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「……何、してるの」
かろうじて絞り出した私の問いに、絢斗がえくぼをつくる。
「何って、奈々ちゃんのこと待ってたんだよ」
「何で」
「会いたかったから?」
首を傾げられても困る。聞きたいのは私の方なのだ。
どうしているの。あの日と、こないだと、変わらない調子で笑い続けていられるこの男のことがそろそろ本気で理解できなくて、脳みそが爆発するかもしれない。
「……もう来ないでって、言ったじゃん」
「うん。でも、来ちゃった」
「私に構わないでって言ったのに」
「うん」
ごめんね、と。眉尻を下げて絢斗が笑う。
何笑ってんの。笑ってる場合じゃないんだよ。全然、何にも、可笑しくないよ。
「意味、分かんない……」
喉の奥が熱く振動している。気を抜くと泣いてしまいそうだ。
私は怒っている。むかついて、いらいらして、許せなくて、だからもう泣いてしまいたい。どうして分かってくれないんだと、喚きたい。
涙に理由をつけたかった。絢斗はあっさり私を置いていったのに、私の方だけずっと悲しくて泣いているのが悔しかった。絢斗のために泣くのはもう嫌だ。流した分だけ私の方の天秤の受け皿が重く沈んでいくだけで、それを実感してしまうから、もっと悲しくなる。
嬉しい、と思いたくはなかった。喜んだら負けだ。昔とおんなじだ。
嬉しくない。今更戻ってきたって、私のことを大切にしたって、もう遅い。もう嬉しくない。嬉しくない。嬉しくない。
「彼氏いるって言った! もうあんたとは会わない、会いたくない! 何で分かんないの!? しつこいんだよ!」
ありったけの怒りを込めて、絢斗にぶつける。息を吐きだし、呼吸を整える。
「……うん」
私を見つめる絢斗の瞳は、変わらず優しい。
涙が、出た。
「奈々ちゃん、あの人、彼氏じゃないよね」
俯くと地面が揺れて滲んでいく。重力に従って落ちていく雫は、コンクリートに吸収された。
切り出した絢斗の声色は完全に慰めるトーンのそれで、余計に腹が立つ。腹が立つのに、どんどん涙が出てくる。
「彼氏だって」
「違うよ」
「彼氏なの! あんたも見たでしょ、してるとこ!」
「奈々ちゃんが、僕に、見せたんじゃなくて?」
息を呑んだ。弾かれるようにして顔を上げると、一ミリもへらへらしていない、真剣な絢斗がそこにいた。
数秒の沈黙の後、彼の頬が緩められる。その瞳が、泣きたいと言っている。
「奈々ちゃんの嘘つき。僕、分かるよ。だって奈々ちゃんさ、嘘つく時、いっつも目逸らすんだもん」
馬鹿で純粋な絢斗は、どこにいったんだろう。見たもの、聞いたもの、そのまま信じて疑わない、真っ白でふわふわな男の子。
絢斗はあの時、私の嘘に気が付いていた。つまり、それは。
「僕のこと、そんなに嫌い?」
私に彼氏がいたということではなく、私が嘘をついたこと、そのものに傷ついていた。そういうことだ。
今それを知って、棘が一層深く刺さっていくのを感じた。
「僕は離れてる間、奈々ちゃんを忘れた日なんてなかったよ」
それなのにそっちは忘れたのか――とでも言いたげな口調だった。冗談じゃない。
「そっちこそ噓つかないでよ……」
毎日君のことを考えていたよ、なんて、そんなのは口先でどうとでも言えるのだ。付き合いたてのカップルのようで吐き気がする。
あんたに分かるのか。毎日布団の中で泣きながら越えた夜を。長くて気が遠くなりそうな、深く暗い夜を。
毎日考えていた。忘れたことなんてない。忘れたくても忘れられないから、毎日考えられるのだ。否応なく、何度も何度も。
置いていった側のあんたに、一体何が分かるんだ。
「あっさり行ったくせに……会いたいって言っても、会ってくれなかったくせに!」
本当に私のことを忘れていなかったのなら、寂しいとか辛いとか、そういう感情があって然るべきじゃないのか。そんな程度の気持ちで中途半端に記憶を掘り返されては、たまったもんじゃない。
「先に裏切ったのはあんただよ。許さないから。私を置いてって、一人にして、絶対許さないから!」
そんな程度の優しさで、私を大切にしようだなんて死んでも思うな。拾った愛は責任持って最後まで包み込めよ。それができないなら、最初から何も与えるな。
「奈々ちゃん……」
悔しい。もう会いたくなかったのに、腹が立って仕方ないのに、会えて嬉しいと思う自分がいて悔しい。真っ直ぐに追いかけてくる絢斗を、突き放すことでしか心の均衡を保てないのがやるせない。
だって、どうしたらいいの。
嫌だった。苦しかった。寂しかった。もうあんな思いをするのは嫌だ。冷たいまま放っておいてくれればよかったのに、勝手に手を握って温もりを与えたのは絢斗だ。温かいと知ってしまったら、以前ならどうってことなかった僅かな寒さが沁みて沁みて痛い。
もう失いたくない。また手を離されたら、今度こそ立ち直れないかもしれない。
ようやくこの冷たさに慣れてきたのに、無理やり溶かさないで。
「奈々ちゃん。僕、もうどこにも行かないよ」
あの時の私にとって、絢斗は何物にも代えがたい光であり、温もりだった。きっと、誰よりも大切だった。
認めたくない。私は、もう、大切なものをつくりたくない。いつかこの手をすり抜けて、零れ落ちてしまうから。
「嘘だ……」
怖いのだ。大切なものを、絢斗を失うのが、何よりも怖い。だから、最初から離れたところにいて欲しい。
「嘘じゃないよ。僕の目、見て」
意地を張って俯き続けていたら、絢斗が立ち上がる気配がした。一歩、二歩と距離を詰めて、それから私の顔を覗き込んでくる。
「どこにも行かない。だって、僕、奈々ちゃんに会いたくて帰ってきたんだ。奈々ちゃんのそばに、一番近くにいたかった」
嘘つき。全然説得力ないよ。もっと早く帰ってきてよ。
そう思うのに、じわじわ涙が溢れてくる。止められない。
でも私は、その言葉をずっと待っていた。どこにも行かないよって、あの時、私は絢斗に言って欲しかった。
遅いよ。待ちくたびれたよ。もう見限りそうだったよ。
絢斗が自身の右手を持ち上げる。その指先で、私の涙を拭おうとした時だった。
「――浮気は良くないね、奈々」
かん、かん、と足音が階段をのぼってくる。規則正しいリズムに、ひゅ、と喉が締まった。
「彼氏がいるのに、他の男と逢瀬、ですか」
後ろから腕を強く引かれ、その胸板に背中がぶつかる。間違いない。たったさっき別れたはずの日比野くんだ。
一体なぜ彼が引き返してきたのかは分からないけれど、もう彼氏のふりをしなくてもいいということを伝えなくては。
そう思い、振り返るより先に、日比野くんの手が私の頬を掴む。
強引に顔の向きを変えられ――彼の唇が、そのまま重なった。