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「ななちゃん。僕、引っ越さなきゃいけない」
小学四年生の冬、絢斗は突然そう切り出した。
その頃には彼の家に上がって遊んだり、そのまま夕ご飯を食べさせてもらったりすることが多く、彼のお母さんにもかなりお世話になっていた。私の母がまともに家に帰って来ないことを知って、色々と気を遣ってくれていたのだろう。
「何で?」
「お父さんの仕事するところ、遠くになるんだって。だから、引っ越し、しないと」
平然と言ってのける彼に感情が追いつかない。だって、あまりにも唐突だ。
どうして絢斗はそんなに冷静でいられるのか、さっぱり分からなかった。
「引っ越しって……いつ?」
「来月末だよ」
「あと一か月しかないよ。何でもっと早く言わなかったの?」
「決まったのが急だったから……」
来月には絢斗がこの町からいなくなる。それは既に決定事項で、私にはどうすることもできない。
悲しかった。最初に「ずっと一緒にいよう」と言ったのは私だったけれど、ずっと一緒にいて欲しかったのは、私の方だ。
これからも当たり前に絢斗が隣にいると思っていた。小学校、中学校と卒業して、そのままこの町で暮らしていくのだと思っていた。
こんなに悲しいのは、寂しいのは、私だけ? 絢斗はどうして普通でいられるの。
「何で? 行かないでよ。引っ越しなんてしないでよ!」
凡庸な引き留め文句だった。だけれど、それ以上どう言葉を尽くせばいいかなんて、知る由もなかった。
「……うん。ごめんね」
ごめんね、ななちゃん。
私が何を言っても、彼はそれしか返してくれなかった。
泣いても欲しいものが手に入ったことなんてないからいつもは泣かないけれど、その時は涙がぼろぼろ止まらなかった。私が泣いて引っ越しがチャラになるのなら、そんなことが叶うのなら、体中の水分が全部なくなるまで泣いてやるつもりだった。
でも、泣き虫の絢斗は泣いていなかったし、引っ越しももちろんなくならなかった。
あっさりとこの町を去った彼は、その一か月後、私に手紙を寄越してきた。
『ななちゃん、元気ですか?
僕はまあまあです。でもやっぱり、ななちゃんがいないから、あんまり元気じゃないかも。
春から新しい学校にいきます。ちゃんとみんなと話せるか不安です。またいたずらされたらどうしようって、ちょっと怖いです。
すぐに泣くからだめって言われたから、泣かないように頑張ろうと思います。』
悲しくて辛くて、絢斗がいなくなってから毎晩泣いていた。そんな時に届いたこの手紙は、神様からの贈り物と等しく尊いものだった。
すぐに返事を書いた。
寂しい、帰ってきて欲しい、会いたい。多分、そんなことばっかり書き殴った気がする。
彼からの手紙は、月に一度、郵便受けに届いた。
何度も郵便受けを確認して、入っていた日は飛び上がるほど嬉しくて、なかなか封を切れなかった。結局いつも我慢できずに、玄関で開けてしまうのだけれど。
最後まで読んだら、もう一度最初に戻って読み直す。五回繰り返してようやく気が済む。
返事はどうしよう。何のことを書こう。新しいレターセットを買いたいな。
次の日も、そのまた次の日も読み返して、長い一か月を待った。
『ななちゃん、元気ですか?
僕は元気です。この間、新しくできた友達と遊びました。みんなすごく優しくて、本当にいい人ばっかりです。
来週は遠足に行きます。とっても楽しみです。もっといろんな人と仲良くなれたらいいなと思います。』
手紙の内容は、少しずつ前向きになっていった。
新しい学校のこと、友達のこと、その友達と遊んだ時の話。全部私の知らないことだ。
私の知っている絢斗は、泣き虫でふわふわの不思議な男の子だった。けれども手紙に書いてあるのは全く知らない人のことのようで、想像もうまくできない。
どんどん知らない絢斗が増えていく。私の知らない話が増えていく。
彼の手紙を読むのが辛くなってきたのは、その頃からだ。
楽しい、嬉しい、そんな感情が綴ってある。私は今も悲しくて寂しいのに。ぽっかり空いた穴が塞がらなくて、夜になると辛くて苦しいのに。
でも彼と繋がっていられるのは手紙しかないから、自分の中にある虚しさには見て見ぬふりをした。
読むのが憂鬱になった。返事を書く筆が段々と遅くなった。
中学生になり、私は彼に返事を出すのをやめた。
『ななちゃん、元気ですか?
