第42話 角が生えたら恋の予感
『……どきどきっ……どきっ……どきっ……どっくん……』
(……や、やばい……めっちゃドキドキする……)
結局、図書館で京鬼が出てきてしまい、読書どころではなくなった鬼渡は本を借り、京鬼の手を引き家に戻って来た。あれから鬼渡に何度も頬をひっぱたかれて正気に戻った京子もまた、先ほどまで図書館で読んでいた読みかけのマンガを手に取っている。……が、向かいで仏教の本を読んでいる鬼渡の方に視線が勝手に動いてマンガに集中できない。
「……ん? どうしたんすか……課長」
「えっ……あっ、な……なんでも……ない」(……ま、まただ……一体どうしちゃったんだろう? あたしの……身体……)
空腹、眠気、胸の鼓動の三重苦に耐えながら京子は必死に読書を続けた。
♦ ♦ ♦
戌の刻。読書も終わり、休日も終わろうとしている。明日はまた通常勤務である。……が、京子の身体は依然として餓鬼の姿のままであった。
「う~~ん……どうするかな。あの餓鬼をもう一度出して……顔を殴って餓鬼が気絶している間に課長に寝てもらう……か」
結局、京鬼が未だに消えない京子を家に泊めることにした鬼渡は京子が京鬼に身体をのっとられずに眠れる方法を考えている。
一方の京子は昨晩からの眠気と空腹から部屋の隅の畳で横になって壁のほうを見ている。
「あの……課長? そんな状態で横になってっと眠っちまいますって。……それともどこか体調が悪いんすか? 」
畳に横たわって芋虫のように身体をくねらせている京子に視線を向ける。
(……違うよぉ。。……苦しいんだよぉ。。)
堪えきれないほどの空腹、睡魔。……だが、それよりも遥かに大きい苦しみの原因が声をかけてくる。そう、京子は気がついていた。昨日から何故、急に京鬼が頻繁に出てくるようになったのかを。それは空腹や睡魔などよりもはるかに大きな欲望の対象がそばにあったからであると。
(……そっか、京鬼は鬼渡のことが……)
京子は自身が抱えている言いようのない苦しみの原因をようやく理解した。
「課長……あの、俺の話……聞いてますか? 」
(ううっ……お、お願いだから……もう、喋らないで……く、くるしい)
苦しい。このまま後ろの声の主の元へ行き、身体をゆだねたい……この1人で抱えている苦しみから解き放ってほしい……そんな欲望が京子を苦しめる。だが、それをしてしまえば、その一番の欲望を叶えてしまったら。自分が消えてしまうことを京子は確信していた。京子はその欲望に必死に身体を震わせて抗おうとした。
……が、そんな抗いの行動とは対照的な言葉が心の奥底から聞こえてくる。
(あたいに身体を渡せばいいさね。……そうすればその苦しみから楽になれるさね……)
京子はその声の主を理解していた。が、その声に耳を傾ける。
(あたいの身体は人間なんかよりもはるかに強い餓鬼の身体。お前なんかよりもよっぽど強いさね。だからあたいに身体を渡せばお前の代わりに烈火と一緒に桃次郎を退治してやるさね。そうすればお前のやりたい真の地獄ってやつを作れる……あたいに身体を渡せばお前の欲望も叶うさね)
その声は京子に甘い言葉をかけてくる。
(そうだよね……あたしのしたいことは、桃次郎を退治して本当の地獄を取り戻すこと……。でも、それってあたしじゃなくたっていいんだよね? 京鬼と鬼渡に任せれば……大丈夫。あたしはもう……要らないのかな……)
そう感じたとたんに次第に周囲の音が聞こえなくなってきた。誰かが……何かが肩に触れている感覚があるような気もするが、もうそんな感覚さえも分からぬほどに意識が薄れてゆく。
(……もう、いいか……お腹もすいた……眠いし……。京鬼に身体を委ねれば……もう、楽になれるんだ……。……ばいばい……鬼渡……あたしの代わりに……京鬼と一緒に……桃次郎を倒してね……)
「ううっ……」
と、京子の身体が小刻みに震えた。
