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浮かれた声が私たちの鼓膜を揺らした。お決まりのごとく、すぐにインターホンが鳴る。
日比野くんは玄関の方に視線を投げ、それから流れるようにして私を見やった。少し意地の悪い表情。きゅ、と目を細めながら。
「返事しなくていいの?」
まさか、この状況を愉しんでいるのだろうか。彼の顔と声色から察するに、そんな気がする。
返事と言われても。入っていいよ、と促すのも違うと思う。
私が答えあぐねていると、玄関のドアがガチャリと開いた。
「あれ、鍵開いて……」
中をそっと覗き込んできた絢斗が息を呑むのが、はっきり分かった。
互いにはだけたシャツ、露わになった下着、私の上にまたがる日比野くん。
絢斗はその一つひとつを自身の目で確認し、ただ立ち尽くしている。その顔には限りなく驚愕に近い感情が浮かんでいて、一時停止の瞬間のようにも見えた。
「…………なな、ちゃん? 何、して」
絢斗の声が震えている。唇が、瞳が、全て震えている。怯えている、と言った方が正しいのかもしれない。
それは幼少期に初めて見てしまった刺激の強い昼ドラのベッドシーンというよりも、心の準備ができていないままチャンネルを変えて突然見てしまった日曜劇場の殺人シーンに近い驚愕で衝撃。
呼吸も忘れてしまったのだろうか。目を見開いて固まる絢斗の顔をまともに見続けることができず、目を逸らして告げる。
「彼氏なの」
刹那、心臓がちりついた。僅かな痛みが喉を伝ってせり上がってくる。
「今この人と付き合ってる。だから、もうあんたと二人で会うとかできない」
もっとすっきりすると思っていた。絢斗が驚いて傷つく顔を見て、ざまあみろ、私を悲しませた罰が当たったんだ、と清々しい気持ちになると思っていた。
なぜだろう。見られない。目を見開いた絢斗の表情が頭に焼き付いている。彼の傷ついたような顔に、なぜか胸の一番奥が抉られていた。
「……嘘だ。だって、こないだ彼氏じゃないって」
「彼氏だよ。付き合ってる。分かったら、早く行って」
悲しまないで。私が悪いみたいになる。私のことでいちいち喜んだり傷ついたり、惜しみなく感情を受け渡してくる絢斗が、大嫌いだ。そのぶん、私も返さなくちゃいけないって、そう思わせてくるから、大嫌いだ。
私はあんたを大切になんてしないよ。だからもう諦めて欲しい。心の温かい部分に、もう私を含めないで欲しい。
「ばいばい。絢斗」
『ばいばい。あやちゃん』
絢斗がこの町からいなくなった日、背中を見送ったのは私の方だった。
後ろ姿を眺めるのは、苦しくて辛い。だから今日は間違えない。先に手放して、先に背を向ける。
ドアの開閉音がして、足音が遠ざかっていった。それを、ベージュの壁をぼうっと見つめながら聞いていた。
「あーあ、行っちゃった。案外あっさりっていうか、物分かりいいんだね」
私の上から退いて、日比野くんが嘆く。制服を正す衣擦れの音がした。
ううん、違う。絢斗はしつこくて鈍くさい。たった一度で何かを諦めたり投げ出したりすることはないのだ。
今こんなにもあっさり立ち去ったのは、再会してから、私が何度も彼を拒んだからだろう。でも、多分それだけじゃない。
傷ついたから、泣き出してしまう前にいなくなったのだ。私は、私の意思で、行動で、言葉で、明確に絢斗を傷つけた。
「ねえ。あのストーカーのこと、好きだった?」
「……まさか」
未だ床に横たわって起き上がる気配のない私に、日比野くんが問うてくる。その口調は明らかに面白がっていた。
「じゃあ何でそんな顔をしてるんだろうね。奈々ちゃんは」
どんな顔、と聞き返す前に、彼は答えを寄越す。
「まるで浮気現場を見られた彼女。やめてよ、完全に同意なんだからさ。ていうかむしろそっちから誘ってきたんでしょ?」
好きなんだね、可哀想。
くすくすと肩を揺らす日比野くんに、押し黙った。
恋愛感情という定義でいうのなら、私は絢斗のことを好きではない。胸が苦しくなったりときめいたり、熱くなったり、そういう情熱を帯びた感情を私は彼に抱いていない。
ただ一つ言えるのは、絢斗の傷ついた顔を見て、私が傷ついている。それだけだ。
でも、そのそれだけが抜けない棘のように深く突き刺さって、私を巣食っていた。
***
いわゆる雑用係は一か月ほど続いた。
私は昼休みに生徒会室へ通い、日比野くんは帰り道だけ私の家の前まで送ってくれる。
そこまで徹底していると、絢斗が家に押しかけてくることはなくなったし、完全に諦めてくれたのだろう。
ほっとしたのと同時、もともと空っぽだったはずの穴が、更に大きく深くなっているような心地がした。
「日比野くん、もういいよ」
五月の半ば。バスに揺られながら、そう伝える。
「今日で終わりでいいよ。あれから一度も来ないし」
「ストーカーくん?」
窓の外を眺めて頷いた。毎日変わらない退屈な景色なのに、何となく見てしまうのはなぜだろう。
「そっか。まあ此花さんには色々手伝ってもらったし、普通に助かったよ。ありがとう」
相変わらず淡白な返事だ。
彼はこの期間、全くと言っていいほど私に触れなかった。彼氏のふり、といっても、本当にただただ一緒に帰ってもらっただけだ。それ以上を要求するつもりも、必要もなかったという話ではある。
そのままバスを降りて他愛もない会話をしていたら、あっという間にアパートの前に着いてしまった。最初はぎこちなかったけれど、世間話くらいなら難なくできる程度には、日比野くんともコミュニケーションを取れるようになったのだ。
「じゃあ、今までありがとう」
立ち止まって日比野くんに感謝の意を述べる。
いつものごとく頷いてすぐに背を向けるのかと思いきや、彼は黙って私の顔を見つめた。
「……どうしたの?」
沈黙に耐えられず、そう問うた。
凪いだ水面のように静かな彼の瞳が怖くて、けれども危険なものから目を逸らせないのは人間の本能である。
「此花さん。俺のこと、いつから知ってた?」
「いつって……多分、二年の時には何となく顔と名前知ってたと思う、けど」
「何で?」
「え、生徒会長になるとか言われてたし」
ふうん、と彼が半笑いじみた相槌を打つ。諦めたような、小馬鹿にしているようなニュアンス。
「……まあいいや。もう来ないといいね、ストーカー」
それが最後の挨拶だったらしく、日比野くんは今度こそ踵を返した。
結局、彼の質問の意図も、無機質な瞳の理由も分からずじまいだ。分からないことが多すぎて、日比野くんを構成しているのは99%の不可解と1%の水分なのではないかと真剣に考えてしまうほどには謎めいている。
これ以上考えても明快な結論が導き出せるとも思えなかったので、私も大人しくアパートの階段をのぼることにした。
半分ほどのぼったところで、黒くてぽわぽわしたものが視界に入ってくる。どこか見覚えがある気がしつつも、訝しみながら一段、また一段と踏みしめていく。
「……は、」
思わず足が止まった。目の前の光景に立ち尽くす。
膝を抱えて座り込んでいた絢斗が、私の気配に気が付いたのか、ゆっくりとこちらに視線を移す。その目尻が、ほっとしたように弛緩する。
「おかえり。奈々ちゃん」
学ランの第二ボタンに反射した光が、眩しく私の瞳孔を攻撃してくる。柔らかい声に、優しい表情に、絶句した。