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手から滑り落ちたドリンク容器が床を転がる。中で氷がごろごろ唸っている。
「俺が聞いてたのと全然違うわ。自分勝手だし、頑固だし、意気地なし。絢斗が好きになる要素、あんたのどこにあんの?」
「……は」
「あんた、ほんとに絢斗のこと好きなの?」
何を、言ってるんだこの男は。私は何を言われてるんだ。
「好きなやつが死ぬほど悩んでんのに、それ聞いて顔色一つ変えずに『そっか』で終わらせる馬鹿がどこにいんだよ! そんなん『好き』じゃない。あんたは、絢斗に好きって言われてる自分が好きなだけだ。絢斗の好意につけこんでるだけだよ」
「…………腕、痛いから離して」
「離したら逃げるだろ」
何なの。何こいつ。うざい。むかつく。絢斗絢斗ってさっきから何度も。
「離してって言ってんじゃん!」
腕を振る。振りかぶる。全然効かない。腹が立つ。
『絢斗が此花さんのことを大事にしてるのも、すごい好きなんだろうなっていうのも、俺は絢斗の話を聞いて分かってるつもりなんだ』
うるさい。うるさいうるさいうるさい。そんなの、絢斗のことなんて、私の方が何倍も何百倍も――
「あんたに分かってたまるか! 何にも知らないくせに! 急にでしゃばって、分かったような口きかないでよ!」
私がどれだけ苦しかったかも、どれだけ泣いたかも知らないのに。どう割り切ってどう乗り越えてここにいるのかも知らないのに。
私と絢斗の箱庭を、大切に守ってきた場所を、全部嘘だったみたいに言うな。
「悪いけど、まだでしゃばるよ。俺は絢斗の友達だから、絢斗が傷つくのは見たくないんだ」
ぐ、と更に相手の指が腕に食い込む。
「絢斗があんたに『ごめん』って言うのに、どんだけ勇気出したと思ってんだよ。あんたも幼馴染なら分かるだろ。分かれよ」
「うるさい!」
「聞けよ、逃げんな!」
井田くんが立ち上がる。視線がかち合った。
「あんたのはただの我儘だろうが! これが嫌だあれが嫌だって、子供でも言えるぞ! 好きなら全部受け止めてやれよ、今度はあんたが歩み寄ってやれよ、それができないのに一丁前に傷ついてんじゃねえよ!」
覇気のない声を、震えていた背中を、揺れた瞳を、苦しそうな笑顔を思い出す。
どんなに体が成長しても、幼馴染のままではいられなくても、絢斗は絢斗だった。いつも私の後ろをついてきて、へらへら笑って、すぐに泣く。
本当はそんな泣き虫なヒーローなんて嫌なの。喧嘩も強くないし方向音痴だし、私の方がしっかりしてる。
ピンチの時に颯爽と現れて助けてくれるような、強くて優しいヒーローがいい。
でも、そんなの今更だ。私は絢斗を好きになってしまった。
こうであって欲しいとかこうなって欲しいとか、挙げたらキリがない。私は欲張りだから、絢斗が世界一のスーパーヒーローになったって百点はあげられないんだろう。
『二人でいれば、なんにも怖くないよ』
長い夜も、暗い未来も、二人でいたから越えられた。二人で一緒だったから。
守って欲しいと嘆くのではなくて、私がもっと強くなる。愛して欲しいと駄々をこねるのではなくて、愛されていることを受け止める。
それが、絢斗といるために私がするべきことだ。
全てを大切にすることはできない。妥協と諦め。現実と理想の埋め合わせ。
強くてかっこいいヒーローはいないけれど、私だけを真っ直ぐ見つめてくれる弱くて優しいヒーローがいた。
私だけを大切にして、私を一番に考えてくれる。ずっと、何よりも欲しかった“愛”を、惜しみなくくれる。
それでいいと思うのに、信じ切れなくて苦しい。
いつか終わってしまわないだろうか。体では繋がることができない分、きちんと言葉で伝えていけるだろうか。