こないだの手紙はちゃんと届きましたか? 返事がなかったので心配です。』
罪悪感から、次第に封も開けなくなった。
郵便受けに封筒が入っていたら、それだけで苦い気持ちになる。未開封の手紙が積み重なっていく。
私が返事をせずに無視し続けても、彼は月に一度、必ず手紙を送ってきた。
『暮町 絢斗』
漢字の苦手だった彼が、綺麗な字で自分の名前を綴っているのを見た時、もうあの頃の絢斗は戻らないんだ、と物凄く悲しくなった。
***
「でも、今年同じクラスになれて嬉しいな。此花さんのこと前から気になってたんだよね」
隣に座る男が私の肩に腕を回す。
帰り道のバスの中、やけに密着してくる相手に悟られないようため息をついた。
「そういう嘘つかなくていいよ。どうせ私としたかったんでしょ?」
この人はムードを大切にするタイプか、と分析し、少々げんなりする。優しく扱ってくれる男の人は好きだけれど、歯の浮くセリフばかり並べる男は嫌いだ。
「あー、結構ドライな感じ? いいね。楽で助かるよ」
途端、男の空気が一変した。私との距離を僅かに空けて座り直し、口の端で浅く笑う。
どこか物騒な視線に胸の奥がざわつきながらも、私は無表情を貫いた。
「日比野くんの方こそ、そういう感じなんだね」
さほど長くない毛先。制服はしっかりと校則通り着用していて、装飾品も一切身に着けていない。
彼は私と同じ理系クラスで勉学に真面目に励んでいる、優秀な生徒だ。
「生徒会長様がこんなことしていいの?」
小首を傾げて挑発的に微笑んでみる。
彼は目を細めると、「やだな」と肩をすくめた。
「何もしてないよ。まだ、ね」
非の打ち所がないように見える優等生。それは彼の表向きな顔だ。
三年生になるまで同じクラスにならなかったから、今まで一言も話したことはない。生徒会長ともなればさすがに有名人だし、名前と顔は知っていた。
色んな人と関係を持ったことが原因で、実は私もちょっぴり有名人なのだ。頼めばすぐやらせてくれるとか、その他諸々、あまり大きい声では言えないような内容が付随しているけれど。
日比野くんは私と正反対で、品行方正、という四文字がよく似合う人だった。
絶対に関わることなんてないと思っていたのに、今朝机の中に入っていたのは確かに彼からのメモだった。
『放課後、俺と遊びませんか』
自分の目を疑った。でも実際、彼はさりげなく私と同じバスに乗り込み、うちの制服を着た人が完全にいなくなったタイミングで、私の隣にやってきたのだ。
「これ、みんなには内緒ね。バレたら俺、生徒会長やってられなくなっちゃうから」
「そこまでして生徒会長やる意味が分かんないけど」
「いやぁ、常に人の上には立っていたいでしょ? そのためには権力って一番便利なんだよね」
「最悪」
「照れるね」
彼と大して中身のないやり取りをしていたら停留所に着いた。
降りて数分歩けば、見慣れたアパートが近付いてくる。
「最初に言っとくけど、うち狭いからね。あとあんまり長居はしないで」
「大丈夫大丈夫。さくっと終わらせて帰るよ」
ひらひらと手を振る日比野くんに納得し、ほんの少しだけ歩くペースを上げた時だった。
「奈々ちゃん?」