表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

死ねなかった、もう一人の〈僕〉




 何か目的があるわけでもなく、僕は大学生になった。つまり僕は、最も大学に入学してはならない人間だということだ。目的がないなら合格しなかった誰かに席を譲れと言われそうなのだけれど、ごもっともな意見なので反論はしない。


 一応3年生にはなったけれど、梅雨の季節になると雨の中登校するのが面倒だという情けない言い訳を作って、僕は学校に行かなくなった。退学したわけじゃない。ただのさぼりだ。アルバイトをしているわけでもなく、サークルに入っているわけでもない。ボロボロのアパートで質素な暮らしをし、ただただその狭くて暗い部屋に閉じこもってだらだらとした時間をそのまま過ごすだけの日々。


 することといえば、酒を飲むか煙草を吸うか、それくらいだ。あ、ときどき外も歩く。散歩だ。おじいちゃんかとつっこまれそうだけれど、まあそんな感じだ。


 もう本当に、ニートだ。僕は周りのやつらより優秀な人間なのだとあれだけ豪語していた人間が、今ではニートに成り下がってしまっている。人生、どうなるか本当にわからない。一度学校をさぼっただけで、僕は俗に言うダメ人間になってしまったわけさ。僕が見下してきた人間たちの方が、僕なんかよりもずっと充実した生活を送っているに違いない。でも、それでもこの歪んだ考え方がなくならないのはどうしてだろう。


 煙草に火をつけ、煙を吸う。この煙を嫌っていた幼い頃の僕は、煙草の何がいいのかが全くと言っていいほどわからなかった。だって小学校や中学校、あるいは高校での授業の中で「煙草は身体に害を与えるものだ」と散々頭に叩き込まれてきていたのだから。


 校則なんていうルールに縛られ、集団という息苦しさに耐えながら僕らは生きていた。どんなに学校生活が楽しく感じていても、所詮僕らは校則という檻に閉じ込められた学生だった。


 高校さえ卒業してしまえば、僕らは自由を手に入れた鳥になれる。社会という大きな檻の中から出られないのは確かだけれど、自分の意志でできることは格段に増える。だから僕は、高校生の頃まで遠い存在だった煙草と酒に手を出した。


 煙草の煙には、吸い始めた頃は嫌悪感を覚えたものだけれど、その煙に脳がどんどんやられていったのだろう、いつの間にかその煙が心地よく感じるようになっていた。きっと僕の肺は真っ黒だ。


 そういえば、サザエさんに出てくる男性陣は酒こそ飲むけれど煙草は吸わないな。そんなどうでもいいことを考えながら、僕は散歩に出かけた。


 気まぐれに動くということは、きっと一番危険だ。


     * * *


 水曜日。平日と呼ばれる5日間のうちの、ど真ん中。煙草を吸った後だから喉の奥に違和感程度の煙たさがあるけれど、脳はすっきりしていた。どうやら僕の脳は取り返しのつかないほど、煙にやられているらしい。


 梅雨入りしてから一度も学校に行かなくなった僕。それ以来ずっと部屋から出なかった僕。煙草にやられた脳でも、このままではいけないとわかったのだろう、比較的過ごしやすい日には僕は散歩に出かけるようにしていた。つまり今日が、その過ごしやすい日ということだ。


 本来ならば真っ青な空がどこまでも広がっているのだろうけれど、灰色のいかにも重そうな雲がその青を全て隠している。太陽に顔なんて出させないぞと言わんばかりの、分厚くて硬い雲。今にも雨が降り出しそうな雰囲気なのだけれど、僕にはこれくらいの明るさがちょうどよかった。


 灰色の見るからに硬くて冷たそうなコンクリートの壁が先までずっと続いている。その塀にいささかの圧迫感を覚えるのは、僕だけなのだろうか。この辺りは昼間だからといって車の通りが多いわけでもなく、昼も夜も静かであることに変わりはない。強いて言えば、夜の方が静まり返っている。そんなことは当然のことなのだけれど。


 道も狭くて、今の僕みたいにこうして歩行者がいると、それだけで車一台通るのには少し厳しい。でも、軽自動車なら少しばかりの余裕はあるかもしれない。それくらい、この道は狭いのだ。


 そんな窮屈な道をずっとまっすぐ歩いていくと、踏切がある。その踏切も、一応は僕の散歩コースだったりする。僕が歩く時間は、どうしてかその踏切によく捕まる。タイミングがいいと言うべきなのか悪いと言うべきなのか。


