4
ブランコに乗ったのは多分、小学生のとき以来だ。鎖を握って腰掛けたまま、漕ぐわけでもなくぼんやりと空を見上げる。
八月が終わろうとしていた。
小さい頃によく遊んでいた公園に、一人で居座っている。外はもう暗い。
僅かな風が頬を撫でたと同時、足音が聞こえて、視線を夜空から目の前に戻した。
「……夜に一人でいるのは、危ないよ」
開口一番、少し怒ったように注意をしてきた彼に、大丈夫だよ、と返す。
「絢斗が来てくれるから、一人じゃないし」
私がそんな屁理屈を言うと、絢斗は泣き笑いのような表情で瞬きをした。
「ずるいよ、奈々ちゃん」
ずるくていいよ。私がどんな不正をしたって、絢斗はきっと咎めない。
『お願い。絢斗に、会って欲しいの』
細かいことは何も聞いていなかった。沙織ちゃんも分からないのだという。ただ、絢斗の様子がおかしいということだけは確かだった。
会って欲しいと言われたって、連絡はずっと無視されている。仕方ないから一方的にメッセージを送った。公園で待ってる、と。
――絢斗が来るまで待ってる。
最後にその一文を付け足したのは、もちろん打算的な部分からくるものだった。
「ごめんね」
隣のブランコに腰を下ろした絢斗が、四文字だけ呟いて黙り込む。
随分と無責任な謝罪だ。受け取る側に全てを委ねる抽象さ。一体ずるいのはどちらなのだろう。
「何が?」
端的に問うて絢斗の方を向く。
恐る恐る私を映した彼の黒い瞳が、逡巡しているかのように揺れていた。
「絢斗」
その目が逸らされる寸前、毅然と呼びかける。もう一度私を捉えた瞳を、視線で真っ直ぐに射抜く。
はぐらかそうとするのは、曖昧に濁そうとするのは、絢斗らしくない。でもそうしたい時があるのも分かる。怖くて、怯えて、膝を抱え込んでしまいたくなるのだ。
だから待つよ。絢斗が一人で苦しんでいる時、私は待つことしかできなかったけれど、それだけが取り柄なの。
何分でも、何時間でも。私は絢斗のことなら、いくらでも待ててしまう。
「奈々ちゃん」
一分だけ見つめ合って、絢斗が口を開いた。
「僕は、奈々ちゃんと一緒には、いられないのかな」
掴みどころのない疑問なのに、絶望に浸りきった色をしていた。いられないのかな、と問いかけているくせに、いられないんだ、と言われているような響きだった。
「……どうして?」
沙織ちゃんのことはきっともう心配いらない。今の私たちはむしろ前よりも単純明快で、お互いが一緒にいることを望めば叶うはずだ。
「僕じゃ、奈々ちゃんを幸せにできない」
柔らかいときめきが死んでいく。
そんなに悲しいことを、はっきりと言わないで欲しかった。
「なん、で?」
「だって、」
「私のこと好きじゃなくなったから?」
違うよ、と絢斗が弱々しく首を振る。意味が分からなくて泣きたい。
「私も絢斗のこと好きだよ。好きって言ったよ。何でだめなの?」
堪らず立ち上がった。一歩、二歩、絢斗に近付く度、胸の奥が抉られるように悲しくなる。
少し前までの絢斗なら、僕も好きだよ、と言ってくれた。私の不安を包む言葉を惜しみなくくれた。
どうして好きって言ってくれないの。何を迷っているの。絢斗は一体、何に怯えているの。
苦しい。こんなに近くにいるのに、ちっとも伝わらない。言葉だけじゃ足りなくて歯痒い。
「奈々ちゃん――」
その先は聞きたくなかった。震える心臓を持て余したまま、絢斗の唇に自分のものを重ねる。
温いと感じたのは一瞬のことだった。
両肩を掴まれ、すぐに引き離される。思わず目を見開いた先、苦し気に顔を歪める絢斗がいた。
「何なの……」
何で、そんな顔をするの。
「意味分かんない……今更勝手なこと言わないでよ! 私は絶対幸せになれるって、なれなかったらするって、絢斗が言ったんじゃん!」
傲慢で自信家で突拍子のないままでいて欲しい。私だけを大切にするって、嘘でもいいから貫き通して欲しい。
現実はいつだって無情だ。永遠がないことなんて最初から分かっている。分かっていて、私は絢斗という理想郷を選んだの。
だったら、せめて夢くらいは見させて。
「何なのその顔、泣きたいのはこっちだよ! 絢斗のばか……!」
好きな人にキスをして、拒絶された時の気持ちが分かるのか。どれだけ惨めで心が壊れそうになるか分かるのか。
