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「明日から早速来てもらおうと思うけど、大丈夫?」
元々コンビニで週に三日ほど働いていたけれど、ファミレスのバイトも追加することにした。
正直もう勉強も根を詰めてやる必要はないし、一人暮らしのために貯金はしておきたいし、考え事をする時間を極力減らしたい。
店長だと名乗る男性の問いかけに頷き、学校が終わったらそのまま向かいます、と伝える。
ちょうどその時、奥からばたばたと騒がしい足音が近付いてきた。
「てんちょー、またサラダなくなりそうなんですけど! キッチン入って下さい! なるはやで!」
「おい啓介ぇ、俺いま面接中なんだって」
「さっき採用って聞こえた! もう終わったっしょ!?」
ダークブラウンの短髪が真っ先に目に飛び込んでくる。顔を出したのは、いかにも快活そうな男の子だった。
私の視線に気が付いたのか、彼がこちらに向き直る。
「あ、井田です! よろしくお願いします」
無駄に声が大きくてうるさいタイプなのかと身構えたけれど、そういうわけではないらしい。爽やかな笑顔が印象的で、人の良さが滲み出ている。
「此花です。よろしくお願いします」
単調に自己紹介を終えたところで、店長が「じゃあそういうことで」と腰を浮かせる。そのまま慌ただしそうにキッチンへ消えていった。
店長を急かした張本人はと言えば、なぜかこちらに歩み寄ってくる。
「は~~~疲れた~~~」
盛大なため息と共に、彼が腰を下ろした。
「……あの、戻らないんですか」
「え? ああ、今から休憩なんで! 店長がピンチヒッターっす」
なるほどそういうことか、と納得したと同時、相手が尋ねてくる。
「此花さん、何年生なんですか」
「高三です」
「まじ? 俺も。同い年かー、良かった」
一体何がどのように良かったのかは不明だ。
変に会話を繋げてしまったせいで完全に帰るタイミングを失ってしまい、気まずさを覚える。
「此花さんって、土日とか結構入れる感じ?」
「あ……バイトもう一つやってるから両方は難しいけど、どっちかなら」
「へえー、すご。掛け持ちってめちゃくちゃ忙しくね?」
「まあ、うん。ちょっと……今は、忙しい方が何も考えなくて済むっていうか」
今の回答は間違えた、と自分の中でも瞬時に分かった。
案の定、井田くんは黙りこくってしまう。しかしその数秒後、
「チョコ食う?」
呑気なトーンで彼が差し出してきたのは、言葉と違わず個包装のチョコレートだ。
流れが全く掴めずに面食らった。受け取るのを戸惑っていると、「嫌い?」と重ねて問われる。
「あ、いや……ありがとう」
「ん」
既に口の中にチョコレートを含んでいるらしい。井田くんは私の返答に頷き、それ以上は何も詮索してこなかった。
気遣われたのか彼がマイペースなだけなのかは判断がつかないけれど、悪い人ではないのは間違いないだろう。
『好きだよ』
ふとした時に何度でも思い出す。
あの夜からもう十日経った。絢斗とは一度も会っていない。電話を掛けても折り返しの連絡はなく、ただ虚しさが募るだけだった。
好きって言ったのはそっちのくせに。どうして私が好きって言っちゃいけないんだ。
私のためなら何でも捨てられるんじゃなかったのか。一人にしないって、一緒にいるって、言ったじゃん。
『ずっと、僕がそばにいるよ。泣きたくなった時、絶対に離れない。僕が一緒にいるから』
絢斗も私のこと言えないくらい嘘つきだね。私、今ものすごく泣きたいよ。でも隣にいないじゃん。
「大丈夫?」
井田くんの声で我に返った。拳を強く握りしめていたせいで、手の平に爪の跡が残っている。
「……うん。大丈夫」
チョコレートを口に放り込む。甘ったるくて少し嫌になった。
『ごめんね……』
絢斗を信じたかった。彼があそこまで苦しんでいるのはどうしてなのか、知りたかった。
だって七年間、めげずに手紙を送り続けてきた絢斗だ。意味もなく私を突き放せるはずがない。そこだけは自信を持って言える。
「私、帰るね」
今度は私が待つ番なのかもしれない。一か月経とうと、一年経とうと、――七年経とうと。
ボールペンをしまい、鞄を持ち上げた。
「あ、此花さん、これ忘れて……」
井田くんの呼びかけに振り返る。
彼が指したのは私の体操着で、それを凝視したまま固まる彼の様子に、思わず首を傾げた。