 いや、今日ばかりは、悪いとしか言いようがないな。


 タイミングが、と言うよりは、状況が、だ。状況が、悪すぎた。


 カンカンカン、と踏切の鳴る音が聞こえ始めた。当然僕は、「またか」という思いになる。まあそんなことはいつものことだから、別に踏切ごときにそんなにイライラすることはないのだけれど。


 けれどもそこには、いつも通りでない光景が、確かにあった。


 完全に閉じられた、黄色と黒の縞模様が入った遮断機。その閉ざされた世界に、いつもならないはずの人影があった。


 その人影というのは後ろ姿だったから、僕と同じ黒髪のショートヘアということと、スカートを穿いているということ、そしてそれはつまり、その人影は女の子であるということしかわからなかった。昔から視力検査ではA評価だった僕。今の今までその視力が下がったことはない。だからこそよく見えた。


 袖のない真っ白なブラウスから伸びる腕はすらりとしていて、パステルブルーのスカートからの脚はまるでモデルのような細さだった。足元に目をやるとどうやら彼女は靴を履いていないようで、僕にはそれが不思議だったのだけれど、そんなことよりも僕が気になっていたのは、カンカンという耳障りな音をあんなにも間近で聞いていながら、どうして彼女は遮断機の間から抜け出そうとしないのだろうということだった。


 僕の足音が聞こえたのか、それとも踏切――正確には遮断機の中にいる彼女に近づく僕の気配を感じ取ったのかは定かではないが(おそらくは後者が正しいだろう)、ほんの少しだけ、彼女がこちらを向いた。髪と同じの、真っ黒な瞳。まだ彼女との距離は少しあるけれど、よくわかる。見ているだけで吸い込まれそうなほど、深く澄んだ黒の瞳だった。


 だけどそんな彼女の瞳に見とれている暇もなく、僕の視界にいる彼女の背後からは、大きな物体が近づいてきていた。僕の焦点は変わらず彼女に合っていたのだけれど、その視界の隅っこに映っていただけでもよくわかる。それは誰にでもわかることなのだろうけれど、僕は確信した。アレはきっと、ものすごく硬い。そしてアレに当たってしまえば、きっと彼女の身体はあの形を留めておけないに違いない。そして。


 このまま僕が動かなければ、彼女が消える。


 僕の脚はいつの間にか動いていた。遮断機の中にいる今にも消えてしまいそうな彼女に向かって、僕の脚は走り出していた。僕が彼女から目を離さなかったのと同じように、彼女も横目ではあったけれどずっと僕を見ていた。そのこともあって、走ってくる僕の姿を捉えていたのだろう、驚いた様子で彼女は身体ごと僕の方を向いた。それでも、今立っている場所から彼女は動こうとしなかったのだけれど。


 彼女の口元が、動く。僕に何かを伝えるかのように。全ての音が踏切の音に遮られて彼女が何を言っているのかは全く見当がつかない。だから僕の脚は、そのまま彼女に向かって走り続けていたのだと思う。

彼女に向かって手を伸ばすと、想像していたよりもずっと簡単に届いた。僕がいくら近づこうと、なぜか手をこちらに伸ばしてこなかった彼女。ただただそこに立っているだけで、僕に何かを訴えかけることしかしない彼女。だから僕の方から彼女の腕を掴んで、彼女をなんとか無理矢理こちらの世界に引っ張った。それは本当に一瞬のことで、彼女が遮断機の世界から出たと思ったその直後、電車がスピードを緩めることなく通り過ぎていった。間近でそれが通過するのを見て、ほっとすると同時に改めて思う。あと少し遅ければ、彼女もろとも僕も死んでいた、と。いじめられてもなお「死んでしまおう」なんていう考えを持たなかった僕にとって、あんな無機質なアレに殺されるなんてまっぴらごめんだった。


 それにしても、だ。さっきから謎なことばかりなのだ。


 鼓膜が破れそうなほど踏切のうるさい音に加えて、電車がこちらに向かってくる音だってそこにはあったのだ。それなのに彼女は、その場から逃げるどころか動こうとしない。僕が彼女に向かって走っていることに気がついた後も、何かを言っただけで手すら伸ばそうとしなかった。まるで自分はここにいるべきなのだと言うように、彼女は僕に引っ張られるまでその場を動こうとしなかったのだ。


 大学生になっても、大学をさぼるようになっても、僕はばかなことをする人間に出会う運命なのか。そう考えてしまうのも、今の僕にとっては無理もなかった。けれども、こんなひねくれ者な僕でも、助けなくてはならないという感情がはたらいたということは、まだ僕にも正常な部分はちゃんとあるということだ。そういうことには少し、安心感を覚えた。


