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「帰っちゃった。からかいすぎたかな」
絢斗が去っていったドアを見つめていると、母が呑気に呟く。
そんな軽い調子であんなことを言ったのか、と恨みたくなった。だって分からない。怖かったのだ。あんなに淡々と話す絢斗を見たのは初めてだったから。
得体のしれない焦燥感がじわじわと体を蝕む。絢斗を引き留めなければいけなかったような気がして、でもそうしたところであっさりと出て行くような気もして。
たった一つ、何かが明確に変わってしまった空気の揺れだけは感じていた。
「……聞きたいことがあるんだけど」
視線をゆっくりと母に戻す。ただ見つめていただけか、それとも睨んでしまっていたかは自分では分からない。
「お父さんと離婚した理由って、何?」
今更だと思う。これまで「どうでもいい」と退けてきたくせに、焦って手繰り寄せようとしている。
『成長していく度にあいつに似ていく。やっぱり、顔もそっくりになるもんだ』
父の言っていたことが本当なら、私が母の性質を強く受け継いでいるのなら、事実を知らなければいけない。母の過去を知って、きちんと軽蔑して、情を捨てなければならない。
『何かを選ばなきゃいけないなら、どっちかを捨てなきゃいけないなら、僕は奈々ちゃん以外、何もいらないって』
『あいつからは離れなさい。そうしないと、お前が幸せになれない』
何かを選ぶと同時に、何かを捨てること。絢斗が何年も悩んで苦しんで導き出した答え。
全部を大切になんてできない。それは絢斗だけではなくて、私自身にも言えることだった。
たとえ「大好きだった母」を心の中で殺すことになったとしても。
「お父さんに会ってきた。もう出すお金はないって。私も、そこまでして大学に行きたくないし行くつもりもない」
「……会ってきたって、」
「嘘つくのも誤魔化すのもなしで答えて」
吸い込んだ空気が震える。
「浮気してたって、本当?」
母の目線が床に落ちた。その口からため息が漏れて、私をあっさり突き放す。
「だったら何?」
心底煩わしそうな声色に、交わりさえしない視線に、希望の糸は切れてしまったのだと実感する。
心の中でナイフを握った。心臓を二つ刺した。
一つは「いつか私を大切に愛してくれるかもしれない母」で、もう一つは「理想の母を待ち続けている自分」だ。
期待をするから辛くなる。幸せを他人に委ねるから苦しくなる。
私は私のために、幸せになるために生きなきゃいけない。
「私、卒業したら出てくから。いくらでも男連れ込めばいいし、浮気もすれば?」
だけど、と勢い込んで続ける。母の伏せられた目は上がらない。
「私はあんたと違って浮気なんてしないから。絶対幸せになってやる。結婚して子供産んだとしても、その子にこんな思いさせない!」
言うだけ言ってベッドから降りた。制服に着替えて鞄を引っ掴み、外へ出る。
学校へ向かう道すがら、涙が出そうになるのを必死に堪えた。
「分かった。じゃあ本当にそれで進めるからな」
返事もろくにせずただ頷いた私を、佐々木先生は咎めなかった。母に勝手に電話を掛けた先生も先生だから、おあいこだと思う。
授業が全て終わった後、職員室に寄った。
この二日間、色々考えることがあったけれど、将来についての答えはなんら変わらない。
私は母から離れるべきだった。切り捨てるものは母そのものというよりも、過去へのしがらみと、その延長線上にある未来への期待だ。
「失礼しました」
浅く頭を下げて職員室を後にする。
重たい鞄の中身は教科書という名の知識だ。もう自分には必要のない、価値のないものに成り下がってしまった。社会に出るというのは、多分そういうことだ。
学校を出ると同時にスマホを手に取り、何の着信も連絡もない画面を見つめる。
『奈々ちゃん。僕、帰るね』
胸の奥が妙にざわついていた。自分の内側はずっと騒がしいのに、周りは静かなまま、時間だけが過ぎ去っていく。
バスを降りて家の最寄り駅に着いても、絢斗が大声で私を呼びながら駆け寄ってくるなんてことはなかった。
呆気なく家に着いて日が暮れて、夜がやって来る。寝ようとしても目が冴えてしまってどうしようもない。
掛け布団を頭まで被ろうとした時、スマホが着信音を伴って震えた。
「もっ、もしもし?」
反射的に起き上がり、すぐに応答した。脳内で思い浮かべ続けていた相手からの着信だったからだ。
「……絢斗?」
電波の向こうがやけに静かで不安になる。
繋がっているか心配になって耳からスマホを離す直前、ようやく相手の空気が揺れた。
「ごめんね、こんな遅くに。奈々ちゃん、寝てた?」