「か……課長?? 大丈夫っすか? 」
鬼渡はそんな京子の肩を何度も揺さぶり、目を閉じたままの京子に話しかけていた。すると、京子はその閉じていた目をぱちりと開け、鬼渡を見つめるとその身体を起こし、満面の笑みを鬼渡の顔に近づける。
「あはっ!! れ~~~っか♪ 」
「……またお前か」
『……シャンシャンシャンシャンシャンシャン!! 』
目の前の人物が京子ではないと分かると鬼渡は手に持っていた鈴を鳴らした。が、目の前の人物は微動だにしない。
「えっ……な、なんで……。いつもなら苦しそうにするはず……」
鬼渡は目の前で表情一つ変わらずに満面の笑みを向けられ続けている状況に動揺した。
「ふふっ、そんな鈴はもう意味ないさね……。あの女はもうあたいに身体を明け渡していなくなったさね。あたいの欲望から楽になりたがって」
「そ……そんな。か、課長が……。か、課長!! し、しっかりしてくださいよ!! 」
(………………)
鬼渡は京子の両肩を掴むと前後に揺さぶった。……が、京子の表情は変わらない。
「ふふっ、無駄さね! もうあの女は戻ってこない……意識もその内消えてあたいの中から完全に消えてなくなるさね。だからあたいが代わりに烈火と一緒に桃次郎を倒して、地獄を作るさね!! さっ、烈火♪ 」
京鬼はそう言うと両手を鬼渡の後ろに回す。が、鬼渡はそれから逃れるように右手で京鬼の顔を遠ざけた。
「ふぐっ!! ……いったぁ……もう、なにするさね……」
「……俺が桃次郎退治を一緒にしたいのは日下京子なんだよ。お前じゃない。……確かに、課長は人型で餓鬼型よりもはるかに弱い。かと言って人型の長所である思考力が優れてるわけでもない。戦闘センスもお前よりも悪いし、九品のランクも俺よりも下。はっきり言って課長の器じゃない」
(…………ふふっ……ずいぶんな……言われようじゃな。。)
京子の人格はまだわずかに京鬼の中に残っていた。その消えゆく意識の中にわずかに聞こえてくる鬼渡の声。最期に聞こえた声が悪口。が、必死に欲望に抗い、疲れ果てた心はそんなことなど気にならぬほどに、とても穏やかになっていた。
「うふふっ、そうさねそうさね♪ だからこそ、あたいがあの女の代わりになるさね。あたいは烈火のためならなんだってするさね。…………だから、烈火も……あたいのこの気持ちに……応えて欲しいさね」
鬼渡の言葉に京鬼は上機嫌になる。そして真っ赤に染まった顔を鬼渡へと近づける。が、鬼渡はそれから逃れるように今度は左手で京鬼の顔を遠ざけた。
「ふぐっ!! 」
「……でも、それなのに何故かあの人には……惹かれる。ここに来て早々餓鬼に捕まって檻の中にいたり、そんな餓鬼のために自分の徳を使って和菓子を買ったり、3000万枚もある調査書を1人で確認しようとしたり、仏教の簡単な絵本で号泣したり……そんなめちゃくちゃな上司だけど……俺は課長と地獄を取り戻す。あの人の部下として俺は戦いてぇ」
(…………鬼渡? )
京鬼の中で聞こえている鬼渡の声。それが先ほどより大きく聞こえてくる。
「そ、そんなことないさね!! あたいの方が絶対に烈火の役に立てるさねっ。だ、だって……あの女が意識を失った代わりにあたいが烈火と一緒に炎鬼、氷鬼とた、戦ったね!! 」
「いや……あの時、課長は本当なら氷鬼に勝ててたんだよ。お前みたいに首に刃を付きつけたらな」
「……えっ」
「でも、あの人はそれはしなかった。あの勝負は殺し合いが目的じゃないって、その目的を見失ってなかったから」
「………………」
「だけどお前は違う。俺が止めた後も戸惑うことなく炎鬼にとどめをさそうとした。お前は……あの人なんかよりもずっと弱いんだよ」
そう言いながら鬼渡は京鬼の左眼を見つめる。餓鬼型になっても変わることのないその真っ赤な綺麗な瞳を……真っ直ぐに。
