閑話:母親
温かな陽が射す、心地良い天気の中。
「さ、おにーさん、こっちだよ」
「お、おう」
ネルに手を引かれ、俺はあぜ道を歩く。
周囲には開けた田んぼが広がり、ユラユラと風に吹かれ揺れている。
民家はまばらに存在するのみで、人の姿もほとんど見られない。時折農作業しているらしいじいちゃんばあちゃんの姿があるくらいだ。
田舎の光景というものは、世界が違っても大して変わらないらしい。
キョロキョロしている俺の考えていることがわかったらしい、ネルは微笑みを浮かべて口を開く。
「何にもないとこでしょ、ここ」
「あぁ、そうみたいだな」
のどかな、どこか郷愁を感じさせる村だ。
――ここは、王都郊外に位置する、ネルが育った村である。
王都から馬車で三時間程の距離にあり、特に優れている訳でもないが別に悪い訳でもない普通の貴族が治めている土地であるらしい。
一応、特産品としてみかんのような果物が採れるそうだが、この国の色んなところで同じ果物が栽培されているため、言う程珍しいものでもないと、ネルは笑いながら説明していた。
まあ、せっかくだし、お土産として幾つか買って帰るとしよう。
と、ネルは俺の様子を見て、クスクスと笑う。
「フフ、もう、そんなカチカチにならなくても大丈夫だって」
「い、いや、そうは言うがな……というか俺、お前の母さんのこと、何て呼べばいいんだ? ノイラさんって呼べばいいのか? それともお義母さんって呼べばいいのか? お義母様とか?」
ノイラとは、ネルの母親の名前だ。
何て呼べばいいんだ、マジで。誰か恋人の親と会う時のノウハウを俺に教えてくれ……。
「えっ、うーん……そう言われると確かに悩むね」
「だろ?」
ネルは、うーむとしばし悩んだ様子を見せてから、徐に口を開く。
「まあ、普通に『お義母さん』でいいんじゃないかな? 名前にさん付けじゃちょっと他人行儀に感じるし、あんまり堅苦しいのが好きな人でもなかったからさ。お義母様なんて呼んだら、きっと苦笑いしちゃうよ」
「……そうか。じゃあ、そうするかな」
過去形で話すネルに、若干怪訝に思ったが、俺は特に疑問を声に出すことなく、そう言って頷いた。
* * *
その後、しばしのどかな農村風景の中を進んで行き、やがて辿り着いたのは、どういう訳か彼女の生家ではなく、一軒の教会。
ネルは別に、教会で育った孤児とかではなく、片親だが普通の家庭で育ったと聞いていたが……。
「こっちだよ、おにーさん」
俺が疑問の声を挟む間もなく、歩き出すネルに手を引かれ、少しして彼女が足を止めたのは――教会の裏手にひっそりと建てられている、綺麗に磨かれた白色の石。
大きな木の木陰にあるその石に、涼やかな風に吹かれて揺れる木漏れ日が射し込み、見ているだけで気分が落ち着いて来る。
何だかこの空間だけ、時間がゆっくりと流れているようにさえ感じる。
……あぁ。
そういう、ことか。
「……いつ頃、亡くなったんだ?」
俺は、一つの名前が刻まれた白色の石――墓石を見下ろしながら、そう言った。
「僕が勇者として訓練を受け始めて、二年半が経った頃かな。おにーさんと初めて出会う、一年くらい前。元々、僕を育てるために大分無理していたみたいなんだけど、それを押し隠して働き続けていたらしくてね。僕が教会に行くって決まってすぐに、身体を壊しちゃって。それでしばらくは病気と闘ってたんだけど……」
「……立派な人だったんだな」
「……うん。とっても立派な人だった。朝から晩まで働いていたのに、いつもニコニコしていて、優しくて。それに、料理とかしょっちゅう失敗する可愛い人でね? 僕が料理を覚えたのも、それでなんだ」
そう語るネルの口調は穏やかで、在りし日の記憶を思い起こしているのか、微笑みを浮かべている。
ネルが教会に行くことが決まって、すぐに身体を壊したということは……きっと、そこで安堵してしまったのではなかろうか。
自分が頑張らずともネルが生きていけるようになり、安心してしまい、今までの疲れが一気にドッと来たと。
……いや、元々限界だったものを、誤魔化し誤魔化し過ごしていただけなのかもしれない。
それを、今まで表に出さなかっただけで。
「……出来れば、生きている時におにーさんのことを紹介したかったんだけどね」
「……あぁ」
俺も、出来ることなら生きている時に挨拶がしたかったよ。
「……あー……これは、聞いてもいいのかどうか、ちょっと聞き辛い質問なんだが……」
「うん? いいよ、何でも聞いて」
俺は、少し言葉を詰まらせながらも、ネルに問い掛ける。
「えっと……お前の父親の墓は、ここにはないのか? もう、故人だっつーのは、前にお前から聞いてるが……」
だが、ここにある墓は一つきりで、刻まれている名前も一つだけだ。
本人がこの木の下を望みでもしたのか、他の墓も近くにはない。
普通は、夫婦ならば隣か同じ墓石の下に埋められるものじゃないだろうか?
