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カップラーメンは三分。外側の薄い透明フィルムを剥がして、蓋を開ける。
お湯を注いで待つ間、テレビのチャンネルを頻繁に変えた。クイズ番組もバラエティー番組も特に見る気が起きなかったので、画面を消す。
スマホで適当に音楽を流しながら、SNSを巡回していた時だった。
唐突にインターホンが鳴る。
うちは宅配なんて滅多に来ない。夜、しかも平日に母が帰ってくるとは思えないし、そもそも母はインターホンを鳴らす人じゃない。
重い腰を上げて玄関に向かう。ドアの覗き穴からその人物を確認し、うわ、と声が漏れた。
「奈々ちゃん! こんばんは!」
ぶれない笑顔と無駄に大きい声。そこに立っていたのは、言うまでもなく絢斗である。
こないだはっきりと拒絶したのに、何事もなかったかのようだ。普通の人なら確実にもう話しかけてこないであろう態度を取ったはず。
意味が分からない。というか、理解できない。そろそろ絢斗を宇宙人に分類してもいい気がする。
「奈々ちゃん、開けてよ! いるの分かってるんだよ?」
「不審者だって分かってるのに開けるバカいないでしょ」
「不審者じゃないよ!? 飴あげるからおいで、とか言わないもん!」
何を言ってるんだこいつは。
呆れて言葉が出ない。いまどき、小学生だって「飴あげるからおいで」とそそのかされてもついていかないと思う。
「おかず持ってきたよ! いっぱい作っちゃったから奈々ちゃんにあげるって!」
恐らく絢斗のお母さんが彼に持たせたのだろう。
小学生の頃、絢斗の家でご飯を食べるようになったのは、こうして絢斗が私のところにおかずを持って押しかけてきたのがきっかけだった。
「……いらない。帰って」
「えー!? 何で? せっかく持ってきたのに!」
「もうご飯食べたから」
息を吐くように嘘をついた。本当はテーブルの上にカップラーメンが置いてある。
と、ちょうどタイマーが鳴りだして、三分経ったことを知らせた。
急いでキッチンに戻る。
「ねーえー! 奈々ちゃーん! あーけーてー!」
絢斗を放ってタイマーを止めに行っていたら、ますます大きい声でごねだした。しかもそれが近くの住民にも聞こえたらしく、「うるさい!」と怒鳴り声が飛んでいる。
クレームが入ってトラブルになったら面倒だ。ただ面倒なだけではなく、母になんて言われるか分からない。
外はうるさいし、ラーメンは伸びるし。
「あー、もう……」
ドアを開けた。おどおどしている絢斗の首根っこを掴んで、思い切りこっちに引き寄せる。ぐえ、とカエルのような音が聞こえたけれど気にしない。
絢斗を叱っていたのは、常日頃から小言の多い薄毛のおじさんだった。
すみませんでした、と事務的に述べて、絢斗にも頭を下げさせる。
「ゴメンナサイ」
「全く、急にびっくりするだろ。気をつけなさい」
おじさんの長いお説教を回避すべく、絢斗を玄関に押し込み、「はい、ちゃんと言っておくので」と半ば強制的に話を畳んでドアを閉めた。
「はー……怖かった……」
肩を落とした絢斗が深々と息を吐く。
「あんたが声でかいからだよ。近所迷惑だからやめてよね」
「うん、気を付ける。ごめんね」
靴を脱いで廊下を数歩進んだところで、「奈々ちゃん」と呼び止められた。
仕方なく顔だけ振り返る。ラーメンが伸びるので早くして欲しい。
「僕、中入っていいの?」
「帰りたいなら帰れば。今出たらさっきのおじさんに会うかもよ」
「え! それはやだ!」
「じゃあ早く上がりなよ」
「うん。お邪魔します」
ぺこりとお辞儀をして、絢斗がスニーカーを脱ぐ。それをきちんと揃えてから私の後ろをついてきたので、全然変わっていないな、と思った。