「い……意味わかんないさね!! あたいの方が強かったのに……れ、烈火はバカさね!! い、今だってほ、ほらっ……あたいがこうして身体を支配してるさね。やっぱり強いのはあたいさね!! 」
鬼渡の言葉に京鬼は声をうわずらせて立ち上がると手をぱたぱたさせたり、足をあげたりして身体の所有者が自分であることを主張する。
「いや……あの人は帰って来るよ……俺は、信じてる」
(……お…に……渡……)
「そ、そんな訳……あの女はもうとっくにいなっなって……いる……さ……ね。うっ……ううっ……な、なんで、まだ……そこにいる……さ……」
「…………課長? 」
先ほどまで手足をぱたぱたと動かしていた京鬼の動きが突然止まった。その様子を目の前で見ている鬼渡はその所有者を確認する。
「ふふっ……そう。……その通り……その通りじゃあ、鬼渡~~~!! あたしは諦めない!! やっぱり桃次郎を倒し、地獄を制圧できるのはこのあたししかいない。分かってるじゃないかぁ~鬼渡~~!! 」
その力強い声と共にその身体は煙に包まれた。そして、その煙の中から現れた身体は京子。人間型の京子であった。
「か、課長!! よ……良かった。あっ、そうだ! 餓鬼は……あの餓鬼はまだ心の中にいるんすか!? 」
「えっ……ん~~……」
鬼渡に尋ねられた京子は意識を自身の中に集中させた。
(……んで……出て……これた……さ……ね。この身体は……あ……たいの……もの……ね)
「う、うん……だいぶ弱弱しい声だけど……まだいるみたい」
「チャンスっすよ!! 課長! そのまま意識を餓鬼に集中させてそいつを自身の中から消し去ってください!! 」
「あっ、うん……わ、分かった」
言われた通り、京子は意識を自身の中に残っている京鬼へ向ける。
(あっ……う……ううっ……や、める……さね……)
次第に京鬼の意識が自身の中から消えてゆくのを感じる。と同時に先ほどまで感じていた空腹や睡魔が無くなってゆく。
(ふふっ、これでお前はもうあたしの中から出てこれないじゃろ? 今、完全にあたしの中から消し去ってあげるから)
(うっ……ううっ……つ、潰される……)
身体を取り戻した京子によって消えつつある京鬼。そんな京鬼のかすかな最期の声を京子は聞いた。
(や……やめてさ……ね。消えたく……ない。……あ……たいはただ、烈火が……好きなだけ……さね。烈火ともっと一緒に……いたい……さね)
(……あっ。…………そっか……そうだよね。。)
その言葉を聞いた途端、京子は意識を自身の外に戻す。
「……いいよ……いて……あたしの中にいて……」
京鬼に話しかける声も意識と共に声に出る。
「えっ……いていいって……ちょ!! か、課長!? 何やってるんすか……ちょっとでも気を許したらまたあの餓鬼に身体を取られますって!! 早く……あの餓鬼を……」
「大丈夫。……もう、大丈夫なの」
慌てている鬼渡に対して優しく微笑む京子。
「だ……大丈夫って……」
「あたし、気がついたんだ。あの餓鬼……あたしの中にいる京鬼もあたしの一部なんだって」
「か、課長の……一部? あの餓鬼がっすか? 」
「うん……お腹がすいてたくさんご飯を食べたいっていう欲も、日々の仕事で疲れててもっとたくさん眠りたいっていう欲も、あたしが持っている欲。そんな自分の欲をあたしは必死で我慢しようとしてた。……でも、どんな生き物だってやっぱり欲はあるんだよ。美味しいものが食べたい。ゆっくり寝たい。そして、好きな人の近くにずっといたい……もっと仲良くなりたいっていう欲もね」
「は……はぁ……」
鬼渡は京子の話を黙って聞いていたが、それが何故京鬼を自身の中に残すという選択に繋がるのかが理解できなかった。
◇ ◇ ◇
(……どうしてあたいを消さないさね)
鬼渡と話している京子に京鬼が話しかけてくる。その問いに意識を内部に戻して答える。
(だって、知っちゃったから……。京鬼がなんであたしの身体をそんなに一生懸命に取ろうとしてたのか……ね)
