかの二択で問われれば、迷うことなく「嫌い」と答える確信はあった。


 その理由はとても簡単で、何を考えているかわからないから、という言葉で片付く。両親と同じなのだ、この人物は。何を考えているのか読めない人間は、怖い。ただ、それだけ。関わるのも怖い。でも、わからない人間を野放しにしておくことの方が、もっと怖かった。いつかそんな弱さを知られてしまうのではないか。いつか仮面を剥がされ、お前がいるから、と血縁のない他人からも言われてしまうのではないか。


 好きか嫌いか。答えはもう、出ている。――嫌い。


 あなたがいるから、私はあなたをいじめざるを得ないんだ。


 世の中は、理不尽だ。子供の世界は、残酷だ。ただそこにいるだけでいじめの標的にされる七草も、そう思うだろう。柊は感情のわからない人間はターゲットにされることを知っているから、仮面を被ってでも表情の読める人間になろうとした。いじめが自分に向かないように。お前がいるから、という言葉を、もう二度と自分に向けられないように。


 一つだけ悲しかったのは、皮肉にもその環境が心地いいと感じてしまっていたことだ。不良や非行とまではいかなくても、これでは両親と同じだ。抜け出す方法はある。でも今その方法を実行してしまうと、今度は自分がいじめの対象になる。そして私がちょっかいを出していじめていた七草からも、お前のせいで、と恨みを向けられるだろう。どうしても、その言葉が離れてくれない。思考そのものが、離れられない。言われるのが怖くて、ただ自分が可愛くて。だから中学生の間は、この立場から離れるわけにはいかなかった。高校生になれば、同じ高校に通う人は少なくなるし、遠い地域からやってくる人もいる。あとのことは、その人たちに任せてしまえばいい。


 七草とは違う高校に進んだ。七草は隣町の高校に進学し、柊は地元の高校に進学した。柊の選んだ学校もまた、七草と同じように進学校だった。


 これでようやく、強がらなくて済む。けれどもやはり、柊は仮面をはずすことができなかった。周りの人間全てから認められたくて、愛されていたくて、誰にでも笑顔を振りまいた。誰からも嫌われないように、いじめのリーダーだったことを隠すように、あの言葉を放たれないように、とにかく優等生を演じた。なんてわがままで臆病な優等生なんだろう。


 高校生になってからは、一度も七草の姿を見ていない。結局は、男の子なのか女の子なのかわからないままだった。七草とは、いじめる立場といじめられる立場という形で関わっていたけれど、七草の着ていたものが学ランだったのか、それともセーラー服だったのか、それさえも思い出せないでいる。そして、悪いことをしたと思うこともないままだった。


     * * *


 まずは、柊茉優に復讐する。どういうプランがあって、どういう基準で柊茉優という人間を復讐の最初の対象としたのか、そんなことは僕にはわからないが、とにかく彼女はそう言った。柊茉優のことは中学生のときのことまでしか知らない。と言っても、僕は柊茉優からいじめられる立場だったから、僕が彼女に興味を持つ理由なんて一つもないのだけれど。


 それでも、どんな立場であっても、関係があったという事実は避けられない。少なくとも僕の記憶の中での柊茉優は、こんな自殺をしたがるような人間に復讐をされるほど弱くはない。それはただ、強さというもので覆い隠しているだけなのかもしれない。でも、たとえそうだとしても、きっと柊茉優は彼女に命を奪われることはないだろう。リーダーとなって率先して僕へのいじめを促していたくらいの人物なのだから、自分自身を守る術くらいは、持っているはずだ。


