13話 #モンスター遭遇
「――待って。なんかいる」
俺の心臓が大きく跳ねた。
どんどんと速くなる鼓動。
耳元でドクンドクンと心臓が脈打つ音が聞こえる。
まるで、鷲掴みにされた心臓の拍動を、耳元で直接聞かされているような、そんな感覚。
空気を吸うことさえ許されない圧迫感。
時が止まったような錯覚に陥る。
少し先に見えたのは――黒い塊。
いや、そこには、
熊のような“黒くて巨大な獣”が立っていた。
なんだ、あいつ――。
全身を覆うのは、闇をそのまま毛にしたような漆黒の体毛。風が吹くたびに毛先がざわめき、黒い波のように揺れている。
その獣の周囲はゆらゆらと陽炎のように揺れ、空気が歪んでいるように見えた。
その頭頂の両端から、内側へゆるやかに湾曲した白く乾いた二本の大きなツノが伸びている。
口元には群列をなす鋭い牙。
それはまるで、獲物を喰らう瞬間を待ちわびているかのようにギラリとこちらを睨みつけている。
グルルルル
黒い獣が低く轟く唸り声を発した。
吐息は獣の生臭さと血の混じった匂いを放ち、鼻の奥を突き刺すような異臭を放っている。
――見ただけでわかる。
こいつは、俺らが敵う相手じゃない。
燃える鮮血のような真っ赤な瞳がこちらを見据えている。
俺たちが獲物としてロックオンされたことが、流石の俺でもわかった。
「は、はると、どうする?」
姉は少し震えた声となり、足を一歩後ろに引く。
と、とりあえず、マップを確認しよう。
いや、そんな悠長なことを言っている場合ではない!!!!
俺の中にわずかに残っている理性的な思考がつっこんでくる。
しかしパニックになった俺は、体が覚えているいつもの行動なのか思考なのかはわからないが、無意識の条件反射でなぜかスマホを開こうとしていた。
俺は何かに操られるようにしてスマホをとり、マップを開いた。
マップには、先ほどまでなかった赤い点が点滅していた。
その点は俺たちが狙っていた点より2回りほど大きく見えた。
真っ赤な光が高速で明滅している。まるで俺たちに“逃げろ!”と警告をしているかのようだった。
その赤い警告が俺の心臓の拍動を促進させ、心臓の音がさらに拡大する。
「……く、気づかなかった。姉ちゃん、ゆっくり後ろに下がって逃げよう」
そして俺は震える声を抑えながら、奴に聞かれないようにそっと言葉を発した。
そいつから目を離さないようにしながら、少しずつ後ろに下がるよう足に命令を下す。
目を逸らした瞬間、あいつの牙が俺の脳幹を噛み砕き咀嚼する未来が容易に想像できた。
「うん」
姉も覚悟を決めたように頷いた。
奴を刺激しないよう、足の震えを鎮めながら後ろに……
――ズンッ!!
地面が震え、黒い影が視界を裂いた。
一瞬だった。
気づいたら黒い影が目の前に――
反射的に息が止まった。空気が一瞬で重くなり、音が消える。
……は?さっきまで向こうにいたのに……!?
恐ろしいほど真っ赤な眼光が、ギラリと蠢いた。
――狙いは
姉ちゃ……あぶな……っ!!
黒い獣は俺には見向きもせず、俺のすぐ横の姉に狙いを定めていた。
潜めていた無数の牙を剥き出し、今にも姉の頭蓋骨を噛み砕こうとしている。
本能が“間に合わない”と叫んでいた。
しかし、俺の体は動いていた。
――パリィ!!
俺は姉を庇うよう右足を前に出し、咄嗟に剣を振り上げて全力で黒い塊を叩きつけた。
バチィンッ!!
火花と共にトラックに轢かれたかのような重い衝撃が弾け、巨大な獣がわずかに後退した。
腕の先から中枢に向かって、痛みを伴う鋭い痺れが走った。振動が脳の奥にまで響き、目の前が一瞬真っ白になる。
「パリィ!パリィ!パリィィィッ!!!」
俺は無我夢中で剣を振った。
スキルが連続発動し、火花が散る。
獣の動きが少し緩んだ――気がした。
「逃げるぞ!!!」
俺は叫ぶと同時に、強く地面を蹴り全力で走り出した。
姉も同じタイミングで地面を蹴り、走り出す。
姉が俺の少し前を行く。
俺は姉の背中を斜め後ろから見つめ、後ろに悍ましい気配を感じながらひたすらに走った。
姉が地面を蹴るたび、癖っ毛の長い黒髪がふわりと跳ねる。
二人のアスファルトを叩く足音が静まり返った街に響きわ渡った。
後ろを振り返るたび、黒い影がすぐそこまで迫ってくる気がした。
心臓が痛みを感じるほどに激しく脈打つ。
俺たちはひたすらに殺気を放つ黒い怪物から逃げた。
「そ、そこ右っ!」
「おけ!」
俺たちは角を曲がり、狭い路地へ飛び込んだ。
壁のポスターが風にあおられ、バサッと音を立てる。
……っ……!