(…………え? )
(鬼渡ともっと仲良くなりたい……もっと近くにいたい……だから、あたしの身体をとろうとしてたんだよね? )
(あっ……そ、それは……)
(ふふっ……でも、良いよ。それが京鬼の恋……京鬼の欲なら……あたしもその欲を叶えられるように協力してあげる。餓鬼型である間の身体は京鬼が自由に使って良いよ……)
(え……い、良いさね……? あ、あたいが……自由に……使って)
(うん。その代わり、あたしには桃次郎を倒して真の地獄を作りたいっていう欲がある。……だから、餓鬼型以外の身体の時にはあたしの中で大人しくしててね)
(……しょ、しょうがないさね。お前が消えたら烈火が悲しむさね……。だからお腹空いたとか、眠いとかっていうのも……少しは我慢してやるさね……)
先ほどまで意識を握りつぶされかけていた立場であるとは思えぬほどに上から目線の京鬼。それでも京子の気持ちが少しは伝わったようであった。
(ふふっ、ありがとう……京鬼)
京鬼との会話を終え、再び意識を外へ戻す。
◇ ◇ ◇
「でも、欲は生き物が頑張るための力にもなる。だからあたしは……その欲を持って生きる。そんな自分を認めて……ね」
「ん~~……よく分かんないっすけど……とりあえずはもうあの餓鬼は勝手に出てこないってことでいいんすね? 」
「おう!! ばっちりだよ!! あたしは京鬼を抑え込んだんだから♪ 」
「……まぁ、いいか。また出てきたら顔をぶん殴れば……」
「おいっ!! 聞こえてるよ、鬼渡!! 」
いつものように上司の扱いが雑な鬼渡とそれに突っ込みをいれる京子。
(……でも、やっぱり鬼渡は頼りになる。もしも、鬼渡の言葉が無かったらあたしの人格は京鬼に完全につぶされて消えちゃってた……京鬼が好きになるのも……分かるかも……なんてね、ふふっ)
そんなことを頭の中で考えているとその身体は再び煙の中へ包まれる。そしてその煙の中から現れたものを見つめて驚きの表情を浮かべる鬼渡。
「……あ……あの、課長……」
「ん? 何?? 」
と鬼渡の問いに返答する京子。が、その時の鬼渡の声はとても小さく感じた。
「角……生えてます」
「え!! ……嘘!? な、なんで……あ、あれ……い、意識が……と、お……のく……」
鬼渡にそう言われ、慌てて頭頂部を確認しようと両手をあげた……が、意識が途切れ、両手は頭に到着する前にだらりと落ちた。
「……あの、か……課長? ま、まさか……」
心配そうにその様子を見つめる鬼渡を京子は餓鬼型になった身体で満面の笑みを浮かべて見つめ返す。
「あはっ!! 烈火~~~~♪ また会えてうれしいさね~~~~!! 」
「うっ! うわぁああ!! 」
京子は両手を鬼渡の後ろにまわし、顔を鬼渡に近づけてゆく。
(や……やめろぉおお!! あたしの身体で……は、恥ずかしいことをするなぁ~~~~!! )
京子の抵抗もむなしく、京鬼になったその身体は欲望のままに鬼渡に抱きつく。京子は再びあっさりと餓鬼型になってその所有権を京鬼へ明け渡した。
『シャンシャンシャンシャンシャンシャン!!! 』
部屋にはけたたましいほどの大きな鈴の音が鳴り響いた。
仏教では煩悩の消滅、すなわち欲を出来る限り持たない方が良いとされる。それはその湧き上がる煩悩には常に苦がついて回るためである。
だが、生き物は生きている限り常に何かしらの煩悩が湧き上がる。そして、その度にそんな欲を持つ己を嫌悪し、その煩悩を消したいと願うのであれば、その行為自体もまた煩悩であり、苦であると言える。
もしそうだとするのなら、そんな欲望から生まれる煩悩を消そうとするのではなく……そんな自分を嫌悪するのでもなく、その己の煩悩にしっかりと向き合い、理解し、その気持ちを受け入れる方法こそが苦しみから解放される最善の策なのかもしれない。
京子が京鬼の気持ちを理解し、その欲望を受け入れたように。