「……だって、不安なんだもん……」
私は綺麗な愛し方を知らない。空虚な愛の言葉を信じられなくて体を重ねてきたような人間だ。
いらないふりをして言い訳までして逃げ続けた。そうしないと劣等感で死んでしまうから。
「こんなふうに誰かを好きになったことなんて……ないんだもん……」
井田くんが眉尻を下げる。なんだ、と彼の呟きが落ちた。
「ちゃんと好きじゃん、絢斗のこと」
そう言うや否や腕を離され、呆気に取られる。
つと周囲を見渡した彼は、「注目浴びすぎたからここ出ようか」と肩を竦めた。
「いやー……怒鳴ってごめん。絢斗から聞いてたイメージと実際に会ったイメージがあまりにも違ったからさ、もしかしたら絢斗がたぶらかされてんじゃねーかなって疑っちゃってたわ」
店を出て早々、きまり悪そうに井田くんが頭を掻く。
「だってさ、あいつ詐欺とか絶対引っ掛かるタイプじゃん」
「……小学生の頃、『飴あげるからおいで』って言った不審者についていきそうになってた」
「まじか。ほんとに飴でついていくやついるんだ」
小さく吹き出した後、とにかくごめん、と彼が手を合わせた。
「色々無神経なこと言って悪かったなーって、反省してます」
「いいよ。……全部、本当のことだから」
「此花さ、」
「まともな恋愛したことないんだ。絢斗のそばにいる資格がないのは、私の方」
風が凪ぐ。
数秒の後、井田くんはいつものように笑った。
「違うよ」
「え?」
「此花さんがいないと、きっとあいつだめだめだって。絢斗から“ななちゃん”とったら、何が残んの?」
全然分かってないなー、と揶揄い口調で続ける彼に、思わず反論する。
「だ――だって、手繋いだだけで嬉しいとか、そんなピュアな心忘れたし」
「キスでもお見舞いしてやりゃいいじゃん。さすがに吐くほど嫌だったらやめてやればいいけど、死ぬわけじゃないんだし。ずっとしてたら慣れるかもしれないし?」
「はあ……? それ、あんな深刻な顔で話してた人が言うこと?」
ていうか、キスした直後に吐かれたら立ち直れないんですけど。
知らぬ間に睨んでいたらしい。私の目つきに、井田くんが「ごめんって」と肩を揺らした。
「いや、だって分かんないじゃん。付き合っていくうちに、妥協点が見つかるかもしんないっしょ。絢斗と此花さんに限らず、どのカップルもみんなそんな感じじゃね?」
そうなんだろうか。いや、そうなのかもしれない。
幼馴染の私たちは終わった。次に待っているのは恋人としてのフレームワークで、特別でも何でもないのだ。お互いの価値観を擦り合わせながら、努力をし続ける旅。
終わりが来るから、と毎日を消耗するように生きるのではなくて、いつ終わっても悔いのないように、毎日を潤わせていくこと。
「井田くん。ありがとう」
その言葉は自然と口から滑り出た。
井田くんが「お礼言うのはまだ早いよ」と小首を傾げる。
「絢斗とちゃんと仲直りしてから、な」
「……うん」
じゃ、と軽く手を挙げた彼は、そそくさと先に歩き始めた。
「井田くん」
「んー?」
「夜に女の子を送って帰ろうとしないのは、普通にモテないと思う」
「…………送るよ」
「いや、いい。駅すぐそこだし」
「いいんかい」
気ぃ利かなくてすいませんね、と拗ねた横顔に、もう一度呼びかける。
「井田くん」
「なにー?」
「井田くんって、いい人だね」
彼が「今更かよ」と笑う。それに少しだけ笑い返して、私も駅に向かって歩き出した。
スマホを取り出し、目当ての人物に電話をかける。相手が応答したのは五コール目だった。
「会って話したいことがあるの。聞いてくれる?」
長い夜も、暗い未来も終わった。
日が落ちた空はいつもと何ら変わらず紺色を纏っているけれど、不思議と透き通って見えた。