その小さな音さえ、心臓を跳ねさせた。
それでも、俺たちは全速力で走った。
「はぁ……はぁ……!」
呼吸が追いつかない。苦しい。息を吸うたびに喉が焼ける。足ももつれてきた。気持ちだけが先走って、身体が追いついていかない。
しかし、なぜか奴に追い付かれることはなかった。その理由なんてどうでも良かった。
あいつから逃げ切れるなら、なんだって。
俺たちはかなりの距離を全速力で走った。
いや、実際はそんなに走っていないのかもしれないが。
命をかけた全力疾走なんてしたことがなかったから、今までの経験からくる距離の間隔なんて、全く当てにならなかった。
それでもだいぶ走った気がする。
でも、まだ安心はできない。
「も、もう少し……遠くに……!」
さらに一歩、足を前に出した瞬間――
「……っ!? 前っ!!!」
ズンッ!!!!
――姉の声をかき消すかのように、視界の先に“奴”が急に現れた。
さっき逃げたはずの漆黒の獣。
まるで空間をすり抜けたように、目の前に現れた。空気が歪み黒い毛並みが風を裂く。
一瞬の出来事で、何が起きたのか理解が追いつかなかった。
「……嘘だろ、さっきあんなに後ろにいたのに……!」
俺の震えた声は虚しく宙にまった。
奴の血の色を帯びた真っ赤な瞳と目が合った。それと同時に地面が震え、鉄のような臭いが鼻を刺す。
――思考を鷲掴みにされる
「姉ちゃん、下がれッ!!!」
咄嗟にその言葉が出た。体が勝手に強張る。
足が動かない。
叫んだ瞬間にはもう――遅かった。
奴が地面を蹴る音が響いた。
空気が震え、アスファルトがひび割れる。
漆黒に光沢めいた物体が空気を切り裂き、重い影が迫る。
……時間の流れが、ゆっくりになった気がした。
間に合わな……っ!
すると目の前に、見慣れた背中が立ちはだかった。
「いけぇぇぇぇ! アクアジェット!!!」
俺が剣を構えるより前に、姉が叫び杖を大きく振り上げた。
その瞬間、姉の首から下げていたバックから眩い光りが溢れ出す。
……は??
俺の思考が停止した。
全ての動きが引き延ばされ、俺の目にはスローモーションとなって写った。
姉の杖から水弾が放たれ、空気を裂く音とともにつららのように鋭く変形した。
――と同時に、その水の刃は奴の真紅の片目を撃ち抜いた。
不意を突かれた獣が低く唸りながらのけぞる。
――効いた……のか?