「奈々ちゃん、嘘ついたでしょ」
部屋に入って早々、絢斗がカップラーメンを指さす。
蓋を開けてみたけれど、一口も食べていないのに減るどころか増えていた。完全にぶよぶよだ。
「何が?」
「ご飯もう食べたって言ってたじゃん!」
「これは食後のデザート」
「また嘘つくー! あ、そうだ」
紙袋からタッパーを取り出して、絢斗は得意げに私を見やる。
「沙織ちゃん特製、豚の生姜焼き! すっごくいい匂いでしょ」
どうだ、と言わんばかりに蓋を僅かに開けて見せびらかしてきた。そもそも自分が作ったわけでもないのに、なぜ彼がそんな顔をしているのか。
沙織ちゃん、というのは絢斗のお母さんのことだ。彼は昔からそう呼んでいる。
「ほらほら、匂い嗅いでたらお腹空かない?」
「あんまり傾けると零れるよ」
そそっかしいというか何というか。体は大きくなっても、彼の根本的な部分は変わっていないらしい。
と、その時。ぐうう、と空腹を告げる音が鳴り響いた。
「…………や、やっぱり、奈々ちゃんお腹空いてたんだね」
「あんたの音でしょ」
「へへ」
いや、へへ、じゃなくて。
時刻は十八時過ぎ。家で夕飯を取る前にここへやって来たのだろう。
立ち上がり、食器棚からお椀を一つ持ってくる。
「麺伸びたの、あんたのせいだから」
重量の増したちぢれ麺を半分そこに移して、絢斗に押し付ける。
こんなに伸びてしまったら美味しくないし、一人で食べきるのは結構大変だ。
「え、僕の?」
「責任取って半分処理して。どうせお腹空いてるんでしょ」
ありがとう、と頬を緩めた彼が、お椀を受け取った。なぜお礼を言われたのかは不明だ。
「奈々ちゃん、僕の方、あんまり具が入ってない」
「……じゃあこっち食べな」
「あ、エビいっぱいいる」
そういえば絢斗はエビが好きだったな、とこのタイミングで思い出す。夕飯にエビフライが並んだ時は、ずっとご機嫌だった。
物思いに耽っていると、連鎖反応的に様々なことを思い出しそうで怖かった。いや、もう既に思い出しつつある。
頭の奥に追いやっていた記憶が、嬉しかったこと、悲しかったこと、全てを交えて少しずつ浮き上がってくる。
『正直、もう関わりすぎない方がいいと思うの。絢斗にも何か影響を与えちゃうんじゃないかって――』
からん、と箸を落とした音で我に返った。
目の前で飛び散ったスープを早く拭き取らなければならないのに、手が、指先が震える。
「奈々ちゃん? どうしたの?」
今のは、いつの記憶だ。どうして今まで忘れていた。
違う。不必要だから、自分の中で優先順位が低くなったから、見つけづらくなっただけだったんだ。
もう、絢斗には会えないと思っていたから。
「……帰って」
「え?」
彼が腑抜けた顔で固まる。
「帰って。早く」
「何で? どうしたの急に、変だよ」
具合悪いの? と不安そうに眉尻を下げる絢斗に、私は首を横に振った。
「もうここに来ないで。ご飯持ってくるとか、そういうのもいらないから。私に構わないで欲しい」
「無理だよ! せっかく久しぶりに会えたのに……」
「絢斗」
真っ直ぐ彼の瞳を見据える。
「お願いだから、もう会いに来ないで」
ゆらゆらと不安定な眼差しが、悲しそうに歪んだ。絢斗は唇を噛み締めて、それから俯く。
「ずるいよ……」
泣いているのだと思った。絢斗は昔からそうだった。
「初めて名前呼んでくれたのに、そんなこと言うの?」
でも、顔を上げた彼は泣いてなんかいなかった。酷く寂しそうに、苦しそうに笑っていて、――私は、そんな顔を知らなかった。
『ごめんね。久しぶり、奈々ちゃん』
あの時と全く同じ笑い方。七年という月日は、確実に私たちを変えていたのだ。