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時間にしてはほんの三秒。けれども、申し訳程度の温さを伝えてくる唇と、冷たい指先の感覚が刻まれていく。
わけも分からず始まり、わけも分からず終わった。どこまでも相手本位のキスに、混乱で固まってしまう。
「日比野くん、」
「何その腑抜けた顔。キスくらい何度もしてるでしょ?」
キスもその先も、もはや数えきれないくらい済ませてきた。でもそれは、目の前にいるニセ彼氏となんて、ただの一度もしていない。
日比野くんは今までそんな素振りすら見せなかった。女の子と散々遊んでいるとはいえ、私に対して性的な衝動をぶつけてきたことは本当に一度もなかったのだ。
だからこそ今、俄かに信じ難かった。こんな生産性のないキスを、突然かますような人には見えなかったからだ。
「あ……そうじゃなくて。ごめん、せっかく気遣ってくれたみたいだけど、」
「そこの幼馴染と付き合うことにしたから、もう俺は用済みって?」
「え? いや……」
違う、と弁解しようとして、思わず口を噤む。
いま彼は、絢斗のことを私の「幼馴染」と言ったのか。どうして? 絢斗のことは一切話していないはずなのに。
「さすが経験豊富な奈々ちゃんは違うね。キスくらいじゃ全然動揺しないんだ? つまんないなあ」
つまんないと言いながら、日比野くんは心底楽しそうに口角を上げる。
「まあ、いっか。そこの奴にはかなりダメージ与えられたみたいだし」
その言葉に後ろを振り返れば、絢斗が愕然とした様子で立ち尽くしていた。無理もない。私ですら相当びっくりしたのだ。顔に出ないタチなだけで。
「日比野くん、あの」
「ほらどいたどいた。あー、あんたはこっちね」
通路の真ん中にいた絢斗を押し退け、日比野くんが私の腕を引っ張りながらつかつかと進んでいく。
彼は私の家のドアの前で立ち止まり、あろうことかスラックスのポケットから鍵を取り出した。
「な――何で、鍵」
慌てて自分の鞄の中を確認する。いつも家の鍵を入れているはずのそこは、既に空っぽだった。
まさか、と血の気が引く。
「駄目だよ、大事なものはバレにくいところにしまっておかないと。暗証番号を定期的に変えろっていうのと同じことだよね」
彼が意味のないことをするわけがないのだ。恐らくキスの瞬間、私が完全に油断した隙に鍵を盗ったとしか考えられない。
あっけなく開錠されたドアの向こうへ私を押し込み、日比野くんはそのまま滑り込むように自らも内側に入ってきた。
かちゃりと、無情にも鍵がご丁寧に閉められた音がする。
「どういうつもり……?」
目的こそ不明だけれど、嫌な予感しかしなかった。
睨みつけて問うた私に、冷ややかな笑みを貼り付けていた彼が表情を切り落とす。両腕を伸ばし、私の肩を無遠慮に押した。
「いっ、」
背中から床に倒れ込む。激痛にたまらず顔をしかめた。
「奈々ちゃん……!?」
物音と私の声で、ようやく只事ではないと判断したらしい。絢斗がドアの向こうで焦ったように私を呼ぶ。
「ねえ。もう一度聞くけど、あんたが俺を知ったのはいつだっけ?」
日比野くんが私の顔の真横に足を置いた。靴は脱ぎなさいよ、などと言っている場合ではない。
「だから、二年の時だって……」
「あーあ。せっかくチャンスをあげたのにもったいない。残念だね」
「うっ、」
どかっとお腹の上に座り、そのまま馬乗りの状態で、彼が私の手首を掴む。
「やっぱりなーんにも覚えてなかったんだ。最低で最悪な此花奈々ちゃん」
「何……やだっ! 離して!」
ブレザー、ワイシャツ、とボタンを次々外されていく。日比野くんの手がブラジャーに伸びた時は、さすがに全力で身を捩って抵抗した。
これは、そういうプレイなんかじゃない。本気だ。日比野くんは、本気で過ちを犯そうとしている。
