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背後から飛んできた声に思わず足が止まる。――ああ、最悪。今日も今日とて、最悪最低だ。
振り返りたくなくて地面を睨んでいると、駆ける足音が聞こえてくる。
「ねえ、その人って彼氏!?」
不意に肩を掴まれた。瞬間、かっと頭に血が上り、反射的にその手を振り払う。
「触んないでよ!」
後ろを振り返った。
案の定、呆けた顔で固まる絢斗がいて、よろけた反動でぽわぽわと揺れる黒髪が何とも場違いだ。
絢斗はそのぽわぽわな髪の毛を更にぽわぽわ揺らしながら、私に詰め寄ってくる。
「奈々ちゃん、彼氏なの? 彼氏できたの?」
「あんたには関係ない」
「何で!? 関係あるよ、気になるよ!」
うるさい。面倒くさい。鬱陶しい。
いつまでもちょこちょこ私の後ろをついてきて、きんきん大声を出さないで。
簡単に幼馴染面をしないで欲しい。あっさり昔のように元通り、なんて、そんな都合のいいこと許さない。
「知り合い?」
落ち着いたトーンで掛けられた日比野くんの問いで、我に返る。
てっきり私に向けたものだと思っていたけれど、彼は続けてこう言った。
「それとも友達? ああ、いや違うかな。だって君、こんなに嫌われてるもんね」
ゆっくり日比野くんへ視線を移す。
彼の目は絢斗を捉えていて、その瞳の冷酷さに少し肝が冷える。無感情の上に乗っかった事務的な笑みと、奥にある僅かな苛立ち。独裁者、という単語がふと頭をよぎった。
「き、嫌われてなんか……」
「しつこい男って嫌われるんだよ。引き際は見定めないと」
ね? と人差し指を唇にあて、妖麗に笑みを深める。学校で見る日比野くんとは、まるで別人だった。
美しさに惑わされてはいけない。彼は多分、今とても怒っている。
「ねえ、此花さん」
その冷たい眼差しが、私を射抜いた。
「俺はさ、面倒くさいこと嫌いなんだよね。面倒事は生徒会の仕事でたくさんだ。用件はなるべく端的にスマートに済ませたいわけ」
「何が言いたいの」
彼の顔から感情が抜け落ちる。しいて言うのなら、そこにあるのは軽侮だろうか。
「――こんなオトモダチがいるなんて聞いてねーんだよ。自分の面倒は自分で片付けろ。俺を巻き込むな」
ひやり、ざらりと心臓が蠢いた。一瞬呼吸を忘れてしまう。
よくできた彫刻品のように綺麗で無機質な彼が、私を見下ろしている。
「じゃ、そういうことで。今日は帰るよ。奈々チャン」
誰も引きとめることはできない。彼の言うことは絶対だ。そう思わせる雰囲気を纏っている。
なるほど、確かに。日比野くん以上に生徒会長に相応しい人なんていないわけだ。
立ち尽くしていた絢斗が、怖々と口を開いた。
「……奈々ちゃん、大丈夫?」
「は、」
「えっと、ごめんね。僕のせいで、彼氏さん帰っちゃって……」
言葉が出なかった。
こいつは話を聞いていなかったんだろうか。聞いていて言っているんだろうか。
どっちでもいい。何だか、急に疲れてしまった。
「別に、彼氏じゃない」
「えっ、そうなの? じゃあ友達?」
「そうだよ」
階段をのぼる。絢斗がなぜかついてくる。
ドアの前まで辿り着き、鍵を開けた。
そっかあ、友達かあ。浮かれた口調で繰り返す彼に、そうだよ、と私も再度肯定する。
「気持ちいいことだけする友達、ね」
きっぱりと絢斗の顔を見て告げ、目の前でドアを閉めた。
***
初めてだから、という言い訳は、さほど意味がなかった。相手は自分の欲に忠実で容赦なかったし、ただ痛みだけが体を貫いていた。
中学二年生の時だ。
家に初めて男の子を入れた。今となっては顔も思い出せないクラスメート。でも当時はそれなりにかっこよく思えたはずで、だから自分のテリトリーへ侵入することを許したのだと思う。
その頃は純粋に寂しかった。帰ってきて誰もいない空間が広がっていることには慣れてしまったけれど、一人で簡単なご飯を作ってみて、失敗して、玉子焼きがしょっぱすぎたくらいで泣いてしまうほどには辛かった。
だから、仕方なかったのだ。
どきどきした。ちょっとだけ、わくわくした。
狭いけどごめんね。そう告げて振り返った唇を、突然塞がれた。
驚いて胸板を押し返しても、逆に押し倒される。
ぎらついた目が怖くて、力強い腕が怖くて、震えることしかできなかった。
「ま――待って! 私、初めて、だから」
大丈夫だよ、と、そんな気休めを言われた気がする。
相手の自分本位な触り方に、最初は抵抗していた。だけれどそれが意味を成さないと悟った途端、急に怠くなって無抵抗を決め込んだ。
痛い。熱い。すぐ近くで荒々しい吐息が聞こえる。
物凄く長く感じた。ようやく終わったと思えば、相手がそのまま抱きつくようにもたれかかってきて、その重さと温さに、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
夢を見た。お母さんがご飯を作ってくれて、お父さんも一緒に食卓を囲んでいる夢。
玉子焼きはしょっぱくないし、部屋の空気も冷たくない。
目が覚めると、当たり前に冷たい部屋があった。
どうして私はこんな現実を生きているのだろう。夢が覚めなければいいと思う。その方がずっと楽で幸せだ。
苦しみながら生きている意味なんて、あるのだろうか。
その答えは見つからなかったから、夢を見ることにした。
適度な痛みが現実だと教えてくれて、繋がる度に伝わる熱が心地いい夢に誘ってくれる。痛さが気持ちよさに変わっても、夢は覚めない。温かいのだ。どうしようもなく温かくて、その熱さえあれば私はどうでも良かった。
『此花さんって、マエダくんとシたらしいよ』
『キノシタくんともそういうことしてるって聞いた~』
『ノノミヤさんが彼氏と別れたのって、此花さんが原因なんだって』
『あり得なさすぎ。サイテー』
クラスの女子があからさまに私を避けるようになった。別にいい。彼女たちが言っているのは本当のことだから。
でも、ふざけるな、と思った。
あんたらみたいに、好きに習い事をさせてもらって、帰ったら温かいご飯が用意されていて。みんながみんな、そうだと思うなよ。それが当たり前だと思うなよ。
頭がお花畑。平和が一番だよね、とか何にも知らないくせに口だけで言っているあんたらに、私の生き方をとやかく言われたくはない。