ネルの毒講座
ある日のこと。
「おー、それがおにーさんが今学んでる、気配を抑える技なんだね」
「あぁ、気を抜くとすぐに緩んじまうんだけどな。多少やり方がわかってきたとはいえ、そう簡単じゃないわ、やっぱり。レフィは四六時中これをやってるっぽいが、まだまだそこまで行けんわ」
国の方で一仕事を終え、帰ってきたネルにそう答える。
最近の彼女は、以前より仕事が少なくなったというか、結構頻繁に帰ってくることが出来ている。
余程がない限り、週に一度は我が家に戻って来れるようになっているのだ。
少しずつ勇者の仕事を減らしてもらっている、と言っていたが……うん、嬉しい限りだな。
「まあ、難しいことしてるのは間違いないだろうからねぇ。……それにしてもレフィ、魔法の使い方が大雑把なのに、そういう細かなところの魔力の操作が出来るの、よくわかんないね」
「おう、俺も全く同じ感想抱いたわ」
二人で顔を合わせて笑い、と、ネルは何かを思い出したかのような顔で、ニヤリと笑みを浮かべる。
「そうそう、おにーさん、僕は是非この話をしたいと思ってたんだけど……とうとうレイラも手中に収めたようだね? いやぁ、やりますねぇ、おにーさん! あんなガードの固い子を落とすなんて、大したものですよ」
「手中に収めるって、お前」
もうちょっと他に言い方はなかったのか。
「……決断したのは、俺じゃなくてレイラの方だ。俺は何もしてないし、ただ受け入れただけさ。だから、大したものなのはレイラの方だ」
そう、俺ではなく、レイラが、覚悟してくれたのだ。
俺がしたことなど、彼女のしたことに比べれば、比ぶべくもない軽いものだ。
そういう思いを伝えると、ネルは、クスリと笑う。
「うん、そうなのかもね。でも……フフ、やっぱり嬉しいよ、僕としては。多分レフィも同じ気持ちだろうし、リューも同じ気持ちだと思うよ。レイラのことは……もう家族だと思ってたから、さ。それが本当の形になるのは、嬉しい」
ネルは、微笑む。
心底から嬉しそうな、優しい表情。
俺は、気恥ずかしさから顔を逸らす。
「……それより、お前の様子からして、何か用があったんじゃないのか?」
「あ、そうだったそうだった。おにーさん、今日は時間あったよね?」
「ん、あぁ、大丈夫だ」
すると彼女は、言った。
「それじゃあ、毒! 言葉通りの意味での毒見しよっか!」
「……えっ」
「ドワーフの里と、獣人族の里じゃあ、結局暇がなくて出来なかったからね。はい、これが、リル君に協力してもらって、魔境の森で僕が集めてきた限りの毒ね。じゃ、上級ポーション出して」
俺が以前にあげた、空間魔法が掛かったポーチから、次々と薬草らしきものを取り出し始めるネル。
……ここのところ、リルを連れて、魔境の森で何かやってる時があると思ったら。
俺が何も言えずにいる間に、用意していたらしいすり鉢やら何やらのアイテムで、彼女は手際良く準備を進めていく。
「……え、えー、ネルさん。確かに頼むとは言いましたが……その、突然過ぎて、心の準備が出来ていないと言いますか……」
「甘い甘い、毒を使ってくるような相手は、相手の都合なんてお構いなしだよ! さあ、覚悟を決めて、一杯やろうじゃないか!」
そんな、酒の誘いみたいに言われても。
と、その時、俺達のやっていることに興味を持ったらしく、イルーナとシィがこちらにやって来る。
「何やってるのー? 薬屋さんごっこ?」
「ほんかくてきだネ~」
「あっ、ダメだよ! これね、毒草なの。危ないから、触っちゃダメ」
ネルの言葉に、興味深げに手を伸ばし掛けていた二人は、慌ててその手を引っ込める。
「えっ、毒!?」
「どく~?」
「そう、食べたらゲーゲー吐いちゃったり、苦しくなって倒れちゃったり、身体が紫色になっちゃったり。あと、今日の晩御飯は、確実に食べられなくなっちゃうね」
