夜の声が聴こえた
麻生博章は走っていた。羽織った白衣が翻り、走ることにより纏わりつく空気の抵抗を増すことも厭わず、麻生博章はただ走っていた。
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大学を卒業後、大学院へ進学。そこに特に深い意味はなかった。ただ、就職するのも億劫で、唯一の取り柄でもあった勉学を続ければまだ猶予たり得るのではないかという打算だった。しかも、それが成し得られてしまうだけの頭脳を持っていたのが幸か不幸か、彼は大学院へ苦も無く進学。勉学を唯一の取り柄と自称するだけあって、大学および大学院での研究も日の目を見た。その研究成果のお蔭で国立生物科学研究所への入所も叶い、麻生博章は悔しさも達成感もないまま、博章曰く学生時代と変わらない気儘な研究生活で給料まで貰える環境を手に入れたのだ。だが、それゆえに胸に漂う漠然とした空白。
――俺はこのままで良いのだろうか?
疑問を抱きつつも繰り返す日常という名のルーチンワークを熟していた彼に、ついに転機が訪れる。今朝方あった急な召集。主任室へ行けば、数人の同僚と主任の他、顔だけは知っている研究所所長の姿まであり、内心驚いたのも今では懐かしい。
――未確認生命体を発見。確保した
その呆けるには十分な所長の一言で始まった、新規研究チームの発足通知。未確認生命体と銘打った『彼』の存在についての説明。召集されたスタッフだけで行う国家機密レベルの研究概要。話が進む毎に与太話ではなく事実なのだと認識が浸透してくる不可思議な感覚。その先に訪れた人生最高ともいうべき高揚感。
――『あれ』が被検体だ。個別認識コード・D-00。特殊遺伝子保有の未確認人種だ
そして、移動した先の研究室でその高ぶりは急降下する。『彼』との初邂逅は特殊強化ガラス越しだった。透明な板越しに、『彼』の無機質な黒が自分を映した。いや、正確には『彼』の漆黒に自分が映り込んだに過ぎなかったのだろう。『彼』は何処までも無機質だった。
――D-00は見た目こそ人間と変わらないが、その膂力が異常だ。D-00が本気を出せば、この特殊強化ガラスは勿論、この研究室の重厚な壁さえも幼子が粘土細工を弄るかの如く容易く破壊出来てしまう
ならば、何故『彼』は此処に留まっているのだろうか。何故、半ば軟禁に近いこの状況に甘んじているのだろうか。
――D-00は研究の最大の協力者だ。自らの変異に不安を抱き、自らこの研究所にやってきた
――変異を追求し、研究で知り得た情報をD-00にも隠さず開示することを条件に、私達に自身を研究させることを許可してくれたのだよ
そう言って所長は近くの通信機を使い特殊強化ガラス越しにスタッフの紹介を行うと、この日は解散となった。研究室を去る間際、ガラス越しに『彼』と目が合った気がした。或いは、気のせいかもしれないのだが。
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「おーい、唐揚げ買ってきたぞー」
研究室に入るや否や、他のスタッフには目も呉れずに博章は最奥の個室へ直行する。手慣れた動作で施錠を解除し、壁に向かって茫洋と視線を向けていた『彼』へ声を掛ける。芳しい香りを放つ右手のコンビニ袋を掲げるのも忘れない。
「ひろあき・・・、唐揚げ!」