「…………“なな”?」
体操着に記入された私のフルネームを見て、井田くんが呟く。
さして珍しい名前でもないのに、何が引っ掛かったのだろうか。それとも、ただ読み上げただけか。
「あ、ごめん……最近よく聞く名前だったから気になっちゃって」
「え?」
「や、何でもない! こっちの話!」
明日からよろしく、と話を終わらせた彼に追求する気も失せ、賑やかな店を後にした。
***
六月が終わって、夏がやって来た。季節が進もうと現状は何も変わらない。
その日も学校の後、バイト先へ足を運んだ。
「おー、おはよ」
従業員スペースで単語帳を開いていた井田くんが、私の気配に気が付いて顔を上げる。
「おはよう。……勉強、偉いね」
「はは、いやテスト近いからさ。家帰ってもどうせやらないし」
出勤まではまだ少し時間がある。テストが近いのはこちらも同じだ。何となく触発され、ノートを取り出した。
ぱらぱらとページをめくる音が場を支配していく。
「あのさ、答えたくなかったら無視してもいいんだけど」
井田くんが沈黙を破った。
つと視線を彼の方に向ければ、真正面から目が合う。
「誰かと付き合うってなったら、此花さんは何を決め手にするタイプ?」
は、と小さく声が出てしまった。慌てて唇を引き締め、相手の真意を確かめるべく瞳を覗き込む。
「……なに、急に」
「よく言うじゃん? やっぱり顔が大事とか、優しい人がいいとか、金銭感覚が合う人とか、その他諸々」
質問の意味を聞き返したわけではなかったのだけれど、伝わっていないようだ。
井田くんの辞書の中には、脈絡という文字がない。いつも唐突でストレートだった。
「んー、じゃあ聞き方変える。ああ、この人のこと好きだなーって思うのって、どういう時?」
何が楽しくてそんなことを話さなければならないんだ、と面倒に思いつつ、答えを模索する。
井田くんの口調はあっさりとしていて、先程の前置き通り、私が拒めばすぐに退くのが目に見えていた。答えても答えなくてもいい。そのプレッシャーのなさが私の口を動かす。
「キスしたいって思った時」
私がそう述べると、彼は目を見開いた。
「直球だね」
「だってそうでしょ。かっこいいとか可愛いとかぼやかした言い方してるけど、結局好きかどうかなんて、キスできるかどうかだよ」
だから愚かなのだ。いくら優しくてもいくら美しくても、欲の前ではただの装飾品と化す。
イケメンとかお金持ちとか、そういう称号は万人が分かる基準値に過ぎない。そんな物差しでは本当の「好き」は測れない。
強烈に惹かれて、相手のことが欲しくて堪らなくなって、全てを知りたくなる。触れて確かめたくなる。
キスもセックスも、本来は恋の延長線上にあるべきなのだ。行為だけを得て満足してしまうのは、愛されているような気がするから。簡単に心を満たせるから。
『奈々ちゃん、かわいい』
あの時、至近距離で瞳がぶつかって、そのままキスされるんじゃないかと思った。されてもきっと受け入れた。
もう、私たちは戻れない。
「ごめん。俺は、よく分かんないんだよな。今まで彼女いたことないし、モテないし。でも、」
井田くんが真面目な顔で続ける。
「いま目が合ったなーとか、手繋ぎたいなーとか、そういうのも多分、好きじゃん。よく分かんないけどドキドキした、とか、なんかふわふわしたぼやけてる気持ちも、『好き』に入ると思うんだ」
綺麗事を言っていると思う。本気で人を好きになったことがないから言えるのだと思う。
それほど純粋な温度で恋に憧れられる彼を、羨ましいと思ってしまう。
「そういうのって、此花さんにとってはノーカン?」
何よりも、誰よりも強く愛してくれなきゃ意味がない。どうせ崩れ去る城なら、一時でも構わないから窒息するほど溺れさせて欲しい。
ふわふわと頼りない、いつか消えてなくなると分かりきっているぬるま湯なんて、そんなの。
「……そうだね」
肯定を返して俯く。
井田くんが立ち上がった気配がした。
「まあ、人それぞれだよな、大事にしてるものって」
俺、着替えてくるわ。
そう切り上げた彼に、どこか安堵した刹那。
「でも、知ってて欲しいんだ。自分の中の大事なものまで変えなくていいけどさ、違うものを大事にしてるやつもいるんだって、ただ、知ってて欲しい」
弾かれたように顔を上げる。井田くんの表情は見えなくて、微かなざわめきが胸の奥で溶けた。




