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見えない表情

作者: 西海






 あなたは、大切な人の顔を鮮明に思い出せますか――?












「今日だって……」

 


 私は力なく呟く。


 早朝五時半にベッドから起き上がり、洗面所で顔を洗う。

 昨日と同じ寝癖のついた頭髪を整え、重い足取りでリビングへと向かう。


 食卓にいつもと同じ献立の朝食が並んでいるのも、とっくにお見通しだ。

 リビングの扉を開けた途端、息子が大きな声をかけてくるのも分かっていた。


「お父さん、おはよう!」


 元気な声で挨拶する可愛い一人息子には、やはり、顔を作るパーツが見当たらない。

 だが、顔全体に塗り潰されたように、真っ黒なモザイクがかかっているその姿も、今では見慣れてしまった。


 料理を前にして椅子に座った私に、熱く薫り高いコーヒーを、妻が持ってきてくれる。


「おはようございます、あなた。今日は健太郎が珍しく、早起きしてくれたんですよ」


 妻の奈美恵の身のこなし台詞も、私はいつものことと分かっている。

 

 目の前に展開する光景を、私はもう何度、体験してきたことか。


 妻の顔も全体に、漆黒のモザイクがかかっている。

 それでも、彼女が妻の奈美恵だと私が理解できているのは、見覚えのあるエプロンと、痩せた体型にそぐわない、低いトーン声のおかげだ。


 息子も同様で、私が誕生日に贈ったヒーローものの服と、やや甲高い声が、息子だと教えてくれる。


 朝食を食べ終えてからコーヒーを啜ると、寝巻を着替え、鞄を小脇に抱えて玄関に向かう。


 見送りをする妻と息子に「行ってきます」とだけ言って、家を後にした。


 葉桜の季節も終わり、初夏の匂いがする。

 急ぎ足になると少し汗ばんでくる。

 天候も、連日快晴だった。


 

 半年前ぐらいだった。


 いつものように早起きをし、妻の作る朝食をとって、家を出た。


 人間、生きている間にどのような運命が待っているかなど、分からなくて当然だ。

 予測もつかない事故や事件が唐突に身に降りかかってくる。


 最寄りの駅までの道のりの途中、車道から逸れた大型トラックが、猛スピードで私のもとへ突っ込んできたのも、そのようなことなのだろう。


 私が、記憶の底で最後に耳にしたのは、軋めくブレーキ音だけだった。

 わずかな振動も痛覚も感じないまま、私の意識は深い闇に落ちた。


 今、私は半年ほど前に、大型トラックが事故を起こした、あの道を通って、駅のホームに立っている。

 左右を見回してみるも、そこにはやはり、半年前から続く、今となっては普段の、そして異様な光景が広がっている。


 私と同じ、スーツと鞄を持ったサラリーマン風の男性。

 タイトスカートを履いたOL風の女性。

 子供連れの母親らしき人物。


 様々なタイプの人々が、大勢存在している。


 だが、それらの人物は全て、彼らの着ている服装を見て、私が適当に予想した人物像だ。

 中には男か女か、性別が判断できない服装をした人物もいる。


 彼らの全てが、顔に真っ黒なモザイクをかけられている。


 それだけではない。


 家から駅までの道のりですれ違う人々だって、同じようにモザイクの影が顔の部分に映し出されていた。


 とても現実とは思えない光景だ。


 まともに顔全体のパーツが表に晒されているのは、私だけだろう。

 ここ半年の間、私は他人の『完全な顔』を見たことがないのだ。


 ふと腕時計を見ると、時間は午前の六時一〇分を指している。


 今、私は通勤のために電車に乗っている。

 そして私は、あの数秒した後に、この電車が急停止することを知っている。


『○○駅からの連絡によりますと、この先の踏切に設置されている緊急停止ボタンが押されました。お急ぎのところ誠に申し訳ありませんが、確認作業が終わるまでの間、今しばらくお待ちください』