お願いだからそんな顔をしないで。傷ついた顔で、私を見ないでよ。
「嘘つき……私のこと、全然好きじゃないじゃん」
「――好きだよ!」
耳をつんざくような叫びが響き渡った。呼吸が聞こえる。わななく肩と吐き出した息が、彼の内で連動している。
叫びから遅れて、今にも零れ落ちそうな黒い目が、震えながら必死に私を見据えていた。
「僕は、奈々ちゃんが好きだよ」
今までくれたどの言葉よりも綺麗な告白だった。その純度に、白さに、恐ろしくなる。
絢斗から伝わってくる想いはいつだって真っ直ぐすぎた。そこに温かさはあっても、熱がないのはもう分かっていた。
ねえ絢斗、それは本当に恋かな。
「……好きなら、あんなふうにキスを避けたりしない」
「びっくりしただけだよ」
「嫌がってたのに?」
問い返せば、絢斗が息を呑む。――ああ、むごい。それが何よりの答えだ。
「絢斗は、私とキスできないんだよ」
向こうに言い聞かせるために放ったのに、自分で傷ついている。あまりにも滑稽すぎるから、誰か私を笑ってやって欲しい。
「キスできないと、したいと思わないと、好きって言っちゃいけないの?」
そう尋ねてくる絢斗に、とうとう我慢できなくなった。いい加減にしろ、と感情のままに怒鳴りつけようとして、彼の顔を見て、声を出せなくなってしまった。
「僕、奈々ちゃんのこと、誰よりも、世界で一番、大切にしたいんだよ。守りたいんだよ。ひとりじめしたくて、そばにいたくて、……でも、キスとかそういうの、僕は分からないから、」
きらきらと光るのは、絢斗が流す、きっとこの世で一番澄んだ涙。
「手を繋げたら嬉しいし、目が合ったら胸がぎゅうって苦しくなるんだ」
自身の左胸、心臓のところを、ティーシャツがしわしわになるくらい力強く握り締めて、彼が泣きながら優しく笑う。
「これって、恋じゃないの? 恋じゃなかったら、それじゃあ、なんなの……?」
苦しみながら、それでも愛おしいという温度で私を見つめる。こんなに純真に誰かを愛せるこの人の気持ちが何なのかなんて、私が教えて欲しい。
『いま目が合ったなーとか、手繋ぎたいなーとか、そういうのも多分、好きじゃん。よく分かんないけどドキドキした、とか、なんかふわふわしたぼやけてる気持ちも、「好き」に入ると思うんだ』
答えは簡単だ。随分と前に貰っていた。
『そういうのって、此花さんにとってはノーカン?』
そうだね、なんて、いま絢斗を前にしても私は言えるのか。なんてことない顔で、キスが恋の基準値だなんて。
「ううん……恋、だね」
私たちはずっと、違う温度で恋をしていた。たったそれだけなのに、たったそれだけのことが、こんなにままならなくて難しい。
好きだから、絢斗に触れたいと思う。キスをして、熱く触れて、もっと深く愛し合いたいと思う。
でも絢斗は、私のことが大好きだと笑いながら、私とキスはできないと言う。
どこまでも優しく、どこまでも残酷な人。
「ごめんね」
絢斗がまた謝罪を繰り返す。さっきよりも確信めいた音を秘めていて、不安が募った。
「僕と一緒にいても、奈々ちゃんに普通の幸せはあげられない。みんなが普通にできることも、僕はできないから」
「普通って、」
「奈々ちゃん、前にずっと言ってたよね。家族みんなで、一緒にいるのが夢なんだって。赤ちゃんを産んだら、絶対に大事にするって」
小学生の頃、そんなことを言っていた記憶がある。
幸せな家庭を持つことに異常な憧れがあった。賑やかな方がいいから子供は二人欲しい、とか、その子たちが寂しくないようにいつも一緒にいてあげるんだ、とか、ほとんど当時の自分の不満を裏返したようなことばかり。
「奈々ちゃんのお母さんに言われて、気が付いたんだ。ただ一緒にいるだけじゃだめなんだって……それだけじゃ、奈々ちゃんを幸せにはできないって」
やはり絢斗が強く悩みだしたのは、母の発言が原因だったらしい。
そうはいっても、まだ彼の悩みの種がよく分かっていなかった。
『みんなが普通にできることも、僕はできないから』
つまり、そのせいで私と一緒にいられないということだ。何か月も一人で悩んでしまうほど、重大な不可能だということだ。
「僕は……僕はね、」
絢斗の声が震えている。その唇がまた一つ、残酷に告げた。
「キスも、その先もできない。どんなに好きな人とでも――奈々ちゃんとでも」