しかし、まだ目には光が残っている。
今のうちに――潰すしかない。
俺は剣を握り直し、全身の力を込めた。
次第に刀身の根元から赤い火花が走る。
炎が絡みつくように剣を包み込み、空気が焼けた。
「うあああああッ!!!」
俺は叫びと同時に、勢いよく地面を蹴った。
視界の端が揺れる。
炎をまとった剣を、奴の片目へ――突き立てた。
ブシュッ。
手のひらに生ぬるい感触が広がる。
熱と血と焦げた匂いが混ざり鼻をつく。
間髪入れずもう片方の目にも突き刺す。
剣を引き抜くと、鮮血が弧を描き頬に飛んだ。
鉄と獣の臭気が混ざり合い吐き気がこみ上げる。
――目は潰した。
だが、まだ終わっていない。
「グワアァァッ!!!」
奴の唸り声が静まり返った街にこだました。
毛が逆立ち、気配だけを頼りに俺へ牙を向ける。
――跳んだ。
「パリィ!!!!」
俺は叫び、剣を叩きつけるように弾く。
金属音が爆ぜ重い衝撃が全身を突き抜けた。
俺の体が後ろに弾き飛ばされ、視界が白く弾ける。奴は地面に叩きつけられ土煙が舞った。
「姉ちゃん!逃げるぞ!!」
俺たちは細い裏路裏へ飛び込み、物影に身を潜めた。
荒い息を押し殺す――それでも鼓動だけは爆音のように響いてくる。
「……はぁ、はぁ……苦しい……」
「……はぁ……やばいね……さすがに……逃げ切れた……?」
俺たちは息を切らしながら、小声で言葉を交わす。
奴の気配は――もう、感じない。
「まじ……死ぬって……」
息を吸うたび肺と喉が焼けるように痛い。
酸素が足りない。
心拍が上がりすぎて呼吸が追いつかない。
額から流れた汗が頬を伝って落ちていく。
逃げただけなのに――
腕は痺れ、足はガクガクと震えていた。
奴の匂いがまだ鼻の奥に残っている。
息を吸うたびに、さっき感じた熱と恐怖が形を変えて蘇る。
ほんの一瞬でも遅れていたら――
想像しただけで背筋がぞっとした。
ばあちゃんがくれた武器があって本当に良かった。
これがなかったら、確実に終わっていた。
俺も、姉ちゃんも……。
……俺は剣をぎゅっと握りしめた。
ふと横を見る。
俺の恐怖とは裏腹にどこか楽しそうな目をした姉。
「姉ちゃん?」
「ん?」
「いや、何でもない……」
一瞬、いつもの姉ちゃんじゃない気がした。
疲れてるだけか。気のせいだな。
ピロン、ピロン。
ポケットの中でスマホが震えた。
ビクッ。
反射的に体が跳ねる。
奴に気づかれたかと思い息を止めた。
……静かだ。何も起きない。
胸をなでおろしながら俺はスマホをとりだす。
マップを確認すると、さっきまで赤く点滅していた点は白に変わり、ゆっくりと遠ざかっていく。
――狙われている間は赤く点滅するのか。
逃げ、切れた……?
「はぁぁぁぁ」
安堵と同時に全身の力が抜け、地面に座り込む。
スマホを持つ手がまだ震えていた。
少しずつ呼吸が整っていく。
深呼吸をして俺はゆっくりと通知欄を開いた。
――――
【New!マジカルモンスター遭遇】
――――
……は?
今更こんな通知してくんなよ!!
俺の中に沸々とした怒りが込み上げてくる。
そのとき――
「ねぇ、はると……!」
姉の声が弾んだ。
「うわぁ!すごい!速攻でいいねついた!」
「は?なにしてんの!?」
「いや、初モンスターのこと投稿してみたんだよ。“モンスター遭遇”って!」
「……おま、そんな余裕どこから……」
「だって、こういうの拡散しとかないと!情報共有って大事でしょ?」
スマホの光が、姉の上がった口角をほんのり照らす。
画面には“いいね”“リポスト”“おすすめに急上昇”の文字。
俺は姉ちゃんの投稿を確認するため、Wを開いた。
――――
あや姫(@ayaya-hime…)
熊みたいな牛みたいなモンスターと遭遇!くさすぎー!!!逃げても一瞬で追いつかれた(汗)
アクアジェット使って何とか命拾い…
#モンスター遭遇#魔法
〈返信:39〉〈リポスト:3237〉〈♥5433〉
┗ 豆太郎(@magical-123…):アクアジェット?魔法?どうやって出したんですか?
┗ 本人(@ayaya-hime…): 魔法の杖振る時に、アクアジェット!って言ったら使えました!
┗ 豆太郎(@magical-123…):え?魔法の杖、もう買えたんですか?もしかして、例のマジカルキャンディ当たりの人ですか?
┗ 本人(@ayaya-hime…): まあ、そんなとこですかね笑
――――
「いいねとフォロワーどんどん増えてる!」
ニヤケが止まらない姉……。
こんな時でもSNSかぁ。俺には理解できないな。
なんか戦闘後すぐにSNSを開く姉を見ていると、俺だけ変に焦ってるような気がしてきた。
いや、俺はおかしくないはず。
だって、死にかけたんだから!!!!
リポストが少しずつ増えていく様子を、俺はぼんやりとただ見つめていた。
……その数字の動きが、まるで
この世界の“何か”が拡散を喜んでいるみたいだった。
この時から、いや、もっと前から――
始まっていたのかもしれない。
この時の俺は、この後にあんな別れが待っているなんて思いもしなかった。




