7
「お邪魔します」
土曜日の昼下がり。
玄関先で出迎えてくれた相手に、軽く頭を下げる。
「そんなに畏まらないで。ゆっくりしていってね」
そう言って微笑んだ沙織ちゃんからは、もう一切の悪意は感じられなかった。安堵と懐かしさで泣きそうになる。
唇を結んで頷き、靴を脱いだ後、きちんと揃えてから立ち上がった。暮町家の玄関は昔から綺麗に整理整頓されている。
「絢斗を、よろしくね」
二階への階段をのぼろうとした時、背後からそんな言葉を投げかけられた。
振り向き様に見た沙織ちゃんの頬に、えくぼが浮かぶ。それに応えたくて、適切な返答が見つからなくて、強く顎を引いた。
「はい」
一段一段踏みしめる度に、鼓動が速くなっていく。
緊張しているのかもしれない。少しだけ臆病になっているのかもしれない。でも一番は、やっと手放しで大事にしたいと思えることへの高揚感だった。
部屋の前に立ち、静かに呼吸を整えてから扉をノックする。
「絢斗。入っていい?」
途端、中からがさごそと物音が鳴った。それから目の前で勢いよく扉が開く。
「な、奈々ちゃん、早かったね」
「そうかな。昼がいいって言ったの絢斗でしょ?」
そうだよね、と半笑いで視線をさまよわせる彼に、ああそうか、気まずいんだな、と察する。
当たり前だ。強引にキスして好きだのなんだの言い合った挙句、喧嘩別れのようになっていた。絢斗としては、あの日で全て終わったつもりだったんだろう。私も、もう終わったんだと思っていた。
歩み寄ることをしないで、子供同士の私たちのまま、我儘をぶつけ合って終わろうとしていた。
「私、絢斗と一緒にいること、諦めないよ」
「え――」
「今日はその話をしに来たの」
下から真っ直ぐ彼の目を見据える。絢斗が息を呑んだ。
「……でも、それは」
「絢斗。好きだよ」
大きい瞳が揺れる。
「私のこと、好きか嫌いかで答えて。それだけでいい。思ってること、言ってくれるだけでいいから」
絢斗の右手に触れて、そっと握る。温かくて、その変わらない温度にきちんと愛おしさを覚える。
彼の左胸に自分の頭を預ければ、心臓の音が確かに聞こえた。
激しい波のように、燃え上がる炎のように、求め合って愛し合う激情はない。ないけれど、いま感じている優しく柔らかい胸の高鳴りを、私は恋と呼ぼうと思う。
そのささやかな喜びを、守っていこうと思う。
「奈々ちゃんは……やっぱり、ずるいよ……」
絞り出すように呟いた絢斗の声に顔を上げれば、苦し気な瞳とぶつかった。
「そんなの、好きしか答えられないに決まってるもん……僕は、僕はもう、ずっと前から奈々ちゃんのこと、」
大好きで仕方ないんだよ。
そう紡ぐ唇の動きを、染まる頬の色を、一つも見逃さないように目に焼き付ける。
誰にねだられたってあげやしない。私の、私だけのヒーローだ。
「僕はばかだから、難しいこと何も分かんないけど……みんなが言うようなものじゃないのかもしれないけど、それでも、奈々ちゃんへの好きは、特別なんだ」
くしゃりと表情を歪めた絢斗が、ごめんね、と肩を震わせる。
「傷つけてごめんね。奈々ちゃんの夢、叶えられなくてごめんね。好きになってごめ――」
堪らず抱き締めた。力一杯、心臓と心臓がくっつくくらい、きつく。
「絢斗、もういい。もういいよ……」
好きになってごめんね、なんて、そんなことを言わせてしまうくらい追い詰められていたのを、彼の痛みを、私はこれっぽっちも理解できていなかった。
いい加減に目が覚めた。
彼のこの眩しい想いが純愛じゃないなら、何が純愛なのだろう。世界中、これ以上に綺麗な愛があるのなら、誰か教えて欲しい。
「普通も、みんなも関係ない。絢斗は絢斗だよ。私は絢斗が大好きで、大切だよ」
伝えられるかな、じゃない。伝えていくんだ。
仕草で、言葉で、表情で、目で、私にできうる限りの方法で。絢斗が今までそうしてきたように、真っ直ぐ、ひたむきに、ただ純粋に。
絶対にできるはずだ。この人と一緒なら、この人のためなら、私はいくらだって優しくなれるはずなんだ。
「絢斗。ずっと一緒にいよう」
「奈々ちゃん、」
「二人ならなんにも怖くない、でしょ」
どんな未来からも、どんな心ない言葉からも、私が絢斗を守るよ。だから、私が動けなくなった時は、立ち上がれるまで絢斗がそばにいてね。
絢斗が頷く。何度も頷いて、涙を流す。やがて嗚咽交じりの泣き声が静かに響いた。
泣き虫でいいよ。その代わり、すぐ隣で涙を拭いて慰めるのは、ずっと私がいい。
ゆっくり顔を上げた彼が、私の手を遠慮がちに握った。そのまま部屋の奥に進んで、手を離される。
「絢斗?」
こちらに背を向けた彼は、机の引き出しを開けた。何かを探しているようだ。
「奈々ちゃん、ほんとに、ずっと一緒にいてくれる?」
ぴたりと動きを止めた絢斗が、鼻声で問うてくる。
まだ不安なんだろうか。だったら、もう一度しっかり伝えなければいけない。
「うん。一緒にいるよ。もう離れない」