「あぁ、僕のお父さんのお墓は、ここからずーっと南東に行った方にあるんだって。お父さんは兵士で、でも戦争で死んじゃったって聞いてる。お母さんはお父さんが死んだ後、僕を安心して生むために、戦乱の続く祖国を離れて、大国で安定しているこの国まで来たんだって言ってた」
……娘のために、か。
だが、それは、生半可な覚悟ではなかっただろう。
夫が死に、勝手のわからない異国の地にやって来て、ロクに知り合いもいない中で娘を生み、育て、働く。
そこに、どれ程の苦労があったのか、容易く言葉にすることなど不可能なはずだ。
「場所は聞いているから、その内お父さんの方の墓参りも行きたいんだけれど……僕が勇者でいる内は、この国を長く離れられないからなぁ」
ちょっとだけ寂しそうな顔をして、そう言うネル。
「……そっか。じゃあ、お前が勇者をやめる時が来たら、墓参りと挨拶を兼ねて、一緒にその場所まで行ってみるか? 勇者お疲れ様旅行だな。まあ、二人きりとはいかんかもしれんが」
「……ん、いいかも。フフ、楽しそう。ダンジョンの皆と一緒に、騒ぎながらの旅行だね。今想像しただけで楽しくなって来ちゃったよ」
「ハハ、そうだな」
それは、さぞ騒がしい旅行となることだろう。
帰ったら、長期間ダンジョンを空けても大丈夫なように、久方ぶりの大改造でも施してみるかな。
今でも侵入者撃退用にペット達がいるが、長く空けるとなると、流石に心配だからな。
――ま、その辺りは、後で考えることにしよう。
「ネル、人間の世界じゃ、死者に祈る時はどうするんだ?」
「えっとね、こうやって、右手を胸に当てるんだ。『あなたがいなくなった今も、あなたのことを思っています』っていう所作なんだって」
俺は、つま先を立てたまま墓石の前で両膝を突くと、彼女に言われた通り自身の胸に右手を当て、眼を閉じた。
――えー……どうも、お義母さん。唐突ですみませんが、娘さんの旦那となり、あなたの義息になりました、ユキと言います。
ホントに唐突だな、と自分でも少し笑ってから、俺は言葉を続ける。
――ネルは、とても立派に勇者の仕事をしています。優しいヤツで、可愛いヤツで、臆病なくせに勇気のあるヤツで。そんな彼女に惹かれ、この度、夫婦として共に生きていくことになりました。
――娘さんのこと、後はお任せください。コイツのことは、必ず守ります。必ず守って、隣で生きていきます。
何があっても、必ず。俺という存在の全て、一片も余さず何もかもを賭して。
――ですので、どうか。安らかに、温かにお眠りください。
「……よし」
瞼を開き、パンパンと膝に付いた砂を払って、立ち上がる。
「ん、お母さんとお話した?」
ネルもまた祈っていたらしい。胸に当てていた手を下ろし、墓石の方からこちらに顔を向けてそう言う。
「あぁ。実は他に嫁さんが二人いるんだが、出来れば許して欲しいってお願いしといた」
「あはは、それは確かに言っといた方がいいかも」
「お前の方も、もういいのか?」
「うん、このヘンな人がおにーさんだよ、って紹介しといた」
「ヘンてお前」
楽しそうにニコニコ笑うネルに、俺は苦笑を浮かべ、墓に背を向けた。
風が吹く。
その風に釣られ、ふと、背後を振り返る。
――柔らかな、微笑み。
ネルにとてもよく似ていて、慈愛の感じられる、優しい微笑み。
木漏れ日の中に揺らぎ、そして、世界に溶けるように、消える。
息を呑み、瞬きをすると、ただそこには木陰に佇む墓石だけがあった。
「? どうかした?」
「……お前のことについて、お許しが得られたってことかな」
「え? どういうこと?」
「さてな」
頭に疑問符を浮かべるネルに、俺は笑い、そして彼女の触り心地の良い手を取った。
「さ、そこまで時間がある訳じゃねーが、軽くこの辺り案内してくれよ。あ、というか、お前の家に行ってみたい」
「え、いいけど、何にもない普通の家だよ? 時々手入れには戻ってるけど、僕もう王都の方で過ごしてるから、ちょっと埃で汚いだろうし」
「いいさいいさ。じゃ、一緒に掃除でも――」