勇者の油断
「ああああああ~~~!!」
――ネルは一人、絨毯の上でのたうち回っていた。
「ぼ、ぼ、僕は、な、何を……!!し、しかも、あんな、あんなことも言っちゃって……!!」
脳裏に強烈なインパクトを残しているのは、この住処の主である魔王――ユキとの一幕。
ずっと嗅いでいたくなるような彼の体臭に、密着した肌から伝わるゴツゴツとした男性らしい身体の感触。
熱い吐息が肌を撫で、間近で視線を交差させた時の心臓の高鳴り。
それら全てがネルの身体の奥底に刻まれ、全く薄れることなく今も彼女を悶々とさせる。
「~~ぜ、絶対おにーさんの血のせいだ!!おにーさんの血、絶対にただの血じゃないって!!」
あんなこと、普段であれば確実にやらないだろうし、しかも人目のあるところとなると、尚更そうだ。
あの時は、ただの興味本位で彼の血を舐めてみたら、何だかとても気分が良く、そして気持ち良くなってしまい……気が付いた時には、もうあのザマである。
イメージとしては……そう、酔った時に近いかもしれない。
軽い酩酊状態となり、理性の箍が少し外れて、本能の部分が剥き出しになった姿だ。
「っっ、あぁぁああぁぁっ!!恥ずかし過ぎるっ!!」
レフィに咎められた辺りで少し我に返り、そしてさらに時間が経って冷静になった今は……もう、しばらく人の顔は見られそうにない。
人前でそんな姿を晒してしまったこともそうだし、何より自分が、本能の部分でそれを望んでいるということを実感してしまったため、恥ずかし過ぎてどうにかなってしまいそうだ。
きっと今の自分は、わかりやすい程に真っ赤になっていることだろう。
だがまあ、幸いここには、他の住人達はいない。
ここは、今まで全く使っていなかったが、ユキが一応城の方に人数分作っておいた個室の、ネル専用の部屋であるため、誰かが入って来るということはないのだ。
「…………でも、おにーさんいい匂いだったな」
絨毯の上に転がったまま、ポツリとネルはそう溢す。
訓練で、男性と一緒になって剣を打ち合うことは多々あったが……しかし、あんなに間近で、『男』という生き物を感じたのは生まれて初めてのことだった。
当然、あそこまで近くで見詰め合ったこともないし、抱きすくめられたこともない。
父親を早くに亡くして母親一人に育てられた身であるため、『男』にあまり慣れていないネルにとって、先程の一件は本当に強烈な経験だったのだ。
「…………あ」
――と、ふと彼女の視界に映ったのは、自身の服に付いた、赤い染み。
「……おにーさんの血、付いちゃったのか」
恐らく、舐めている時に垂れてしまっていたのだろう。
全く気が付かなかったが、かなりべっとりと付いていて、しっかり洗わなければ落ちなさそうだ。
その染みを、彼女はしばし眺めてから――徐に、自身の鼻を近付けた。
「……これ、おにーさんの匂いする」
彼の、血の臭い。
スンスンと鼻を鳴らし、その残り香を吸い込む。
「えへへ……やっぱり、いい匂いだなぁ」
些か自分でも、気持ち悪いことをしている自覚はあるが……しかし、ここには彼女以外誰もいないのである。
気にすることはないだろうと、頬を緩ませていた彼女だったが――。
「あー……ネルさーん、その、そろそろ飯の時間――」
――その時、トントンとノックされ、ガチャリと開かれる扉。
入って来たのは――ちょうど今、彼女が脳裏に思い浮かべていた、一人の青年の姿だった。
「…………お大事に」
「お大事にっ!?」
そう言い残して青年は、自身で開いた扉をパタリと閉めた。
ネルは素っ頓狂な声を漏らしてから、慌てて扉の前まで飛んで行ってからもう一度開き、その向こうにいる彼に弁明する。
「と、というか待って、誤解!!誤解だから!!きっとおにーさんが今思っていることは、絶対に勘違いだから!!」
「俺のことは、気にしなくていいんだ。その……お前が、自分の体臭フェチでも……俺は、受け入れるから」
「そんなの受け入れなくていいからね!?あとそれは誤解だって!!僕は服に残ったおにーさんの残り香を――ってああああ!!何を言っているんだ、僕は!!」
うがああぁっ、と混乱している様子のネルに対し、青年は気遣ったような表情を一転させ、ニヤリと笑みを浮かべる。
その顔を見てネルは、ようやく自分が担がれたということに気が付く。
「っ、か、からかったね、おにーさん!?」
「いや、どちらかと言うとお前が自滅しただけだと思うが」
――た、確かに!
真っ当な反論にネルは数歩たじろいでから、やがてその場にしゃがみ込んで両手で顔を覆い隠す。
「う、うぅ……最近僕、こんなことばっかりだ。もう、駄目、僕は死ぬしかない」
「ハハハ、じゃあ、その屍は俺が拾ってやる」
からからと笑って青年はそう言うと――蹲る少女の身体に腕を通し、そのままヒョイとお姫様だっこの要領で持ち上げる。
「――っ!!な、な、何するのさ、急に!?」
「そろそろ飯だからな。お前を連れて行こうと思って」
「そ、それなら、自分で歩くって!」
「お前、今のまま放っといたら中々こっちに来んだろ。ま、そのまま担がれてろって」
彼女の言葉を全く聞き入れた様子もなく、青年はネルを抱き抱えたまま部屋を抜け、廊下を歩く。
腕の中で感じる、青年の肌の温もりと、彼女がこうなった原因ともいえる、彼の体臭。
ひどく、安心してしまう、彼の匂いだ。
「………もう」
胸中に様々な想いを抱きながら、しかし少女は一言、ただそれだけを呟く。
――やがて少女は抵抗をやめると、コツンと青年の胸に身体を預け、大人しくその腕の中で、しばしの間揺られ続ける。
最近、ダンジョンの住人達に毒され、油断しまくり勇者。