5
たとえ誰かが死んでも朝は当たり前にやってくるし、社会は素知らぬ顔で回り続ける。
つまり私の心が生きてようと死んでようと、時間の経過は容赦ない。
夏休みが明けると、書類の提出や採用試験に追われた。そこからあっという間に選考、内定と進んで、やっと一息ついた頃、暑さはすっかり落ち着いていた。
「此花さん、就職先決まったんだって? おめでとう」
バイト終わり、およそ二か月ほど顔を合わせていなかった井田くんに出くわした。勝手に気まずいと思っていたけれど、向こうはあまり気にしていないようだ。
「今日って、井田くん出勤じゃないよね」
何でいるの、というニュアンスが伝わってしまったらしく、彼が苦笑する。
「あー、俺さ、先月でここ辞めたんだよね。今日は制服返しに来た」
「……そうなんだ」
この一か月は私の方もあまりシフトを入れていなかったから、全然知らなかった。最後に一緒に働いたのはいつだったっけ、と首を捻るも思い出せない。
「お世話になりました」
「はは、堅苦しいのやめて。まあ、でも、うん。お世話になりました」
頭を下げ合って、僅かに沈黙が流れる。
「此花さん」
妙に畏まった呼び方をされて、違和感を覚えた。井田くんが小さく息を吐く。
「この後、ちょっと時間ある?」
結局、二人でファストフード店にやってきた。
井田くんに限って変なことは起こらないだろうし、彼と話すのもこれが最後になるのだろう。
お腹は空いているけれど、食べる気にはなれなかった。ドリンクだけを注文して席に着く。
「俺さ、此花さんにずっと言ってなかったことがあるんだ」
そう告げられ、なぜか腑に落ちている自分がいた。
井田くんはきっと正直に真っ直ぐに生きてきた人で、それなのにいつも何を考えているのかいまいち掴めなかったのだ。見えない部分が、彼の敢えて見せてこなかった部分なら、納得できる気がした。
「俺、絢斗と友達なんだよね」
「……え、」
「暮町絢斗。高校同じなんだ」
そう何人も同姓同名の人物がいるわけがない。彼が指しているのは、私のよく知っている絢斗で間違いなさそうだ。
「実は、絢斗からずっと聞いてたんだ。“ななちゃん”のこと。だから此花さんがその“ななちゃん”だって分かった時、びっくりした」
絢斗と井田くんが友達だったことも、井田くんがびっくりしたことも、私にとっては些細なことにすぎない。
それより何より、私にはどうしても聞きたいことがあった。
「……絢斗は、私のことなんて言ってた?」
『僕じゃ、奈々ちゃんを幸せにできない』
多分、あれは失恋なんだと思う。
絢斗は私のことが好きで、好きだから、一緒にいられないという結論を出したのだ。自分と一緒にいても幸せになれないから、と究極の殺し文句を使って。
痛みは少しずつ体を蝕んで、それでも私はまだきちんと諦められていない。絢斗と一緒にいることはできないとあんなに思っていたのに、いつか手放さなければならないと思っていたのに、終わりはきてしまうのに、いざ失うとなったら、何一つ覚悟なんてできていないことを知った。
いつか終わるのだから、綺麗に終わらせたい。ちゃんとこの恋を失いたい。
「ずっと悩んでたよ」
井田くんが私の質問に答える。
「絢斗は、ずっと悩んでた。僕が奈々ちゃんのそばにいる資格はあるのかな、って、最近はそればっかりだった」
「資格?」
彼は頷いて、前にさ、と続けた。
「此花さん言ってたよね。好きかどうかって、キスできるかどうかだって」
胸の奥がひりついている。井田くんには何もかも見え透いているのかもしれない。
『まあ、人それぞれだよな、大事にしてるものって』
『自分の中の大事なものまで変えなくていいけどさ、違うものを大事にしてるやつもいるんだって、ただ、知ってて欲しい』
それは、全部絢斗のことを言っていたんじゃないのか。
「――絢斗は、誰にも性的欲求を持てない。そのことにずっと悩んで、苦しんでたよ」
周りの喧騒が遠くなっていく。言われた内容を文字通り頭に入れても、一向に理解なんてできなかった。
「俺も最初聞いた時はよく分かんなくて、下世話な冗談言っちゃったんだけどさ。色々調べて、そういう人は少なからずいるんだなって知ったんだ。恋愛感情そのものが持てないって場合もあるし、行為だけ受け付けないって場合もあるし、ほんとにその人によって違うみたいで」
井田くんが丁寧に説明するのを、他人事のように聞いていた。彼は当たり前に理解して受け入れたのだな、とも思った。
だって、そりゃそうだ。井田くんにとって絢斗はただの友達で、友達がどんな価値観を持っていようが受け入れる他ない。相手は相手、自分は自分。そうやって割り切れるから関係を続けられるのだ。
私は違う。私にとって絢斗は大切で唯一無二で、好きな人。ずっと一緒にいたい人。
友達じゃない。恋や愛を伴った人間同士が一緒にいるには、価値観の擦り合わせがどうしたって必要になる。
大事なものの優先順位を見失って壊れていく男女なんて、今まで腐るほど見た。
「絢斗が此花さんのことを大事にしてるのも、すごい好きなんだろうなっていうのも、俺は絢斗の話を聞いて分かってるつもりなんだ。だからあの日、あんなこと聞いちゃってさ」
『誰かと付き合うってなったら、此花さんは何を決め手にするタイプ?』
じゃあ私はあの時、お互いを想い合う気持ち、とでも答えていれば良かったんだろうか。思ってもいない回答を寄越して、井田くんが「大丈夫だいける」と絢斗の背中を叩いて励まして、そうしたら私たちは幸せになれたんだろうか。
違う。どんなに綺麗事を吐いたって、私は私だ。他の何者にもなれない。愛されたくて寂しくて満たされたくて嘆いている、空っぽな私。
満たしてくれないと、それが絢斗じゃないと、幸せになんてなれない。優しくて温かいだけの恋で生きていけるような人間じゃない。
――そうか。
『奈々ちゃん、……ぼ、く、』
『ごめんね……』
絢斗はそれが分かっていたから泣いたんだね。ずっと苦しそうな顔をして、何回も謝ったんだね。
『……絢斗、好きだよ』
絢斗のことをむごいと思ったけれど、私もきっとむごかった。
私の告白を聞いて泣いていた時、絢斗は私を抱き締めながら、私に欲情できないことを悟ったのだ。絢斗の失恋は、私のそれよりも幾分早かった。
じゃあ、絢斗、私たち本当に終わりだね。
「……そっか。ありがとう。教えてくれて」
立ち上がった私に、井田くんが表情を強張らせる。
説得なんてしなくていいからね。正論もいらない。
だって無理だ。私の大切にしているものと絢斗の大切にしているものが違うから、この先どうしたって苦しくなる。
終わりを待つだけの始まりに、自ら足を突っ込む必要なんてない。
「絢斗とは話さないの?」
「もう話したよ。終わったの。私とはキスできないって、ごめんって、絢斗が言った」
平行線を眺めていても無駄。いつか交わるかも、と希望を持つことは無駄。平行線は永遠に交わらないから平行線なのだ。
ああ、でも、平行線だから私たちは今まで、幼馴染でいられたのかもしれないね。
「じゃあ、今までありがとう。勉強頑張って」
飲みかけのドリンクを持って、今度こそ席を立つ。
井田くんの横を通り過ぎようとした時、勢いよく腕を引かれた。
「あんたさあ、ほんとに“ななちゃん”かよ」