怖がらせるような声音で、言い聞かせるネル。
「やぁ、こわーい!」
「シィのみずいろのからだ、むらさきになっちゃう!?」
「それは嫌でしょ? だから、ごめんね、今日は夕方までお外で遊んでて。エンちゃんと、レイちゃん、ルイちゃん、ローちゃんにもそう言っておいてくれない?」
「「はーい!」」
そうして、二人は去って行き――と、ネルが不思議そうな顔で俺を見てくる。
「? 何? おにーさん」
「いや、お前もどんどん母親っぽくなっていくなって思って」
「……もう、すぐそういうこと言うんだから」
ちょっと照れたような顔で、パシッと叩いてくるネル。可愛い。
俺は笑って、言葉を続ける。
「しょうがない、広げたままだと幼女らが興味持っちまうから、覚悟決めてやるか。つっても、そんなすぐに毒を覚えられる気もしないんだが」
「大丈夫、おにーさんが感覚鋭いのは知ってるから、臭いと味を一度感じてしまえば、身体が勝手に覚えるよ。そもそもその二つは、ヒトの感覚に残りやすいものだからね」
そうらしいな。
確か……嗅覚と味覚は、密接に繋がってるんだったか?
「それで、まず毒の大前提の知識として。ヒト種が使う毒はね、肉体に作用するタイプのものと、魔力に作用するものの、二パターンに分けられることが多いんだよ。ここにあるのだと、こっち側のが肉体に作用するタイプのもので、こっち側のが魔力に作用するタイプだね」
薬草の束を二つに分け、そう説明するネル。
花や根の形が違うのはわかるが、俺にはただの雑草にしか見えんな。
多少、嫌な臭いがするな、というのは感じるが。
「肉体に作用する、っていうのはわかるが、魔力に?」
「うん、これは特に体内魔力が高い人に多いんだけど、たとえ肉体に大きなダメージを与えるような毒を呑まされたとしても、魔力が作用して、効果を弾くことがよくあるんだよ。だから、その魔力そのものを乱す毒が結構使われるんだ」
「……肉体に作用する毒を、魔力が弾くのか?」
「うん、戦闘を生業にする人だとこれは常識なんだけど、肉体的な怪我なんかは、魔力の少ない人に比べて、多い人の方が圧倒的に治りが早いんだ。魔力が多い人が長命なのは、おにーさんも知っていると思うけど、それも同じことだと思う」
……なるほどな。
魔力という力。
これがあるため、こちらの世界の生物の強度が、前世に比べて圧倒的に高いことはすでによく知っている。
毒、というものに関しても、その理屈が通用するということか。
「けど、魔力が高い相手だったら、魔力に作用する毒薬も大して効かないんじゃないかって思うんだが」
「そうだね。特におにーさんみたいなのが相手だと、普通に調合したような毒は全く効果がないと見ていいよ。でも、魔力の異常な流れを、正常だと騙すような調合だったら、一時的にでも効果を発揮することが出来たりするんだ。はい、これ。まずは臭いを嗅いでから、一口だけ飲んでみて。一口だけね」
そう言ってネルが俺の前に置いたのは、コップの水に、今しがた毒草で作った粉末を混ぜたもの。
……専門家の協力の下、行っていますってテロップでも流さないとダメかもな。良い子はマネしないように。
俺は、若干ビビりながら、手で仰いで臭いを嗅いでみる。
多少、本当に多少、甘い感じがある。
それから、意を決して一口飲んでみる。
「どう?」
「……甘い臭気はあった。味は、薬草らしい苦みが微かにあるな」
すると、ネルは感心したような表情を浮かべる。
「流石だね。それ、人間の間では無味無臭の毒として知られてて、僕なんかは全然わからないんだけど、やっぱりおにーさんレベルの感覚の鋭さになるとわかるんだね」
わかってても食らっちゃうんすけどね。
「おう、けど、特に変化はないぞ? 時間が経つと効果が表れるタイプなのか?」
「じゃあ、試してみようか」
どことなく楽しそうな様子で、ネルは俺の両肩に手を置き――あ?