そうすると、案の定反応を示した『彼』は博章の言葉を理解すると同時に飛び起きて振り返る。その黒い双眸は期待と喜色に染まっており、初邂逅時の無機質さは微塵も見当たらない。これで未だ他スタッフには無表情のままというのが信じられないが、先日も同期の女性スタッフが相変わらず懐いてくれないと愚痴を零していたのを思い出す。もっと前には主任も苦笑しながら似たようなことを漏らしていた。
「ちゃんと指定されたコンビニで買ってきたからな。急いで戻ってきたからまだ温かい。早く食べな」
自分のような研究バカの何が『彼』の琴線に触れたのかは分からない。だが、気が付けば『彼』は自分に近付いてきていて、いつの間にか会話をし、今ではこうして笑顔さえ見せてくれる。気を付けろと言ったのに一口で唐揚げを頬張り、熱い熱いと涙目になりながらも頑張って咀嚼している『彼』は、その辺にいる若者と何一つ変わらないように見えるのに。しかし、その遺伝子情報には確かに【自然界には存在しない】であろう情報が混ざっていた。
――ある日、気が付いたらこうなっていたんだ
思い出すのは、会話するようになってから少し経った日のこと。研究の空き時間に『彼』が零した内容だった。
――本当、つい数日前まではいつもと変わらなかったんだ
――けど、ある日いつも通り物を持ち上げた時に、違和感を感じた
いつもなら少し重いかなと感じるその荷物が、羽毛のように軽々と持ててしまったこと。躓きそうになって咄嗟に掴んだ街路樹が軽々と抉れてしまったこと。五感が異様に鋭敏になってきたこと。そして・・・
――声が、聞こえるんだ
声?――そう聞き返した博章に頷くと、『彼』はまるで他に聴かれるのを避けるように博章に耳打ちしてきた。
――人の、悪感情やそれに準ずる感情の声が・・・勝手にオレの中に入ってくるんだ!
血を吐くような、苦痛に喘ぐような声だった。あの、絶望に色を付けたらこうなるのかという程に深く濁った黒い双眸。唯一の取り柄とばかりに勉学だけを追求してきた博章は、それをこの時ほど後悔したことはなかっただろう。目の前で苦痛に苛まれている『彼』への慰めや励ましの言葉一つ思い付かない。ただ、抱き締めて頭を撫でてやる以外に出来ることなど見付けられなかったのだ。
「博章、君にこの唐揚げを一個分けてあげようじゃないか!」
思考の海に囚われそうになっていた博章を呼び戻したのは、なんとか火傷せずに飲み下すことが出来たのか、嬉々とした顔で唐揚げを一つ差し出す『彼』の声だった。
「お、良いのか?実は俺もこの唐揚げ好きなんだよなー」
「んっふっふー!オレはとーっても心が広いので、きっとこの芳しい香りに空腹を拗らせて、涙目になっているであろう博章に一個分けてあげるのだ!」
心が広いならあと一個ぐらいくれよ。え、それは嫌だ。――そんな会話をしながら、今日も博章は『彼』の体に異常がないか検証していく。いつの間にか気に入られて、それを理由に『彼』の特定監察官兼研究員に任命され、一緒にいることが更に増えて。『彼』のことを知るたびに、胸が締め付けられる。慕われるほどに「兄弟のようだ」と周りに揶揄され、自身も満更ではなくなってきて。けれど続く研究員としての仕事。一日に少量ずつとはいえ何度も抜かれる血液。異常な膂力だけではなく、その比類ない治癒能力から肉片の採取や、本人了承の上とはいえ、酷い時は切断間際の裂傷を与えることも。その他、様々な薬物の試験投与に、加減をしているとはいえ十分に高圧の電気を流して検証することもあった。
――非人道的過ぎます!これでは研究どころか『彼』の生命が危険です!
――これは、その『彼』の希望なのだ!自身が何者なのか、それを理解したいからと!