「一筋縄ではいかないと思うけどね」

「知っています」


 彼女はあっさりと頷いた。まるで、僕がそう言うことを知っていたかのような頷き方だった。そして、続ける。


「だからあなたに協力してもらうんです。あなたは死を肯定している、と私に認めてもらいたいんでしょう?」


 僕はなにも、僕の考えを認めてもらうことに固執しているわけではない。確かにそれも一部分である。それは否定しない。でも、僕が彼女に協力する最も大きな理由は、彼女には、あるいは〈僕〉には、僕がいないといけないと思ったからだ。きっと彼女はこれからも自殺をし続け、その度に失敗して、傷を増やすだけの無駄な行為として終わらせてしまう。自分の命が消えてくれないことに対して、絶望したまま生き続けることになる。


 私を殺してください、と彼女は言ったけれど、彼女はきっと、僕に殺してほしいわけじゃない。本当は自分で死んでいきたいのだ。死んでしまいたくて、けれども自分一人では中途半端に終わってしまうばかりで、誰かに手助けしてもらいたいのだ。


 けれども、死んでしまおうと思ったこともない僕に、自殺の手助けを依頼するなんて間違っている。僕なら、一度失敗した時点で、僕は自殺するべきではないのだと諦める。死ねないのなら、死ぬべき時を待つしかない。


 それでも彼女は待てない。何がそこまで精神状態を追い詰めているのかはわからないが、とにかく彼女はこの世から消え去りたいのだ。やはり目の前にいるのは〈僕〉だ。彼女の死にかけの身体が、僕にそう言っている。


「柊茉優に、恨みでもあるの?」


「恨みがなければ復讐しようとは思いません。でも、その行為そのものに恨みなんていう感情が必ずしも必要だとも思いません」


「柊茉優の他にも、復讐する相手はいるの?」


「岡崎拓海という人物です。あなたも知っていると思います」


 確かに僕は、その名前を持つ人物を知っている。岡崎というのは、中学生のとき僕の後頭部を蹴って馬乗りになり、雑巾を押し付けてきたり、教科書を女子トイレに投げつけたりした男子生徒だ。彼がどこの高校に進んだのかは、知らない。


「そもそも」と、僕は続けて尋ねる。


「君は、どうして柊茉優や岡崎拓海を知っているの?」


 見た目だけで考えると、おそらく彼女は僕よりも1つか2つ年下だ。僕は今、一応は大学3年生で、だとすれば彼女も大学生か、あるいは大学に行かずに働いている社会人ということになる。そんな彼女が、同じ中学校にいたかもわからないのに、どうして柊茉優や岡崎拓海の名前を知っているのだろう。同じ中学校に通っていたとしても、彼らを復讐するほどの関りを持っていたとは考えにくい。なにせ彼らは、僕をいじめることに夢中だったはずだし、下の学年の女の子と関わっている場面なんて一度も見たことがなかったのだ。


 けれども彼女は、わかっているでしょう、と言わんばかりの無表情を向けるだけだ。僕に関係している全てのことを、まるで僕に出会うずっと前から知っていたかのように。絆創膏だらけのその顔の奥で、一体彼女は僕に何を伝えようとしているのだろう。


「あなたはあの二人を知っている。だから私も知っている。ただ、それだけのことです」


 僕が彼女の意図を掴めていないのを知ってか知らずか、そう言った。彼女からしてみれば少しでも理解しやすいように言ってくれているのだろうけれど、その言い回しが僕の思考回路をさらに混乱させる。僕があの二人を知っていることと、彼女が知っていることを、「だから」という接続語で結んでしまうことに納得ができない。だってそれらは、本来ならば結べるはずのない事実なのだから。


「そう」


きっとこれ以上訊いても彼女から返ってくる言葉は変わらないだろう。僕は納得するふりをして別の質問をする。


「ところで、復讐するのはいいけれど、君は柊茉優が今どこで何をしているかを知っているの?」


 返事はない。けれどもこれは「はい」の合図であることを僕は知っている。根拠はないが、直感的に、僕はそう思っている。実際に、彼女が「はい」と返事をしていた場合に続く言葉が返ってきた。