 案の定だった。


 この出来事も、半年ぐらいの間、一日も欠かすことなく続いている。

 半年もの間、毎日決まった時間に同じ通勤電車が止まってしまうなんて、現実ではありえない出来事だ。


 隣の座席に座る乗客の携帯電話には、あるニュースが流れていた。

 そこにも、半年前から同じ内容のニュースが、全く同じ時間帯に連日報道されている。

 その立て籠もり犯とやらは、もう半年という間も人質を取りながら、コンビニエンスストアーに立て籠もっているのか。


 私は、自分が置かれた状況をまともな感覚で判断できないでいた。


 会社に着くと、顔にやはり影を作った同僚から、気さくな調子で挨拶をされる。


「お前、なんか顔色が悪そうだな」


 そう言われたのは、この半年の間で初めてだった。


 禿げ上がっているはずの頭部にまでモザイクが覆っている上司に挨拶をし、私は自分のデスクについた。


 ここ半年の間、まったく変わりのない書類作に没頭する。

 その一方では、書き連ねている文章の羅列を目にし、どうせ明日になったら同じものを書くことになるんだ、という思いを巡らし、溜息を吐いた。


 定時に退社し、いつもと同じ時間に電車に乗り、帰宅した。

 朝と同様、顔にモザイクをかけた妻の奈美恵と息子の健太郎が、「お帰りなさい」と出迎えてくれる。


 用意されている夕飯も、半年前からずっと同じ献立である。

 食事のカロリーや栄養素も、明日になれば全てがリセットされているそうだから、敢えて不満を口にすることもなかった。


 夜の一一時を回った。

 空に浮かぶ三日月の輝きもご多分に漏れず、半年の間、その形が変化した試しがない。


 一つのベッドで、妻の隣のスペースに入り、互いに「おやすみさない」と声をかけ、目を閉じた。


 でも、



「明日、以前の君の顔を見ることはできるのかな」


 

 つい、問い掛けてしまう。

 半年間も続けている同じ問いに、妻は今日も、何も答えてはくれなかった。


 翌日、私は昨日と数分と違わずに目を覚ます。

 昨日と同じく、顔のない妻と息子が「おはよう」と声をかけてくる。


 こうして、一日が始まり、やがて終わる。


 今日も夜空に浮かぶ三日月は鈍く光を放ち、一日、人の顔を私は見ることができなかった。


 私の身の回りには、あの事故以来、同じ現象が永遠と続いている。


 もしかすると、私はすでにこの世の者ではないのかもしれない。

 よく耳にする幽体離脱とやらで、天井の片隅からじっと部屋の様子を窺っているのかもしれない。


 いやいや、そうではなくて。

 ひょっとしたら夢の中で、これは夢だぞという夢を見ているのかもしれない。

 子供の頃に、夢の中で様々な動物たちと遊んでいて、これは夢なんだなぁ、と思っている夢を見たことがあった気がする。


 私が半年もの間、まったく変化のない一日をループしている原因として考えられる確かなことは、あの大型トラックの交通事故に巻き込まれたという事実に尽きるだろう。


 だとしたら、私はやはりあの時、トラックに轢かれたのだ。


 しかし、轢死して訳ではない。


 その瞬間を境に、私は現実の世界から隔離されたのだ。

 人の顔にモザイクがかかって見えてしまうという、非現実の世界に投げ出されてしまったのだ。


 私の身体は今、現実世界にあっては病院のベッドの上に寝かされているのかもしれない。

 場所は集中治療室だろうか。

 酸素マスクを当てられ、数本の生命維持装置の管を身体に繋がれ、心電図の針が小刻みに波動を伝える。


 そうした中で見る夢は、同じ状況が長々と繰り返され、表情をくみ取るはずの人の顔に黒い影が覆っている夢だ。


 分からない。

 理解できない。


 物事は原因があって、結果がついてくるはずだ。

 

 本当になにも分からない。

 非日常で、不条理な世界の何物でもない。


 辛い。


 決して進むことのないカレンダーを見るのも、もう飽きた。


 これっきりにしたい。

 事態はいっこうに進展しない。


 いいかげんにしてくれ。


 現実世界で、私はどれほどの時間、眠り続けているのだろうか。

 

 私の身体はとてつもなく重傷なのだろう。

意識が回復するまで、この無限ループの毎日に耐えなければならない。


 こうした夢の中でも、精神が削られるということもありえたのには、少し驚いた。


 モザイクの中に隠された妻と息子の「顔」、「表情」が、わずかながらでも私の記憶の中で曖昧にありつつある。

 それこそ霧か靄でもかかったようで、細部になると確信が持てないのだ。


 もう一度、私は愛する妻と息子の笑った顔が見たいのだ、どうしても。


 そういえば。

 私が好きだった小説家のとある作品に、こんな言葉があった。


『夢であれば耐えなければならない。私はそう分かっていながら、そんな苦しい夢から逃れようと焦っていた。

 逃れるためには、どうしても目覚めなければならないのだった』




 さらに、半年が経つ。




 いつからだったろうか。


 もう、私自身の顔も見えなくなっている――。














 あなたは、自分の顔を最後に見たのはいつですか――?








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