『彼』の同意なしに検証は実行していない。『彼』にも重々無茶はしてくれるなと頼んでいる。明らかに『彼』が無茶をしていると判断すれば、『彼の希望』があっても検証は行っていないだろう!?――所長の叫びは、正しく慟哭であった。最初は被検体としか見ていなかった。人型であったこと、元・人間であったことに動揺もしたが、皆それでも被検体としての認識が揺れることはなかった。だが、日を追う毎に、『彼』を知る毎に、皆の胸中には鉛が沈んでゆくように苦しいものが生まれてきた。それでも、国家機密としての研究が、一研究所の意思で止められるはずもなかった。なにより『彼』が『自分』を知りたがった。
「レオ・・・」
「?」
最後の一個の唐揚げを咀嚼する『彼』は、博章が漏らした声に首を傾げる。その姿さえあまりに普通で、故に歪で儚げで、底知れない痛みを感じさせる。
「レオ・・・ってどうだ?」
「・・・、なにが?」
怪訝そうに問うてくる『彼』だけでなく、外の研究スペースに居る他スタッフも聞き耳を立てているのがガラス越しに見える。博章は苦笑を漏らすと『彼』の頭に軽く手を乗せ、目を合わせると笑って見せた。
「お前の名前だよ。D-00だと無機質で俺嫌いなんだわ。で、レオ。D-00の00から、00《レオ》。どうよ?」
すると、呆けたように動きを止める『彼』。きっと『彼』にもかつては名前があったのだろう。しかし、この研究所に来たと同時にその名は捨て、D-00が彼の名前に変わったという。被検体としては問題ない名称だ。しかし、『彼』を知るにつれて博章は考えていた。『彼』を名前で呼びたいと。D-00と呼ぶ度に無機質な色を見せる『彼』。D-00と呼ぶ度に僅かに顔を顰める所長や他スタッフ達。かつての名前は教えてくれなかった。所長も主任も知らないらしい。だが、分からないなら新しい名前を贈ったらいいじゃないか。
「い、嫌だったか?・・・やはり安直過ぎたか」
しばし呆けたように固まった後、思い出したように顔を俯かせたまま反応を示さない『彼』に不安になってきた時だった。勢いよく顔を上げた『彼』は、その目を潤ませながら破顔した。その弾みで彼の目の端から水滴がひとつふたつと零れて頬を伝う。
「れお・・・れお、れお。オレの、なまえ。オレの名前!」
まるで大事なものを離すまいとするかのように、『彼』は繰り返しその名前を紡ぐ。博章がその頭を軽く撫でた時だった。
「博章!」
「おぅわ!」
大きな転倒音が室内に響く。感極まったように『彼』が博章に飛びついたため、博章はバランスを崩しそのまま床に倒れこんだのだ。強かに背中を打ち付けた博章は涙目で悶え苦しむが、抱き着いた『彼』の腕は解かれない。
「ありがとう、博章!オレの名前!オレはレオ、レオだよ!えへへ、レオ・・・レオだよ!」
そう言って喜色満遍の笑顔でもって迎え入れられた名前。痛む背中に未だ涙目だが、博章は嬉しそうに抱き着いてきては礼の言葉を繰り返す『弟分』を抱き締め返す。『レオ』は人だ――――それはこの研究チームに属する人間は皆出している結論だった。遺伝子や能力に置いては確かに人外であり、結論は出ていない。しかし、『レオ』の心は、人格は、間違いなく人の物だろう。
個体判別コード・D-00、個体判別名・レオ。
未だ、研究は終わらないし終われないだろう。その結果が『レオ』の心を救うかどうかは分からない。しかし、『レオ』が望む限り付き合おう。もし、研究結果が『レオ』を傷付けるなら支えよう。もし、国が『レオ』を苛むなら、可能な限り壁になり護ろう。未だ、何故自分に懐いたのか――博章にはわかっていない。何故、他のスタッフではなかったのかも分からない。しかし、自分に懐いたこの少年を、最早ただの被検体とは見れない。
「レオ、お前は一人じゃないからな。それを絶対に忘れるなよ」
そして同時に、博章には予感もあった。このままでは済まないだろうという予感が。きっと、ことは大きく変容し、博章たち自身はもちろん、なにより『レオ』はそれに巻き込まれてしまうだろう予感が。
「俺は、お前の味方であり続けよう」
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そして結局何を書きたかったのか・・・纏めきれなかった。
リハビリ作です。ごめんなさい。