「君、大丈夫?」


 幼い頃からいじめられてきた僕にとって見知らぬ誰か、しかも女の子に声をかけることに計り知れない勇気が必要だったのだけれど、短いながらなんとか話しかけることができた。彼女は力なく僕にもたれかかったままで、離れてくれそうにない。僕としては今すぐ自分の脚で立ってどこかに行ってほしいのだけれど。まあそんなことを言えるはずもなく、仕方なく彼女が動いてくれるのを待つことにした。


「大丈夫なわけ、ないじゃないですか」


 返ってきたのは、僕が想像していた言葉とはかけ離れすぎたものだった。


 僕の腕の中で小刻みに震える小さくて華奢な身体。なぜ遮断機の間にいなければならなかったのか。なぜこんなにも震える必要があるのか。僕にはその理由がさっぱりわからないのだけれど、どうやら彼女が落ち着くまではこのままの状態でいなければいけないようだということは理解できた。


「どうして、助けたんですか」


 しばらくして落ち着いたのか、彼女が言った。身体自体の震えはおさまっていたけれど、声の方はまだ少し、ふり絞ったような感じがした。どうしてと聞かれると特にたいした理由なんてこれっぽっちもないから困るのだけれど。はてさて何と答えるべきか。


 ああ、これだから僕という人間は面倒で嫌なんだ。こういうときになんでもいいからすらすらと何かを話すことができればどれほど楽だっただろう。今さらこんなひねくれ者になってしまった経緯を恨んだってどうにもならないのはわかっているけれど、こんなことが起こると知っていれば、いじめられていても少なくともこんな状況に困ることなんてなかったのに。こんなことを考えているうちは現状を打破するなんて絶対にできない、ということは頭ではわかっているつもりなのだけれど。


 僕の腕の中の彼女が、ゆっくりと顔を上げて僕の瞳の中に入ってくる。必然的に、彼女と目が合う。彼女が遮断機の中にいた時点で瞳の色は見えていたけれど、改めて見るとやはり瞳の黒はどこまでも深く澄んでいる。けれども僕が感じたのは、そういうことではなかった。


 サラサラとした黒のショートヘアがとてもよく似合っているとか、二重でくりくりとした大きな瞳が綺麗だとか、顔が小さいとか、腕や脚が思いのほか細いとか、肌の色と同化して見えなかった頬の絆創膏がやたら大きいとか、よく見ると全身傷だらけだとか、ぶっちゃけ可愛いとか、そういうことではなかったのだ。


僕が感じていたのはそういうことではなくて。




 もう一人の〈僕〉が、そこにいるということだ。




 世界には自分と似た顔を持つ人が三人はいるという話を昔から聞いたことがあるけれど、今僕の目の前で起こっているこの奇妙な現象は、似ているとかいうレベルではない。僕の目の前に〈僕〉がいるのだ。そっくりさんなんてものじゃなくて、まるで僕の生き写しのような人間が、そこにはいたのだ。


 真っ黒でサラサラとしたショートヘア、まるでその子まで僕と同じように引きこもっていたかのような白い肌。そりゃあ彼女は女の子だし、眼の大きさや雰囲気こそ多少の違いはあったけれど、鏡に映った僕を見ているようだった。なんて言うか、きっと僕が女の子に生まれていたとしたら、こんな感じだったのだろうと思わせるものがある。


 双子に見られてもおかしくないような、そんな気がする。いや、確信が持てる。きっと僕らのことを何も知らない赤の他人が僕らを見れば、みんな双子だと思うだろう。でも、ここで一つ問題なのが、一卵性の場合は異なる性別で生まれることはないのだということだ。一卵性双生児だった場合、二人ともが同じ性別でなければならない。だからもし僕らが双子だったとするならば、僕らは二卵性である必要があるのだ。けれどもそこで、また問題が出てくる。二卵性だった場合、こんなふうに鏡を見ているような感覚になるほど似ることはそんなにない。


 そういう意味で僕たちは、お互いが出会ってしまったこの瞬間、奇妙な世界に迷い込んだ。あるはずのない、起こるはずのない現象を、僕たちは体験してしまったのだ。


 僕たちは何を言うわけでもなく、お互いを見つめあったまま、動かなかった。いや、動かなかったわけではない。動くことができなかったのだ。目の前の状況に驚いていたのはどうやら僕だけではなかったようだ。ここにいる〈僕〉も、ただでさえ大きな瞳を、さらに大きくさせていた。真っ黒な瞳の見える面積が増える。僕の焦点はブラックホールに吸い込まれるかのように彼女の瞳の奥へと入っていく。


