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「あっつー。てんちょー、アイス奢って」
「アイス食べないと働けない~。いらっしゃいませも言えない~」
「はいはい口だけじゃなくて手も動かす」
真夏の店内は地獄だ。店内、といっても主にキッチンだけれど。
「此花さん、それ持ってったら休憩入っていいよー」
アイスをせがむ学生アルバイトたちを綺麗にスルーし、店長が私にそう言い渡した。
「分かりました」
「最近毎回ロングだけど疲れてない? すごい助かってるけどさ。啓介もなかなか入れないし」
井田くんとは結局、少し気まずいままだ。一度もシフトが被っていない。彼も受験を控える三年生だし、夏休みはあまり出勤できないと聞いていた。
「大丈夫です。どうせ暇なので」
常に動いていた方がいい。余計な心配をしなくて済む。
なるべく疲れて帰った方がいい。寝付きが良くなる。
端的に返事をした私に、店長は「そう?」と安堵した様子で息を吐いた。
その日はあまり混んでいなかったこともあり、予定より一時間早く上がらせてもらうことになった。
「顔色良くないし、きっと疲れ溜まってるんだと思うよ。ご飯食べてしっかり寝なね」
帰り際、パートのおばさんに労いの言葉をもらい、ようやく疲れているのだと自覚する。自覚した途端、急に体がだるく感じた。
そういえば昨日からずっと頭が痛い。そのせいか分からないけれど、食欲も落ちている。
駅から家までの道中、照りつける夕日に眩暈がして何度か立ち止まった。どうにか家の目の前まで辿り着いた時には完全にくたくたで、思わずしゃがみ込んでしまう。
「……奈々ちゃん?」
前方から飛んできた声は澄んでいた。
正直顔を上げる余裕はなく、返事をしようにも掠れた声しか出ない。
「どうしたの? 大丈夫?」
相手が持っていた荷物を道に置く。ペットボトルのお茶、長ネギ、卵。断片的に情報が脳に入ってくる。
視界の端でウェーブのかかった髪の毛が揺れるのを見た。
「立てる? 肩貸すから、とにかく中に入りなさい」
体を動かすのに精一杯で、全く頭が回らない。
口を開くことができたのは、家のベッドに横たわりながら、キッチンに立つ彼女の後ろ姿を眺めている時だった。
「……なんで、」
喉の奥で言葉がつっかえる。私の方を振り返って、彼女が首を傾げる。
「ん? 何か言った?」
その動作に悪意は一ミリもない。懐かしさがこみ上げて、胸が苦しくなった。
「なんでなの、沙織ちゃん……」
歩道で蹲る私に声を掛けてくれたのは、紛れもなく沙織ちゃんだった。
背中をさする手が、柔らかい喋り方が、昔を思い出させる。優しくて面倒見のいい、理想のお母さん。
もう会えないと思っていた。私が絢斗を選んだから、絢斗が私を選んだから、その優しさは七年前に葬られたのだと思った。
「私のこと、なんで助けたの……?」
嫌いでしょう。憎くてたまらないでしょう。煩わしくて、鬱陶しくて、今すぐにでも消えて欲しいと思っているはずだ。私が沙織ちゃんなら、間違いなくそう思うはずだ。
それなのに、どうして。
「なんでって言われても……具合悪そうだったから」
濡れたタオルを片手に、彼女がこちらへ近付いてくる。首に巻いておきなさい、と頭を軽く持ち上げられた。
「たぶん熱中症ね。ちゃんと体冷やして、水分たくさん摂らないとだめよ」
「沙織ちゃ、」
「今はとにかく寝てなさい。夕飯作ったらまたこっちに来るから」
何か食べたいものある?