なんか、変な感じがある。
触覚自体は正常に動いている感じだが、違和感は間違いなくある。
「これでどう?」
「違和感がある。なんか、普通にお前に触られた時とは、感じが違う。……あ、けど、もうなくなったな」
まだネルが俺の肩に手を置いているが、すでに変な感覚は消失していた。
「念のため、上級ポーション飲んでおいて。半分くらいでいいから。――今ね、おにーさんの魔力の流れに、異変が起こっていたんだ。ちなみに僕が訓練でこの毒を舐めさせられた時は、三十分くらい魔力が上手く練れなくて、その弊害か、身体を動かすのも大変になったよ。やっぱり、魔力と人体は深く繋がってるんだろうね」
「……だ、大丈夫だったのか? お前、勇者でも、種族は人間だろ?」
「フフ、大丈夫だよ。この毒は、後遺症が残るタイプのものじゃないから。それに、そういう訓練をする時は、絶対に後遺症を残さないようしっかり医療体制を整えてからやるからさ。訓練で重い後遺症なんて残してたら、バカみたいだし」
「そうか……なあ、ネル。あんまりお前の勇者の活動に口を挟みたくはないんだが……今後、そういう訓練はやめといてくれないか。ネルが軍人だってのは俺も理解してるし、である以上訓練が必要なものだっていうのもわかってるんだが……お前の旦那としちゃあ、不安だよ」
俺の言葉に、ネルはちょっと考えた素振りを見せてから、答える。
「……うん、わかった。そうするよ。まあ、今の僕は、少しずつ勇者をやめていっている身だから、そこまで訓練ばっかりしている訳じゃないんだけどね。おにーさんの言う通り、なるべく危険なことはしないようにするよ」
「お前の行動を制限するようで悪いんだが、頼むよ。……そうだ、ウチの一匹とか、連れてくか? ビャク辺りなら要領も良いし、人間社会にも溶け込めると思うが」
我が家のペットの一匹、大化け猫のビャク。
アイツは、ペット達の中で唯一のメスであり、それが理由かはわからないが、ペット連中の間を取り持つのが上手い。
苦労性であるリルより自由な感じはあるが、しっかり気配りや気遣いが出来るので、リル以外の三匹のまとめ役をしている面がある。
多分、世渡り上手なんだろうな。要領が良いのだ。
見た目に威圧感もあまりないし、人間達を相手にしても上手くやれることだろう。
勿論、戦力としても、魔境の森に相応しいだけのやべぇ力があるので、外に連れて行ったら、存分にネルの助けになるはずだ。
「ビャクかぁ、ありがたいけど、でもあの子だけ連れてったら悪いよ。多分大変な思いさせちゃうだろうし」
「そうか……そうだな。ま、いつでもなんでも頼ってくれ。何かあったら、遠慮しないでちゃんと言ってくれよ」
「うん、ありがと。フフ、おにーさんはホントに、僕らに甘いねぇ」
「お前らが甘やかしてくれるからな。だったら俺も、それに答えないと」
「……それなら、甘えさせてもらおっかな!」
そう言ってネルは、椅子に座っている俺の、その膝の上に座る。
「……毒の講義するんじゃなかったのか?」
「するよ? このまま」
「……あ、あの、集中出来る気がしないんすけど……」
「えー? ダメだねぇ、じゃあおにーさんの頭にしっかり入るように、僕が耳元で囁いてあげる」
ニコニコと楽しそうな、妖艶な笑みを浮かべるネルの毒講座は、そのまましばらく続き――。