「あなたが高校生のときまで暮らしていた場所にいます。柊茉優は、自分が臆病であることに疲れていて、疲れることに臆病になっているので」


 相変わらず、彼女の言いたいことを自分の中で上手く噛み砕くことができない。自分の臆病さに疲れを感じ、その疲れに対して臆病になっている。なんだ、それ。そんなの、無限ループじゃないか。抜け出す術が、ないじゃないか。


「柊茉優が今でもあの場所にいることと、疲れを感じていたり臆病になっていたりしていることとの繋がりが見えないんだけど」


「私があなたの手によって死んでいきたいことと、彼らに復讐をすることとの繋がりと同じだと思ってくれれば結構です」


「それだとさらにわからないな」


「他人に興味のないあなたが小学六年生のときに一度だけ言葉を交わした女の子のことを覚えていることと、私とあなたが出会ってしまったことと同じです」


「出会ったばかりの君に、僕が他人に興味がない人間だなんてあっさり言われてしまうとは思ってもみなかったよ」


これは本心で、一瞬ではあるけれど確かに僕は驚いた。そしてすぐさま、話題を戻す。


「それで、君と彼女は何か関係があるの?」


「それは、あなた次第です。質問ばかりしないでください」


 表情こそは変わらないけれど、僕の質問攻めにうんざりした口調で彼女は言った。さっきまで間を空けることなく僕の質問に答えていたけれど、このときばかりはまるでため息をつくほどの間隔があった。実際には彼女はため息をついてはいないのだけれど、やれやれ、と思っているに違いない。


 あのとき一度だけ会話をした彼女と、目の前にいる彼女。二人が繋がるような部分が見つからない。二人に接点なんてあるのだろうか。そもそも僕は彼女の名前も顔も覚えていないというのに、僕次第だと言われても僕にはどうしようもない。目の前にいる彼女と柊茉優や岡崎拓海との接点すら、僕には見えていないのだ。けれど、これ以上訊いてもあまり意味がなさそうだ。


「悪かったよ」


 どうやら、彼女の言うことにはとりあえず何も言わずにわかったふりをして、ただただ頷いている方がいいらしい。今になって落ち着いて考えてみれば、きっとそちらの方がよほど賢明に思う。それでも、彼女の表情筋が動くことはない。


「そんなにたくさん訊かなくても、行けばわかります。そう言っているだけです」


 言いながら僕から目を逸らし、彼女はベッドから降りてきた。改めて見ると、身体そのものを支えられるのかと心配になるほど、絆創膏や包帯で埋め尽くされた彼女の脚は細くて弱々しかった。本当に、こんな傷だらけの身体で、今にも消えてしまいそうな彼女が、弱者として見られかねない彼女が、僕をいじめていたようなやつらに復讐なんてできるのだろうか。復讐をしている最中に反撃されて、そのまま死んでしまうのではないだろうか。


 死ぬこと自体は彼女が望んでいたことだから、きっと命を落とすという事実そのものには何も問題はないはずだ。でも、ここで重要なのは、もしそうなってしまえば復讐する対象によって命の終わりを告げられるということだ。おそらくそんな死に方は、彼女自身が納得しないだろう。自分で死んでいきたいのだ。あるいは、自分で死ねなかったとしても最悪僕に殺してもらえればいいのだ。彼女の中にあるのは、その二つだけだ。じめじめとした梅雨の湿り気のようなものが、彼女から離れようとしないのだ。彼女の身体を蝕んでいるのも、きっとそれだ。


「行きましょう」


 感情のない顔。温度のない声。睨みつけるかのような、冷たい目。


 僕が彼女をそう見ているように、僕も周りの人間から同じように見られていたのだろうか。


 彼女が手を差し出す。僕はそこに、手を乗せた。しっとりとした季節の中、僕たちのいるこの部屋だけは冷めきっていた。その空気に同化するように、彼女の手は冷えていた。まるで雪のようで、そして死人のようで、湿気を含んだ梅雨の熱に溶かされてしまうのではないかと思うほど、温度のない手だった。


「ナイフ、忘れないでくださいね」





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