深夜だからだろうか。普段より幾分落ち着いたトーンだった。こちらが喋る隙もないくらいのマシンガントークをかます絢斗はいないらしい。調子が狂ってしまう。
「いや……大丈夫。まだ寝てなかったよ」
「そっか」
近くの道路を車が走っていく音がする。夜の町の音だ。それが聞こえるほど穏やかで静かな会話をしている事実に、まだついていけていない。
元気がない、とか、そういう浅はかな表現は今の彼に似合わないと思った。
「奈々ちゃん。今から会いたいって言ったら、怒る?」
その声はどこまでも優しかった。同時にすごく苦しそうだった。
私の心臓を容易く握って離さない。絢斗は私を困らせる天才だ。
「怒らないよ」
今、泣きたいくらい嬉しいよ。自分でもこの感情がどこから湧いて生まれたのか分からない。
「じゃあ、そっちに行くね。ちょっと待ってて」
電話が切れる。不通音が私の中の憂いを煽る。
僅かな空白が耐え切れず、玄関から外に飛び出した。階段を駆け下りて道路の反対側を見やると、絢斗が律儀に赤信号を待っている。
「奈々ちゃん!?」
道路を挟んで彼の真ん前まで歩いていけば、さすがの絢斗も私に気が付いた。信号が変わった瞬間、慌てた様子でこちらに向かって走ってくる。
「待っててって言ったのに! こんな時間に一人でいたら危ないよ!」
「家の前だから大丈夫」
「そんなの分かんないじゃん!」
真剣に注意してきたかと思えば、絢斗はすぐに黙り込んだ。私の顔をじっと見つめて一歩詰めてくる。
「……どうし、」
たの、と、弱々しい声で付け足す羽目になった。絢斗の両腕が、私の肩を抱いたから。
「絢斗」
抱き締める、よりも、抱きつく、が適切かもしれない。そういった力加減で、温度で、彼はいま私を手繰り寄せていた。
「絢斗、どうしたの」
気持ちが高ぶったわけでも、嬉しかったわけでもないのは分かる。
触れてきた人の感情を察することなんて、今までいくらでも、本当にいくらでもあったのだ。それを知ったところで虚しくなるだけだけれど。
「……三分、だけだから」
酷く不安定な声が、縋るように言葉を紡ぐ。
「三分だけ、確かめさせて……奈々ちゃんは何もしなくていい、僕が、勝手に」
「絢斗?」
泣いていた。彼の震える喉を、背中を、私は見ていることしかできなかった。
熱い吐息が何度も肩を撫でる。強く食い込んだ指先が痛覚を刺激する。
喚き散らすわけでも、しゃくりあげるわけでもなく、静かにただ堪えるように泣く絢斗を、初めて見て知った。
大人の男の人は、こうやって泣くんだろうか。
そこに「あやちゃん」はいなかった。とっくのとうに、いなくなっていたのかもしれない。
昔と同じようにずっと一緒にいたくて、変わらずにいる努力をすれば、私たちは隣同士、手を繋いでいられると思っていた。
無理なのだ。どんなに足掻いても、変わってしまったものを、変わっていないものとして扱うことはできない。絢斗の気持ちをなかったことにして、一緒にい続けることはできない。
だってさ、絢斗。普通の幼馴染はきっと、ハグなんてしないんだよ。
『私は、絢斗のことを、好きにはなれないよ』
絢斗は分かっていたのかな。私がやっぱり、すぐに嘘をついてしまう人間なんだってこと。
「……絢斗、」
夜風が涼しい。それは多分、体温が上がっているからなんだろう。
「好きだよ」
絢斗を失いたくないから、終わりが来て欲しくないから、怖いから。
好きになりたくなかった理由なんてたくさんある。でも絢斗が私のことを好きだと言った時点で、もう私たちは幼馴染ではいられなかった。
私も泣きたくなってきた。
消えたのは「ずっと一緒」と無邪気に誓った私たちで、残ったのは夜に抱き合っている男女だ。私は嫌というほど知っている。男女の間に生まれる愛とか恋とか欲の脆さを。
ばいばい、あやちゃん。そして、ハロー、愛しのインスタントヒーロー。
「奈々ちゃん、……ぼ、く、」
「いいよ。無理に喋らなくて」
いつの間にか広くなっていた絢斗の背中を、努めて優しくさする。
愛しいと思えるうちに、彼を大切にしたい。愛しさが憎しみに変わる瞬間は、なるべく遠い未来であって欲しいと願う。
どれだけ温かい気持ちで接していても、いつか壊れてしまうのが恋だ。
「ごめんね……」
絢斗が唸りながら必死にそう言うから、悲しいのに笑ってしまう。
そこは普通「ありがとう。僕もだよ」くらい返せないとだめじゃない? なんて、胸中で文句を垂れてみる。
思えば私は、この時どうして絢斗が泣いていたのかを知らなかった。ごめんね、の真意も、何もかも分かっていなかったのだ。
次の日から、絢斗は私と顔を合わせてくれなくなった。