最後に付け足された質問。そんなことを聞かれたのは、本当にいつぶりだろう。
「……沙織ちゃんの、生姜焼き」
思い浮かんだものをそのまま口にすると、「それが食べられるなら心配なさそうね」と彼女は肩を揺らした。
「ごちそうさまでした」
時刻は午後八時過ぎ。あれから私は一時間ほど眠っていたらしい。
宣言通り再びこちらに戻ってきた沙織ちゃんは、生姜焼きとおにぎり、それからスープポットに豆腐とわかめの味噌汁を入れて持ってきてくれた。
自分でも恥ずかしいくらいたくさん食べてしまって、昨日までの食欲のなさは何だったんだ、とため息をつきたくなる。
「ちょっと顔色良くなったわね。良かった」
微笑んだ彼女の目尻が緩やかに垂れ下がる。
『沙織ちゃんは、奈々ちゃんのこと嫌いなんかじゃないよ』
やっぱり分からない。以前向けられた鋭い視線も、いま向けられている穏やかな表情も、どっちも本物だからだ。
好きか嫌いかじゃなくて、好きと嫌いが混在している。
「絢斗とは、会ってないんだってね」
私の胸中を見透かすように、沙織ちゃんが切り出した。無意識のうちに身構えてしまう。
「……満足ですか」
絢斗が私に会いたいと思わないように関係を終わらせろ。それが当初の彼女の要求だった。
全くそうした覚えはなかったのに、結果として絢斗はいま私に会おうとしていない。関係が終わったかは定かでないけれど、そもそも始まってすらいなかった。
ああ、でも確かに、「幼馴染」という関係は終わったのだ。
「満足?」
彼女が目を伏せて自嘲気味に笑う。
「いいえ。完敗よ」
予想外の単語に少なからず戸惑った。
テーブルの上、沙織ちゃんの手がぎゅっと握られている。
「あなたは一切退かなかった。誤魔化しもしなかった。私は狡くて卑怯だったのに……ばれなければそのまま隠すつもりだった」
「……絢斗への、気持ちをですか」
彼女が顎を引いて頷く。
「気持ち悪いって言われた時に、ショックだったの。奈々ちゃんに嫌われたことが、すごくショックだった」
言葉を失った。全く知らなかった、知る由もなかった告白を受けて、動揺を隠せない。
「私は母親失格。その通りよ。だって、ずっと、……絢斗のことを、愛せなかったから」
「え……?」
「本当は絢斗のことがずっと苦手だった。夫さえいれば良かったの。夫の子だから愛せるって思っていたのに、全然愛せなかった。最低でしょう?」
絢斗とは血がつながっていないのだと、彼女は言った。
「あなたに会ってから絢斗はすごくいい子になった。絢斗を動かすのは私の言葉じゃない。いつだってあなたの、奈々ちゃんの言葉よ。それが悔しかった。この子さえいなければって思った。私が絢斗を愛していないからだって思った。愛さなきゃって、思った」
嫉妬、後悔、自己嫌悪、そして、強迫観念。捻れて絡まって風化して、出来上がったのは愛情か恋情か。
愛の裏には必ずと言っていいほど憎しみがある。好きか嫌いかじゃない。好きだし嫌いなのだ。
沙織ちゃんは絢斗のことが好きで嫌いだった。私は沙織ちゃんのことを軽蔑すると言いながら、過去の温もりを忘れることは決してできない。
『奈々ちゃんに嫌われたことが、すごくショックだった』
沙織ちゃんにとって、私も好きで嫌いな存在だったのだと、思っていいのだろうか。
「ごめんね。ごめんなさい……それが、絢斗とあなたを引き離していい理由には、ならないのにね……」
俯いた彼女に、もういいです、とはお世辞にも言えそうになかった。話を聞いて、じゃあしょうがないですね、とも思わなかった。
だって、絢斗はそのせいで何年も苦しんだのだ。私も少なからず辛かった。
彼女の考えに賛同する日は来ない。何度繰り返しても私は彼女を軽蔑するし、気持ち悪いと言うのだろう。
「……それだけじゃ、ないですよね」
「え?」
先ほどから感じていたこと。沙織ちゃんが、どうして今になって私にこんな話をしているのか。
「絢斗に、何かあったんですか」
助けを求められているような気がしてならなかった。助けてと、彼女の言葉の節々から発せられているような気がした。
沙織ちゃんが顔を上げ、唇を噛む。
「奈々ちゃんには、絢斗のことが何でも分かるのね」
己に課していた義務を放棄して安堵したような、脱力感を含んでいた。ある種、諦めにも似た声色だった。
「分からないです。絢斗が何を考えてるかなんて、分かったことは一度もないです」
いつも突拍子のないことを言って私を困らせる。見た目と反して頑固だし面倒だ。
そういう絢斗だったから、明けない夜から私を連れ出してくれたのだと思う。
「でも、私のことを考えてるんだっていうのは分かります。私も、絢斗のことばかり考えてるので」
それが私たちだった。周りのことが全然見えていなくて、二人で完結していて、その箱庭はたくさんの犠牲の上に成り立っている。
まだ諦めなくていいのだろうか。ずっと一緒にいる、その未来を選ぶために、絢斗はいま戦っているんだろうか。
沙織ちゃんがどこか眩しそうに目を細めた。
「……最初から、私がどうこうするような二人じゃなかったわね」
彼女の瞼がそのまま下りる。沙織ちゃんは私に頭を下げ、こう告げた。
「お願い。絢斗に、会って欲しいの」




