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生徒会室。真面目の権化のような場所に足を踏み入れる日が来るなんて思わなかった。
きっちりと整理整頓された資料が、本棚に隙間なく収まっている。
「で、話って何かな」
一番奥の椅子に腰掛けていた彼が、私に問いかけながら足を組んだ。
品行方正な生徒会長であったらそんな仕草はしない。つまり、今は日比野静嘉そのものである、ということだ。
今朝、彼の机にメモを入れたのは私だ。昼休み、話がしたい。端的にそれだけを伝えるために。
「用件はなるべく端的にスマートに済ませたい日比野くんのために、結論から言うけど」
「はは。もしかして根に持ってる?」
「まさか」
今日も彼は浅く笑っている。冷酷な瞳だけをたたえて。
「最近ストーカーにつきまとわれて困ってるから、協力して欲しいの。そいつが諦めていなくなるまで、適当に彼氏のふりでもしてくれない?」
視線がかち合う。瞳の奥の奥まで覗き込まれているようで気味が悪い。彼の放つ空気に圧されている。
でも恐らく、逸らしたら負けだ。
「ストーカー、ね。同じようなこと言って俺と恋人ごっこしたがる女の子いるんだよ。毎回思うんだけど、まず警察に相談するべきじゃない?」
一切の動揺も驚きもない。ましてや、感情の揺れすらないのではないかと思うほど、相手の返答は落ち着き払っていた。
「私がそういうタイプに見える?」
「見えないね。でも、君だったらそれこそ警察に言いそうだけど」
もしかして、と日比野くんが口角を上げる。
「そのストーカーって、こないだの男の子?」
僅かに息を呑んだ気配が伝わったらしく、彼が「そうかあ、ビンゴかあ」と仰け反った。白い喉ぼとけが印象的だ。
「俺の見解だと、良くて幼馴染、悪くて振った相手って感じかなあと思ったけど……どう?」
「……ストーカーに近いものなことには変わりない」
「なるほど」
頬杖をつき、そのついでのように相槌を打った彼に、私は再度頼み込む。
「日比野くんと二人でいるところ見られてるし、それっぽいことしておけば勝手に勘違いしてくれると思う」
「それ俺じゃなくてもいいんじゃないの?」
「厳選した結果だよ。他の人なんてヤることしか考えてないし馬鹿だもん」
「言うなあ。俺も一応健全な男子高校生ですよ」
「日比野くんは馬鹿じゃないでしょ」
まあね、と彼が肩をすくめる。謙遜しないあたり、自分のポテンシャルを重々理解しているようだ。
絢斗は生粋の馬鹿だから、私が言ったことは信じるに決まっているのだ。
確かにこの間、日比野くんのことをただのセフレだと断言はしたけれど、そのあと付き合うことになった、というのは不自然な流れではない。というか、そもそもセフレですらない。
「日比野くんしかいないんだよ、こんなこと頼めるの。だからお願い」
こんなこと頼めるの、ではなく、こんな好都合な相手、の間違いではあるけれど。自尊心をくすぐるには、あなたしかいない、という言い方が効果的である。
何の遮蔽物もなく見つめ合う。日比野くんはにっこりと微笑んだ。
「嫌だね」
「え?」
「だってそれ、俺にメリットある? 此花さんが此花さんの都合で此花さんのために依頼するんでしょ? わざわざ彼氏のふりだなんて、そんな面倒なこと、何のリターンもないのに引き受けるわけないよ」
全く迷いのない答え。まるで最初から用意されていたかのような回答だ。
私はこの人の脳内評価を書き替える必要がある。「ある程度の道徳心を持ち合わせた火遊びを嗜む生徒会長」から、「自己の利益不利益を見極め容赦なく他者を切り捨てる策士家」へ。
「それとも、何かしてくれるのかな。俺を喜ばせてくれるようなこと」