 何でもいいから彼女が何かを話してくれるのを待った。僕は友達なんて持ったことのない人間だ。そんな人間が簡単に話題を投げかけることができるわけがないだろう。だから僕は、こうやってずるい手段を使ってこの状況を打破しようとするのだ。


 でも彼女は僕の期待には応えてくれなかった。もっと酷い言い方をしてしまえば、彼女は僕の作戦に嵌ってくれなかった。彼女もまた、僕が何かを話し始めるのをじっと待っていた。こういうところまで似てしまうのかと思うと、さすがに彼女に対して申し訳ない気持ちが出てきた。


 さて、彼女が何かしらの話題を始めてくれないとわかった以上、僕が言い出しっぺにならなければならない。けれども何て話しかければいいのかなんてわからないし、彼女がどんな話題に興味があるのかってこともさっぱりだ。まあ、わかったとしてもそれが僕の知らない世界のことならば全くもって無意味なのだけれど。


「君、家はどこ?」


 それは、僕がなんとか喉の奥から絞り出した言葉だ。けれどもやはり、現時点での僕にはこんなそっけない質問しかできない。もっと気の利いた台詞をさらりと言えればいいのだけれど、残念ながら僕にはそんなテクニックは皆無のようだ。


 ここで一つだけ勘違いしてほしくないことがある。こういうときになると困るというだけであって、別にそんなテクニックが喉から手が出るほど欲しいと思うものでもないということだ。初めから何度も言っているけれど僕はひねくれた思考の持ち主だから、悲しいことに今でも僕だけはいくつになっても優秀だと思っているのだ。


 僕だってわかっている。そんな考え方が一番ばかなんだってことくらい。けれどもやはり僕にとってはこう考えて生きている方が落ち着くのだ。だからこそ僕は、おそらく僕くらいしか持ち合わせていないだろうこの脆くて愚かな自尊心を「ひねくれている」と表現するのだ。


「変わってる」


 彼女が言った。僕の質問に対しての言葉ではないということだけはわかった。


「何が」


「あなた以外に誰がいるんですか」


 どうやら変わっているのは僕らしい。確かに僕はそこらへんにいる凡人と同じではない。そういうことは僕だってちゃんと理解している。そしてそれがマイナスの意味にはたらいているということも自覚している。


 けれども、だ。いくら僕と瓜二つとはいえ、出会ったばかりの彼女にそんなふうに断言されると、少しばかり納得のいかない部分がある。こんな遮断機の中でじっとしていた彼女もだいぶ変わり者だと僕は思うから彼女にはっきりと「変わっている」なんて言われたくはないのだけれど。


 それはまあいい。僕がこれから明らかにしていかなければならないのは、こんな僕と同じ顔の人物から見た僕の評価なんかじゃない。そもそも彼女は僕の質問に答えていないのだ。出会ってしまったのだから僕は彼女を家まで送るつもりでいる。出会ってしまった以上、僕たちはもう無関係でいられないのだから。だから僕は彼女に答えてもらわなければならないのだ。


「繰り返し聞くようだけど。君、家はどこ?」


 二度目の、同じ質問。やはり僕はこんな感じでしか彼女に話しかけることができないらしい。そして彼女は彼女で、ただ沈黙を貫くという、こんな反応しかできないらしい。僕は人の心を察知するという能力が限りなくゼロに近いままの状態で大人になってしまったから、彼女が今何を思っているのかなんてこれっぽっちもわからない。


 でも、顔を見ればなんとなくわかる。昔から人間の顔というものだけはよく見てきていた。と言っても、そのほとんどが無視されたり仲間はずれにされたり踏みつけられたりした僕を愉快そうに眺めて笑っていたやつらのばかみたいな顔ばかりなのだけれど。


 結局のところ何が言いたいかというと、つまり彼女は言いたくなさそうな顔をしていたということだ。「あなたのおうちはどこですか」という、幼い子供にでも通じるようなひどく単純な僕の質問に答えたくないという気持ちの表れだった。


 いくら僕がひねくれているとはいえ、だからといって「彼女は自分の家の場所がわからないのだ」なんていう解釈にはならないのは言うまでもないことだろう。言えない理由、言いたくない理由がきっと彼女の邪魔をしているに違いない。