私の回答に、背を向けたまま絢斗が再度念を押した。
「ほんとに?」
「うん」
「ほんとのほんと?」
「うん」
「やめるなら今のうちだよ」
「もう、分かったってば――」
絢斗が振り返る。
手にはピンクのハート形の小物入れが握られていて、それをこちらに開いて見せたまま、彼は告げた。
「奈々ちゃん。僕と、結婚して下さい」
赤い宝石がついたリング。安っぽい輝きを放っているそれは、どこからどう見ても本物ではない。
「……これね、小学生のころ、奈々ちゃんとお祭りに行った時にこっそり買ったんだ。奈々ちゃんにあげようと思って」
お祭りに行ったことは、何となく覚えている。浴衣を着てみたくて、でも着られなくて、少しつまらない気持ちになりながら絢斗の隣を歩いた。
「でも、渡せなかった。すごく緊張しちゃって……。僕はきっと、もうあの時から奈々ちゃんのこと、好きだったんだと思う」
彼の手が震えている。緊張しているのは、昔も今も同じのようだ。
「僕はね、奈々ちゃんのこと守りたかったんだ。奈々ちゃんがもう一人で泣かなくていいように、奈々ちゃんを泣かせるもの全部から守れるように、強くなりたかった。結局今も泣いてばっかりで、助けてもらってばっかりで、頼りないかもしれないけど……」
でも、と顔を上げた彼の瞳が、真っ直ぐ私を映す。
「本当に奈々ちゃんのことが好きです。絶対に奈々ちゃんを幸せにします。それだけは信じて下さい」
僕と、家族になってくれますか。
いつになく真剣な表情で、耳まで赤く染めながら、絢斗が将来の約束を乞う。
『一緒にいるだけなんて、そんなの結婚でもしない限り無理な話なの』
形が変わろうと、私たちは一緒にい続ける。それが自分の首を絞めることになろうとも、胸を切り刻まれるくらい悲しくとも、構わない。
これが私たちの、限りなく優しく、限りなく残酷な終着点だ。
「絢斗。指輪はめて」
左手を自ら差し出して彼にねだる。
絢斗は少しだけ目を見開いて、嬉しそうに微笑んだ。
彼がおもちゃのリングを取り出す。割れ物を扱うかのように丁寧に私の手に触れて、薬指へリングを通していく。
左手を掲げて、きらきらと僅かな光を反射している宝石を見つめた。
「大切にするね」
きっとこの日を何度も思い出す。自分は大事にされていて、確かに愛されているのだと思えた日のことを。なんの変哲もないちっぽけな部屋の中、眩しい未来を夢見た日のことを。
「いつかちゃんとした指輪あげるから、待ってて」
幼い時と同じ無邪気さで、彼が照れたように笑う。
ようやく私も笑い返して瞳を細めた時、温かい涙が視界を滲ませた。
***
金や銀、赤のオーナメントボール。ひいらぎとベルの飾り。それから、一番上に鎮座する星。
小さめなサイズのクリスマスツリーは、電飾がちかちかと光って随分と華やかだ。
「奈々ちゃん、下降りよう? 沙織ちゃん呼んでるよ。ご飯できたって」
今年は絢斗と再会してから初めて迎えるクリスマスだった。暮町家でパーティーをしようと半強制的に誘われ、先程から飾りつけの準備をしている。
「絢斗」
「うん?」
「絢斗は、私のために死ねる?」
あまりにも唐突に、そして直球に聞きすぎたからか、彼が目を丸くした。
それはそうだ。けれども一年前、問われた言葉がずっと頭の隅で息をしている。
『奈々は、俺のために死ねる?』
どんな答えが返ってきても傷ついてはいけない。自分で掘った穴だ。でもきっと、どんな答えが返ってきても傷ついてしまう。
「――何で?」
戻ってきたのは、なんとも呑気なトーンの疑問だった。
「百歳まで一緒に生きようよ。それで、しわしわだねって、お互いの顔見て笑おう」
さも当然のごとく、彼が的外れなことを言う。
死ねるほど好き、という答えなんて期待していなかった。一緒に生きよう、と言われることがこんなに嬉しいなんて、知らなかったのだ。
「奈々ちゃん、早く!」
部屋を出た絢斗が急かす声に、今行くよ、と口で答えながら、彼の机に近付く。以前から気になっていたものがあった。
『みんなのしょうらいのゆめ』
前にこの冊子をめくっていたら絢斗に止められたけれど、彼の当時の夢が何なのか、私は未だに知らない。
ぺらぺらとページを送っていく。目当ての名前を見つけて、その人の「しょうらいのゆめ」を読んで、思わず笑ってしまった。
「奈々ちゃん? 何してるの? ……って、あ――――――!」
「絢斗、ほんとに変わんないね」
「恥ずかしいから見ないでって言ったのに!」
赤面しながら怒る彼に、ごめん、と軽い謝罪を入れる。
「もう、いいから早く来てよ! じゃないと奈々ちゃんの分のチキン全部食べちゃうからね!」
「はいはい」
大人しく冊子を閉じて元の場所に収納する。
私はやっぱりこの人と一緒に生きていきたい、と実感したのは、騒がしいクリスマスの夜だった。
***
『ぼくはおとなになったら、ななちゃんとけっこんしたいです。そして、ななちゃんをたすけられる、ひーろーになりたいです。』