下から私を見上げ、試すように彼が首を傾げる。そのまま続けた。
「ヒント。新学期が始まったばかりで、いま生徒会はてんやわんやです。庶務係の手が足りていません」
庶務ってつまり、雑用じゃないの。
胸中でそう零し、私は渋々口を開いた。
「……分かった。生徒会の仕事手伝うから、こっちの頼みもきいてよ」
日比野くんが姿勢を正す。
「交渉成立だね。じゃあ早速、この資料のホチキス止めお願いできるかな」
本当に早速だな、と思いつつ、彼が顎で指し示した紙の山を見やる。
正直、少し意外だった。確かに雑用は面倒だけれど、この程度で彼氏のふりを引き受けてくれるとは。もっと無理難題を押し付けてくるのかと思っていた。
お世辞にも性格がいいとは言えないにしろ、やはり日比野くんに頼んで正解だったのかもしれない。
だって、彼の目はどこまでも冷たくて、何をどう間違えても私に好意を持つようなことは起こりえないと断言できる。それが安心材料であり、彼に頼もうと思った一つの大きな理由でもあった。
「ねえ、奈々ちゃん」
「別にここで恋人ごっこしなくてもいいんだけど」
「練習練習。……ねえ、例のストーカー、なんて名前?」
「暮町絢斗」
「ふうん」
聞き返してくることもなければ、反芻もせず。名前なんか聞いてどうするのだろう。
彼の顔がほんの一瞬、強張ったような気がした。
***
「どうぞ。入って」
立ち止まった日比野くんにそう促し、廊下を進んでいく。
彼はゆっくりと視線を巡らせ、「お邪魔します」と礼儀正しく挨拶を入れた。
家に入った途端、高圧的になったり顔をだらしなく緩めたり、そんな男は腐るほどいるけれど、日比野くんは一切変わらない。穏やかな表情を浮かべながら、どこか冷めた目で私のテリトリーに足を踏み入れる。
彼氏のふりをして欲しい――その決行のチャンスは思ったよりも早く訪れた。
家のすぐ近くで、またしても絢斗と出くわしたのは昨日のこと。気まずくてそのまま素通りしようとしたところ、呼び止められてしまったのだ。
さすがの絢斗も通常よりかは元気がなさそうで、けれどもめげていなかった。
『いくら奈々ちゃんのお願いでも無理だよ。いっぱい話したいし会いたいし遊びたい』
このままだときっと、また押しかけてくるだろう。
だから私は、分かったような顔をして絢斗に言い渡した。じゃあ明日、うちに来て、と。
「日比野くん、そこに座って」
リビングに続くドアを開け放ち、玄関からちょうど見える位置に腰を下ろしてもらう。
その目の前に、向かい合う形で私も座り込んだ。そして、彼の両肩を掴み押し倒す。
「随分積極的だね」
私が押し倒したというよりも、私の意図を察して倒れてくれたのだと思う。無抵抗に組み敷かれている日比野くんが、皮肉っぽく告げた。
「時間がないの、もうそろそろ来るだろうから。してるとこ見せるのが一番手っ取り早いでしょ」
ブレザーを脱ぎ、制服のリボンを外す。ワイシャツのボタンに手を掛けたところで、彼が「なるほどね」と息を吐いた。
「せっかく二人でいるのに、自分で自分の服脱ぐなんてナンセンスだよ」
「は――」
彼の顔が近付く。否、彼が起き上がって、その代わりに私を文字通り押し倒した。ネクタイを緩めながら、気怠そうに前髪を掻き分けている。
「要するに、さ。好きだとか愛してるとか、寒気がするようなこと言って善がってればいいわけでしょ」
「……そこまでしなくていい」
「ふーん。喘ぐ役は奈々ちゃんがやってくれるんだ?」
「だから、フリでいいんだってば」
分かってるよ、と日比野くんがスラックスのベルトを外しつつ、腰を押し付けてきた。
「ほら、全く反応してないし。どう足掻いてもフリにしかならないから安心して?」
怒ればいいのか悲しめばいいのか。絶妙に失礼な物言いに呆れていた時。
「奈々ちゃーん!」