「奈々ちゃん!? どうしたの!? ねえ!」
絢斗もまた、全力でドアを叩いていた。ひ弱な男子高校生が何度叩いたところで壊れも開きもしないのは、この場にいる誰もが分かっていただろう。
だからこそ私は焦ったし、日比野くんは余裕ありげだった。
「ちょっと黙ってくれるかな。ただでさえタイプじゃなくて萎えそうなのに」
「なっ……! 奈々ちゃんから離れろ! バカ!」
私を組み敷く男の手が、太ももの内側を撫でる。
「全然濡れてないけど、突っ込めばどうにかなるかな?」
「やだッ! 嫌! あ、う、」
下着の上から乱暴に擦られ、久しぶりに性行為に対して恐怖と悪寒が蘇った。
どれだけ色んな人と体を重ねても、それとこれとは別だ。この男は、私を傷つけることしか眼中にない。
「奈々ちゃん!!」
絢斗の悲痛なまでの叫びが鼓膜を揺らした。それだけが、今は一筋の光だ。絢斗がここにいなかったら、きっと私は中学生の時のように無抵抗を決め込んでいただろう。
絢斗がいるから、私は――。
「うるさいなあ」
日比野くんが煩わしそうに眉根を寄せる。顔だけドアの方に向け、彼は吐き捨てた。
「そこで黙って聞いてなよ、大好きな奈々ちゃんが喘ぐの。どうせお前は何にもできないんだから」
どこまでも冷徹で無慈悲な言い草だった。容易く反駁すれば、心臓や吐息まで冷凍保存されてしまいそうなほど冷え切っている。
「お前はただの幼馴染だ。何にもできやしない。守ってもらってばかりの、非力なあやちゃんだよ」
抵抗し続けていた体から、なけなしの力が抜けていく。否、正確にいえば、抵抗を忘れてしまうほどに日比野くんの言葉は衝撃的だった。
『あやちゃんは、ずっと私のそばにいたらいいよ。そうしたら、なんにも怖くないもん』
――あやちゃん。その呼び名を使っていたのは私だけだ。それも、昔の私だけ。
「どうして、それを……」
引っ掛かる部分は他にもあった。絢斗を私の幼馴染だと断言したこと、初めて知ったのはいつかと執拗に問われたこと。
日比野くんが俯いている。私の手首をきつく締めている手が、震えている。
「“どうして”? ここまできて、まだ分かんないっていうのか……いい加減にしろよ」
震えて、前髪も、その睫毛も、怒りに染まっていた。激情を押し殺すように彼の喉から掠れた声が漏れる。
「俺の顔ちゃんと見ろよ。日比野静嘉。分かんない? ああ、分かんないか。結局お前らは自分さえ良ければ他の奴なんてどうでもいい。今も、昔も、二人一緒に仲良くしてんだから笑えるよなあ」
は、と呆れたような吐息が私を嘲笑う。
回らない頭を必死に奮い起こして記憶を辿っていた時、ドア越しに絢斗の弱々しいクエスチョンが届いた。
「…………しずか、くん?」
どうやら、絢斗には思い当たる節があるようだった。
未だ分からず眉をひそめる私にはお構いなしに、日比野くんが「正解」と絢斗へジャッジを下す。
「地味で、ドジで、のろま……いっつもいじめられてた、“しずかくん”だよ」
それを聞いて、ようやく、ぼんやりと、記憶の欠片が色を取り戻してきた。
地味でドジでのろま。まるで絢斗のことを揶揄しているようだけれど、違う。
絢斗は確かに鈍くさい。でもそれは、あくまで私がそう思っているだけだ。他の人はみんな絢斗のことを「穏やかで優しくていい子」と言った。むしろ絢斗は昔から要領がいい方で、そんな彼を妬んで、クラスの男子が絢斗をいじめたことがあった、という話なのだ。
だから、そう。常にいじめられていたのは、いじめの標的にされていたのは。
『なあ、ちょっとはしゃべろよ、しずかくーん』
『こいつまじでなんも言わねー! “しずか”じゃん!』
ああ、そうだ。確かにいた。
同じ小学校に、教室に、一人いつも静かに黙りこくっている、眼鏡をかけた男の子が。
「思い出したみたいだね。久しぶり、ななちゃん?」