「帰りたくない、とか」


 独り言のつもりだったのだけれど、どうやら彼女に聞こえていたらしく、ハッとする彼女。きっと図星だったのだろう。そんな様子を見て、僕も「しまった」となる。けれども言ってしまったものや聞こえてしまったものは仕方がない。


「悪いですか」


彼女が言った。その瞳は少し、僕を睨んでいるようにも見えた。


「いや。悪いことじゃないと思う、けど」


 けど。


 その先の言葉が出てこない。家に帰りたくないことは悪いことではない。それは僕が一番よく理解しているつもりだ。僕も家には帰りたくないと思っていたから、そういう意味で僕は彼女の言いたいことは把握しやすかった。


 けれどこの逆接の後に続く言葉が見つからない。どんな言葉を選べばいいのか、彼女に何を言うべきなのか、何一つ頭に浮かばない。家族と話し合えば解決するよとか、君は帰りたくないかもしれないけれど家族はきっと心配しているよとか、そんな上辺だけの言葉なんて彼女は求めていないはずだ。僕だってそんな本当かどうかもわからないことは言えやしない。たとえ彼女がその言葉を欲しがっていたとしても、だ。


 これは僕の勝手な想像でしかないのだけれど、きっと彼女も僕と同じなのだと思う。そして僕は、とても小さな確信をする。




彼女は、もう一人の〈僕〉なのだと。

それも、おそらくは〈最悪〉と言っても過言ではないような時間を過ごしてきた〈僕〉なのだと。




 生き写しなんてものじゃない。ましてや双子なんかでもない。この子は確実に〈僕〉だ。


「君は、死んでしまおうと思ったことはある?」


 なんてことを聞き出そうとしているのだろうと自分でも思ったけれど、そう確信してしまった僕はどうしても聞きたかった。彼女にとっては最も答えたくないであろうことなのはちゃんとわかっている。でも、彼女はもう一人の〈僕〉だから。そんなことが正当な理由にはならないのだろうけれど、でも、やっぱり。


 もう一人の〈僕〉が何を見て、何を感じ、どう生きてきたか。知りたくなってしまうのは、仕方がないと思う。たぶんそれだけが理由ではないということはなんとなく気がついているのだけれど、今それを認めるのはなんだか躊躇してしまうから、今のうちはそれだけということにしておく。


「それしか考えていませんと言ったら、どうするんですか」


 彼女が言った。こんなふうに質問で返してくるということは、きっとそれが彼女の答えなのだろう。


「別に何も」


 僕は言う。


「君は僕とは違う世界にいたんだなって思っただけ」


 彼女には、死という選択肢が常に心の中に張り付いていた。でも僕はまるで違った。そんな道を選ぶなんて言う考え自体が僕の中にはなかったし、だからもちろん死という選択肢もなかった。周囲のばかなやつらを見下すことで、そしてこの中で一番優れているのは僕だと思うことで、僕は死というものを自分の体の中から消し去った。


「あなたはよほど幸せな人なんですね」


 彼女のその言葉は皮肉にも聞こえたが、皮肉そのもののことは気にしなかった。


「それは違う」


 僕はすぐさま否定した。


 彼女はとんでもない勘違いをしている。僕は幸せな人なんかじゃない。幸せ者だったら、今の僕はこんなところにいないはずなのだ。小学生や中学生だったころに僕をいじめていたやつらや高校生の頃に僕の陰口を叩いては愉しそうに笑っていたやつらのような、もっとまともな大人になっていたはずなのだ。


 とはいえ、あいつらがばかなのは本当だ。決して人間的に素晴らしいと言っているわけではない。ただ、今の僕のニートぶりに比べれば、あるいは僕の改善する手段もない価値観や思考に比べれば、やつらはずっと人間らしい生活をしているに違いないということだ。だから、死のうと思わなかったことと幸せな時間を過ごしてきたことをイコールで結んではいけないのだ。


 僕の腕の中から離れるように彼女は立った。やはり彼女の華奢な身体は傷だらけで、それを隠すかのように大量の絆創膏が貼られている。僕よりも1歳か2歳ほど年下のように見える彼女。女性と表現するよりは少女の方がまだしっくりくる。


 幼さの残るそんな彼女が、なぜ絆創膏に覆われなければならないのか。


 なぜそんなにも痛々しい姿にならなければならないのか。


 そして、なぜ。


 死んでしまおうと思わざるを得なくなってしまったのか。


 死ねなかったもう一人の〈僕〉が抱えるこれらの理由を、死のうとさえ今まで考えなかった僕が理解するようになるのは、どうやらもう少し先の話らしい。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